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「信号」「データ」「情報」「知識」「知恵」

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般若心経は「色即是空 空即是色」というフレーズがあまりに有名すぎて「色」は「空」であるという事は知っているが、「空」であるのは「色」だけではなく「受」「想」「行」「識」も「空」であることはあまり知られていないのではないだろうか。

「色」「受」「想」「行」「識」は「五蘊」といい、「五蘊」はすべて「空」であると観音様は仰った。聞きかじりの知識しかないので間違っているかもしれないが、「色」は認識の対象となる物質世界の存在のことで、「受」「想」「行」「識」は精神作用を表している。人は物質的存在である「色」を「六根」=「眼(視覚)」「耳(聴覚)」「鼻(嗅覚)」「舌(味覚)」「身(触覚)」「意(知覚)」を通して表層的に認識する、これが「想」。今、目の前にある物質的存在を表層的に認識すると、次に精神作用が働き、他の物質的存在や過去の記憶や知識と照らし合わせそれが何であるかを判断しようとする。この作用を「行」。「行」の結果、物質的存在が何であるかを認識できた状態。これを「識」。

例えば、目の前で小さくて黒い何かかが音を出してるとする。これが「色」。目や耳や鼻、身体を通して、それは黒く、小さく、丸く、温かく、ふわふわで、にゃーにゃ―という音を出している、という事を「受」を通して認識する。ここまでを「相」。この物質的存在を、過去の知識などと照らし合わせて何であるかを判断しようとする行為。これを「行」。その結果、黒い子猫が腹を空かせて鳴いている、という事が認識できる。これを「識」。

二千年の昔にこのような概念が作られていたことは、素直に驚くばかりだが、これら概念は情報システムを生業とする我々の現在の知識に照らし合わせてみても遜色ないことは、さらに驚きを隠しきれない。

たとえば、人間における「六根」は情報システムではセンサーだ。センサーは光の波長(色)、空気の振動(音)、圧力、温度などの検知した物理特性を「信号」に変換することができる。この作用は「受」である。変換された「信号」は「データ」として蓄積され、時間と共に温度が上がっているなど表層的な理解を促す。すなわち「想」。「想」は「データ」に置換えられるように、物質世界、物理世界のあるがままの理解、ということができる。「データ」は、他の「データ」と組み合わされ加工されることで、人間が考える、もしくは判断するに必要な「情報」となる。この「データ」どうしを組みあ合わせ、または分解し、はたまた別の「情報」と照らし合わせ、人間が考える元ネタである「情報」にする作業を「行」といい、人はその「情報」から「知識」を得る。すなわち「情報」が精神作用のなかで「識」となるわけだ。

「知識」は、正しい行いをするための基本となるものである。この実践すべき正しい行いの事を「知恵」という。困ったとき、次の取るべき行動がより正しいものであるために「知識」を組み合わせて「知恵」を生み出す必要がある。誤解をおそれずいうのであれば「知識」はこの世の理を知ることだ。例えば山肌に田畑を開墾する際、ため池の上には作らない。それは水は高い場所から低い場所にながれるので、池の上に田畑を作ってしまうと水をやるのが困難になる。水が高いところから低いところに移動する。これはこの世の理である「知識」。だから水の確保が必要な田畑は池の下に作る「知恵」。因みに池の上に田畑を作るような理に反したことを「無理」といい、無理が通れば道理がひっこむ。

仏教では「色」を物質世界の存在、「受」「想」「行」「識」を精神作用と教えているが、情報システムがこのなかの「受」「想」「行」を個人の精神作用の世界からとりだしたのではないか、というのが本稿の論点である。何を意味するかというと、精神作用というのは個人のなかでクローズされた世界である。しかしこれが、情報システムによって個人から解放されオープンになると、複数の人たちの働きが加わり、より高度な「情報」が生み出されるのではないかということ。このことはひいては高度な「情報」が「知識」となり、より高度な「知恵」が生まれるのではないかという大胆な予想にほかならない。

因みに般若心経の「般若」は「知恵」の意味である。「波羅蜜多」は彼岸へ至る、という意味。彼岸は次のステップの世界である。人類が次のステップに至るための知恵の教え。そこに情報システムが拡張セットと関わってくるという説、胸熱と思わないか。

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