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もしかして自分に意思があると、世の中は生きづらいのかもしれない

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「自分で考えろ」「どうしたいかを言え」「言われたことばかりをするな」

などと、自分の意思を持つように教育されてきたが、いざ、自分の中に意思をもってしまうとそれはそれでシンドイと感じてしまう。特に会社組織のなかでは。

よく従業員一人一人が経営者意識をもって、などと言っている経営者を見かけるが、これは欺瞞ではないだろうか。もし、従業員一人一人が経営者意識を持つのであれば、報酬も経営者並みにする必要があるし、経営者ばかりの組織がきちんと機能するとは思えない。

なまじ自分の考えを持ってしまうと、周囲との軋轢に苦労する。顕著なのが、自分の考えがまっとうであるにも関わらず上司や経営者とは考えが異なる場合、どこまで主張を通すか、どこで妥協するかの判断を迫られる。

本来ならば、喧々諤々議論して双方が納得できるのが理想ではあるのだろうが、そういう議論ができるかは組織文化次第である。

特に、自分の考えをもったり議論を通じて双方の理解を高めるといことが未熟な(いわゆる下請け根性が染みついた)組織のなかで、自我をもってしまうと不幸でしかない。

なまじ自分の考えを示そうものなら、あいつは生意気だ。自分だけが正しいと信じている、面倒くさい、怒られる、などなど。

自分の考えが絶対的に正しいとは思っていないが、なるべく正しい考えを持ちたいとは思っている。だから、調べるし議論するし整理するし考え抜く。それはそれでシンドイ営みんだ。その結果、ある程度の確信を得た考えを述べても、聞く耳を持ってもらえず中傷されれば、虚しさだけ募る。

かのお釈迦様でも悟りを開いた際、この内容は人々に伝わらないから自分の中にしまっておこうとされたという。お釈迦様の悟りですら人々に伝わらないのだから、自身のチンケな考えなど、他人にのべる必要などないのかもしれない。

でも、部下がいて後輩がいる。少ないながらも同意してくれる同僚もいる。彼らがこのままで本当によいのか。この問いがささくれの様に引っかかる。

梵天勧請でお釈迦様は説法の旅にでられる。長く厳しい旅だ。

そんな覚悟がこれっぽちもあるわけではないが、少しは見習わなねば、との思いもある。

犀の角のようにただ独り歩め。励ましの言葉。

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