ムダをムダで終わらせないことの重要さ
勝手に、「ムダ」とは価値を生み出さない作業もしくは価値を生み出さないものの購入、と定義している。そうするとムダのムダたる所以は、価値を生み出さないことにあることが分かる。言い換えると如何なる作業も、如何なる購買も最終的に何らかの価値を生み出せば、それはムダではなくなる。
ムダなことはするな。ムダなものは買うな。しつこく言われることであり、あたりまえの話ではあるが、一方で最初は必要と思って行った作業や購入物が結果ムダになることは頻繁に発生するし、確実な成果を見込めないがために、もしくは確実な成果を見込めないことを理由にして、必要な作業や購入を実施しないことも多く発生する。実施しなければムダという判定はできない。
これらは実施時の判断だけでムダを確定していることに他ならなず、特にVUCAの時代では危険な方法だと思われる。例えば戦力にならなかったからムダになるからと採用見送ったり、売れなければムダになるからと仕入れを見送ったり。VUCAを前提にするのであれば、応募してきた人材が必ず戦力になる保証はないし、絶対に売れるものが何かも分からない。大切なことは、採用した人材を戦力になるように育成することであるし、仕入れたものどうやって売るか知恵を絞ることである。
そして、例え育成した人材が戦力になる前に辞めたとしても、どうしても仕入れた在庫が売れ残ったとしても、育成した努力と売るために絞った知恵は次の価値につなげることができる。こうして、ムダをムダで終わらせないことが大切だ。ムダとは絶対的なものではなく、その後の行為で変動する相対的なものなのだ。
その認識がないと、気づかない間にムダを積み重ねてしまっている可能性もある。決めつけろ、サイコロを振れ、占いを信じよ、などと言うつもりはないが、人材の採用や商品の仕入れなど、ある一定の考慮を超えれば、あとはやってみないと分からない判断というものはある。結論の出ないことをウジウジ考える行為も、またムダに他ならない。できる範囲の考慮を行えば、あとは結果をムダにしないと覚悟を持って決めること事こそが肝要である。
鳥井信治郎の「やってみなはれ」の源流は、ここら辺にあるのではないかと推察している。