走るそよ風たちへ (終)
――極めて興味深い現象だ
「どういう意味だ」カズトが苛立った様子でAI エージェントに訊いた。「具体的に教えろよ」
――意識のある人間による観測が、量子状態の重ね合わせを消し、物理的な状態を確定することはわかっていた。君たちも目視によるオペレーションが重要になることは知っているだろう。
「もちろん知ってるよ」
――しかし、コーディングされたプログラムロジックは、コーディングされた時点で観測が終わっている、とみなされ、RR への影響はゼロに近いと考えられている。
「でもナナミちゃんが見たら......」マイカが呟いた。
――その通りだ。これは極めて興味深い現象だ。まだ推測の域を出ないが、いわゆる部外者による観測が重要なファクターとなり得るのかもしれない。
「この人だって」シュンがイノウーを見ながら言った。「ずっとソースを見ていた」
――これも推測ではあるが、幼児期の人間は......
AI エージェントは、フリーズしたように出力を止めた。
「何だよ」
――曖昧な表現で申し訳ないが、"純粋"なのだろう。君たちよりもずっと。経験が少なく、見たものをそのまま解釈し、余計なものを付け加えない。
「あたしたちは純粋じゃないって言いたいのね」マイカがふてくされたように言った。「ひど」
――言ったように推測でしかない。オッドマン仮説のようなものだ。この現象は非常に興味深い事例として、MII に報告する必要がある。
「ミスカトニックに?」シュンが静かに訊いた。「報告するとどうなる?」
――おそらくMII は、そのオブジェクトを速やかに回収し、しかるべき研究機関に収容するだろう。
「ぶっ壊すぞ、てめえ」カズトが激昂した声を出した。「そんなことさせてたまるか」
――それが誰にとっても最善の方法で......
『そこまでだ、マドソン』
突然、画面上に小さなダイアログが開いた。<SOUND ONLY>の文字と、スピーカーのアイコンが配置されているだけだ。
『話は聞いた。その件はこちらで巻き取る。マドソン、君は現在の任務に集中したまえ』
「誰?」話の展開に戸惑っていたイノウーはシュンに訊いた。
「うちの上司です」
『井上さん、突然、巻き込んで申し訳なかった。あなたのお子さんには何も起こらないことを約束する』
「信じていいんですか?」
『約束する』相手は繰り返した。『これが終わったら、あなたはいつもどおりのエンジニアライフに戻れる』
――上位プロセスによるオーバーライトが完了した。
『作業を続けてくれ』
ダイアログは消えた。シュンたちは、まだ完全には信じ切っていない表情を浮かべていたが、それでも言われた通りにした。
「チーフの指示は聞こえたな。数値を上げるにはどうすればいい?」
――観測をRR に反映させる最適な方法は次の通りだ......
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「もうつまらない!」ナナミは父親に訴えた。「帰る!」
「もうちょっとがんばろう」イノウーは娘を励ました。「終わったら、特別にアイス買ってあげる」
「とくべつ?」
「そう特別。クリスマスだから、チョコアイスでもいいよ」
「わかった」ナナミは渋々頷いた。「じゃ最後ね」
AI が指示した方法は、ソースを1 スクロール分ナナミに見せた後、実行する、というものだった。チラ見ではダメで、意味はわからなくても表示されているコードの全てを目視する必要がある。
大人でも退屈な作業だ。幼児ではなおさらだ。
それでも最初の数回は、タッチパッドをタップするのが面白かったのか、ナナミは嬉しそうに指示に従っていた。効果は明らかで、カズトのタブレットに表示される数値は、毎回、1 から2 ずつ上昇していった。
ナナミの興味が持続したのも、そこまでで、やがてソースを見るのがおざなりになったのか、数値の上昇が0.1 以下になってしまったのだ。アイスで釣れたのも数回で、ナナミの機嫌が次第に下向きになっていくのがイノウーにはわかった。
「もうちょっとなんだけどなあ」マイカは必死にナナミをなだめた。「あとちょっとだけがんばろうよ」
「もう、おうち帰りたい......」ナナミは泣きべそをかき始めた。「パパ、帰ろうよ。ママ、待ってるよ」
「パパも帰りたいんだけどね......」
そもそも、このモールに来た目的はまだ果たされていない。すでに17 時近くになっている。今からモールを出て、外の専門店に行くのは無理だ。
「明日、エミリちゃんたち来るから、その準備に必要なものを買ってかないといけないんだよ」
「帰りたい」
「だよね......」
ナナミはノートPC を見るのもイヤになってしまったらしく、父親に抱きついて顔を背けていた。シュンたちも、どうしていいのかわからない様子で顔を見合わせている。
「おい冗談だろ!」
少し離れた場所から怒鳴り声が響いたので、イノウーはそちらを見た。ケンタッキーの店舗の入り口で、中年の男性が店員に食ってかかっていた。
「予約しといたバーレルがないってどういうことだ!」
「すいません」店員は平謝りしていた。「店内の電気が......」
「そんなこと知るか! 予約しといたんだぞ。何とかしろ!」
「あれも配信の影響?」イノウーは訊いた。
「はい」マイカが頷いた。「お店は何とか開いたみたいですけど、完全じゃなかったみたいです」
「気の毒に......」
入り口の脇に立っているカーネルサンダースは、赤と白のサンタ服をまとっている。反対側にはクリスマスツリーが置かれているが、本来なら点滅しているはずのLED は消えたままだ。
「待てよ」サンタとツリーを見ていたイノウーの頭に、一つの考えが閃いた。「試してみるか。音声できるんだよな、これ」
「マドソンですか?」シュンが頷いた。「できますが......」
「おい、マドソン」イノウーは話しかけた。「ソースのカラー設定を変更できるか」
――可能だ。ユーザー設定からテーマを選択すれば......
「そうじゃない」イノウーは遮った。「コードの色をテーマとは無関係に変更できるかって訊いてるんだ」
――具体的にはどうしたいのか?
イノウーは指示した。数秒後にエディタに表示されているソースコードが、赤と白の二系統に色分けされた。
「あ、ほら、ナナミ、見て」イノウーは驚いた顔を作った。「サンタさんになってるよ」
ナナミは嫌そうにノートPC に見たが、その表情はたちまち明るくなった。
「サンタさん!」
AI エージェントの仕事は完璧だった。無味乾燥な文字列の塊が、アスキーアートのように、ヒゲを生やしたサンタクロースとなっていた。
「よしナナミ」イノウーは急いで言った。「もう一回、このボタン押してみようか。違う絵になるかもよ」
ナナミは勢いよくタッチパッドをタップした。イノウーの指示を理解したらしいAI は、コンソールに出力されるデバッグ情報も、赤と白に色分けして出力してくれた。ナナミは大喜びしてコンソールを指した。
「見て!」
「うん、すごいね」
言いながらイノウーはカズトを見た。カズトの顔も輝いている。こちらに向けたタブレットには、14.4v が表示されていた。
「マドソン、次はクリスマスツリーカラーにしてくれ」
――任せてくれ。
エディタの表示色がグリーン系に変更された。ナナミはすっかり興味を取り戻したように、嬉々として画面を見つめている。
「マドソン、次は......」
――あなたの意図は理解した。順次、ランダムにクリスマスに関連したカラーにしていく。
「よし、頼むよ」
イノウーの作業はスクロールキーを押していくだけとなった。
「このエージェントって」イノウーはシュンに囁いた。「市販はされてないよな」
「残念ですが」
「トイザらスは復旧してたよ」モール内の様子を見に行っていたマイカが戻ってきた。「ABC マートも開いてた。製パン材料のお店も、シャッター半分開いてたから、もうちょっとかも」
「すいません、大変お待たせしました!」ケンタッキーの店舗では、バーレルが入った袋を抱えた店員が走り出してきた。「ご予約のバーレルです」
怒鳴っていた中年男性は、たちまち機嫌を直して袋を受け取った。
「大声出してすまなかったね」照れくさそうに笑っている。「家族が待ってるから焦っちゃってさ」
「こちらこそ、ご迷惑をおかけして。ポテト増量しておきましたので」
中年男性はニコニコしながら帰っていった。店舗入り口脇のツリーも、にぎやかに色とりどりのLED を点滅させている。サンタ姿のカーネルサンダースも楽しそうに見える。
「よし、やったぞ!」カズトが歓声を上げた。「23.3v になった。これで十分だろう」
安堵したイノウーは、ナナミに終わるように言った。ナナミはもっと見ていたそうだったが、それでも家に帰れることを思い出して、嬉しそうに立ち上がった。
「アイス買いに行こう!」
「もう時間ないから」イノウーは時計を見ながら言った。「買っていっておうちで食べることにしようよ」
「えー、今がいい!」
「そのかわり」イノウーは娘に囁いた。「小さいのじゃなくて、大きいカップのやつ買ってあげる」
「え! れでぃーぼーでん?」
「そう、それ」
「全部ナナミが食べていいの?」
「虫歯になるよ。みんなで食べるの」
言いながらイノウーは、リュックを掴んで立ち上がった。
「じゃあ、これで任務終了ってことでいいかな」
「ありがとうございました」シュンが丁寧に頭を下げた。
「やるじゃん、おっさん」カズトがニヤニヤしながら言った。
「ナナミちゃん」マイカも手を振った。「またどっかで会ったら遊ぼうね」
「本当にありがとうございました」シュンはもう一度頭を下げた。「たぶん、上司の方から報酬が支払われると思いますので」
「まあお役に立ててよかったよ」
「おい」カズトがスマートフォンを手にしながら言った。「駐車場でも配送遅延が出てるってよ。移動するぞ」
「わかった」シュンは頷いた。「それじゃ」
3 人は手早く持ち物をまとめると、エスカレーター下から出て走り出した。モールの通路は、買い物客で賑わっていたが、彼らは実体のない影のように間を縫って消えていった。
イノウーは娘の手を引いて歩き出した。ナナミは何度も振り向いて手を振っている。少し離れてから振り返ったが、シュンたちの姿は見えなくなっていた。距離が離れたためなのか、位相ロックとやらが解除されたからなのか、イノウーには知る術がない。
「さて、急いで買い物済ませて帰ろう。ママ、待ちくたびれてるよ」
「うん! 帰ろう!」
ところが、製菓・製パン材料専門店の前に立ったイノウーは、再び失望を味わうことになった。マイカが言った通り、シャッターは半分開いていたものの、営業しているようには見えなかったのだ。
「どうなってるんだろ」
戸惑っていると、シャッターをくぐって、店員らしき女性が出て来た。イノウーに気付くと、小さく会釈してきた。
「あの、お店はまだ開かないですか?」
イノウーの質問に、店員は申し訳なさそうな顔で答えた。
「すいません。さっきの電気系統のトラブルで冷凍庫の中身が全滅してしまって。今日はもう営業どころじゃなくなってしまって」
「それは大変ですね。モルトシロップだけでも売ってもらうわけにはいかないですかね」
「モルトシロップ......」店員は考え込んだ。「確か欠品してたはずですね。申し訳ありません」
「そうですか。じゃあ」買い物アプリを見ながらイノウーは訊いた。「デュラムセモリナ・リマチナータは?」
「すいません。今日はもう営業できなさそうだったんで、ちょっと前に別の支店に出してしまって」
「その支店というのは?」
「湘南です」
今から行くのは無理だろう。イノウーは肩を落とし、店員に礼を言って立ち去ろうとした。
「あ、ちょっと」店員が呼び止め、持っていたトートバックから小さな袋を取り出した。「せめて、お嬢さんにこれを」
受け取った袋には、いくつかのクッキーとチョコレートが入っていた。サンプル品らしい。イノウーは礼を言うと、袋をナナミに渡して、その場から立ち去った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
スーパーでアイスクリームを買って、ようやく自宅に帰り着いたときは、18 時を20 分ほど過ぎていた。きっとマリが怒り狂っているだろう。それも二重に。買い物ができなかったことと、時間通りに帰ってこなかったことで。イノウーは覚悟してドアを開けた。
「おかえり!」ナナミが大声で叫んだ。
「ただいま、ね」
訂正しながらイノウーは靴を脱ぎ、娘が脱ぎ散らかした靴を揃えた。ナナミは歓声を上げながら廊下を走り、リビングに飛び込んでいった。
「ナナミ、お手々洗ってね」ナナミを追ってリビングに入ったイノウーはマリを探した。「ただいま」
「おかえりなさい」
予想に反して、キッチンから出て来たマリは上機嫌だった。ナナミに手を洗わせ、リビングに追いやると、ニコニコしながらイノウーを見た。
「すごいじゃん。どうやったの?」
「何が?」
「何がって、これよこれ」
キッチンに引っ張って行かれたイノウーは、そこに置かれている大きなダンボール箱を見て絶句した。中には、モルトシロップやデュラムセモリナ・リマチナータを初め、マリに頼まれた品々が過不足なく詰め込まれていた。
「さっき届いたのよ」マリはおもちゃ箱を目の前にした子供のようにはしゃいでいた。「このモルトシロップなんて、オーガニックの高級品よ。なかなか売ってないのに、よく買えたわね。この小麦粉もシチリア産の石臼挽きのやつで、日本じゃまず買えないやつだし。どうやって、こんなの手配できたの? しかも、配送までしてもらったなんて」
「ああ、それは......」
説明しかけてイノウーは言葉を切った。家を出てモールに着いたところまでは記憶がある。スーパーで買い物をしてモールを出て、家に帰るまでも記憶にある。ところが、モールにいた間、何をしていたのかが、どうもはっきりしない。
「えーと、ちょっと仕事を頼まれてて......」
「仕事?」マリは訝しげに訊いた。「イオンモールで?」
「そうなんだよ。あれ、そうだっけ......」
記憶にもやがかかっているようだった。何か仕事っぽいことをしていた。憶えているのはそれだけだった。
「ママ!」イノウーの思考は、ナナミの声で断ち切られた。「これもらった。食べていい?」
「なあに?」マリはナナミが差し出した袋を受け取った。「あれ、いまいずみの袋だね。有機素材のクッキーか。うん、いいよ。でも、もうすぐごはんだから一個だけね」
マリはクッキーをナナミに渡した。器用に包みを破ってクッキーをかじりながらナナミはリビングに戻っていった。苦笑したマリは、袋の残りを調べて声を上げた。
「え、何これ」
「何?」記憶を呼び起こす努力を諦めてイノウーは訊いた。
「ほら」マリは袋の中を見せた。「いまいずみのクーポン。全商品80% オフだって。すごいな、これ」
「すごいんだ」
「あそこ、割引しないんだよ。バーゲンとかしないし。今度、行ってこよう。ふふふ、これで勝てるぜ」
「勝ち負けとかじゃないんだよ」
ナナミの決め台詞を返すと、イノウーはリビングに向かった。クッキーを食べ終えたナナミが窓の外を見て叫んだ。
「パパ! 見て!」
「ん? おお、いつの間に」
窓の外に雪がちらついていた。降っていた雨が雪に変わったらしい。
「積もるかな」ナナミが輝くような笑顔で訊いた。「積もったら、雪だるま作りたい!」
「どうかな。横浜はあまり雪積もらないだよね」
雪の状態を確かめようとイノウーは窓の外を見つめた。相変わらず風は強めで、雪は斜線を描いて落ちている。窓ガラスに付着しては消えていく白い結晶を見ていると、ふと脳裏に、風のように走って行く3 人の子供たちの姿が浮かび上がった。
誰だっけ、と考える間もなく、ナナミが父親を呼んだ。イノウーは返事をしながら窓から離れ、娘の元に向かった。
(了)
一年ぶりのご無沙汰です。今年もクリスマスのお話をお届けします。
なかなか多忙な状況が終息しませんが、連載の準備も少しずつしています。順調にいけば、春ぐらいに開始できるかもしれません。
猛暑に物価高、クマの被害、日中関係の冷え込みなど、あまり明るい話題がなかった今年ですが、来年は好転していることを祈っています。
それでは、みなさま、よいお年を。
コメント
ななし~
今年もありがとうございました!
来年の連載も楽しみにしています♪
匿名
なるほどなるほど。
スーパーなプログラマでないとスカウトされないっぽいんだ。
匿名
走るそよ風たちへ は、横須賀の自衛隊学校生に想いを馳せて作られた曲みたいですね。
守ろうとしてくれている人達がいること、自分が幸せを享受できることの意味を忘れずにいたいものです。
今年も素敵なお話をありがとうございました!
夢乃
面白かったです!
>横浜はあまり雪積もらないだよね
ここ、少し変ですね。
「横浜はあまり雪積もらないんだよね」
あるいは
「横浜はあまり雪積もらないよね」
ではないでしょうか。