因果応報
熊の被害がメディアを賑わしている。同調して、熊が可哀そうクレーム問題も。
熊が人を襲うのは人側に原因がある(だから殺すのは可哀そうだ)、という主張は正常性バイアスのひとつである、という話を聞いてなるほどなと思った。
この国には因果応報とい考え方が浸透している。その人に悪いことが起ったのは、その人が過去に悪い行いをしたから。もとは、だから善いことをし悪いことはするな、という仏教の教えではあるのだが、近ごろでは、親の因果が子に報い~(古い!)ではないが、自分の行いだけではなく親や血筋、地域など自分ではない因果が自分に応報される場合もあるようだ。
この考え方からすると、熊に襲われることは悪い出来事なので、襲われた人は過去になんらかの悪い行いをしたことになる。でもニュースから流れてくる襲われた人が過去にどんな悪いことをしたかは分からないので、人(その地域)が熊の生活圏を侵食した(悪行)から、熊に襲われたのだと因果応報を完成させる。言い換えると、自分はその悪行を行っていないから安全(と思いたい)、という正常性バイアス。
全てのクレーマがこの正常性バイアスで迷惑電話をしているわけではないだろうが、このような心理的作用もあるのではないかと思う。自分の不安を他人への攻撃に転化する行為はよく目にする。
しかし現実世界では、善い行いをしたから良いことが起ることも、悪い行いをしたから悪いことがおこることも殆どない。起こったことと行いは、ほぼ無関係だ。だから、ーもしかしたら偶然かもしれないがー善行をした人に良いことが起こり、悪行をした人に悪いことが起れば、ニュースや物語の題材となる。
でもきっと、その人の行いがその人に降りかかると思わないと人は不安になるではないかと思う。だって悪行ばかりの人が幸せになるなんて許せないし、善行ばかりのひとが不幸になるのはやるせない。だから、因果は応報しないとうすうす感じてはいるが、そう思いたくないからバイアスになってしまう。
因果応報がバイアスである、というのが本稿の趣旨だが、実は因果応報がバイアスであるというこそがバイアスである(因果応報は実際に起こる)、なのではないかとも疑っている。それは生業であるシステム開発。この世界では、おかしな振る舞いが起る時は必ず自分が書いたプログラムが間違っているし、手を抜いた設計やテスト不足は必ず、禍となって返ってくる。しかも、何倍にもなって。
だから、この業界に足を踏み入れている人は、絶対に因果は応報すると思っていた方がよいと思う。