個人から組織への壁
よく新規事業やスタートアップが本格的に事業化する際には乗り越えなければならない「死の谷」が存在する、と言われています。
一般的には技術を製品化する際の資金不足。商品を販売する際の資金不足を言いますが、「死の谷」は資金だけではなく、個人活動から組織活動に移行する際におこるリソースの問題ではないかと感じています。
特にIT業界では労働集約型のビジネスモデルであるため、ー本当は労働集約型ではなく知識集約型のビジネスモデルだと思いたいー組織的に行動したい思ったとたん人的(技術的)リソース問題に延々と悩まされます。
例えばシステム開発において優秀な技術者がいて、お客様に評価されるとそのお客様のリピートや口コミ等で案件は増えてゆきます。技術者も案件と技術のよいスパイラルが回って更に評価は高くなる一方で、増えてきた案件を一人では熟せなくなってゆきます。これがジレンマの始まりで、その技術者に部下をつけたとしても技術格差がオーバヘッドになり作業を切り分け指示するより自分でやった方が早いし、他の技術者に案件を任せても、お客様の期待値が優秀な技術者のレベルに設定されてしまっているので余計な不満につながってしまいます。
新規事業やスタートアップでは、まずは市場に受け入れられる商品やサービスを開発しなければなりません。これが最初の関門。システム開発の例ではお客様に評価される優秀な技術者をどうやって育成するか(必要な技術をどう取得するか)、という点になります。ここで必要になるのは質への投資です。商品やサービスの開発がクリアできたならば、次にその商品やサービスを多くのお客様に届けるために生産体制や流通、販売網を構築する必要がでてきます。いうならば、量への投資です。
「死の谷」とは、この質への投資に加えて量への投資が必要となる際のリスクと理解できます。システム開発の例では、優秀な技術者を育成する(もしくは新しい技術を取得する)ことが質への投資であるなら、複数の技術者を確保し、一定レベルで複数の案件こなせる体制をつくることが量への投資となります。理想としては優秀な技術者と同等レベルの技術者を多数確保できれば良いのですが、現実的にはそんなに簡単な話ではありません。
それは、優秀な技術者というのがあくまでも自社の商品やサービスに対して優秀な技術者であって、世間一般的に優秀な技術者とは限らないからです。いってしまうと、自社の商品やサービスに対して優秀な技術者は、自社で育成しない限り、世の中には存在しえないということにもなります。
ここではシステム開発を例にしていますが、このシステム開発も自社事業の商品やサービスになります。他社と同じようなシステム開発を商品やサービスとしているのならば、自社の優秀な技術者と同等レベルの技術者は他にも沢山いるでしょうし、それ以上のレベルの技術者もいるかもしれません。しかし、差別化できない商品やサービスはレッドオーシャンで血みどろの争いをすることになりますので、事業としては展望は望めません。したがって、他社とは違ったシステム開発を自社の商品やサービスにすることになりますが、そうなるとその技術者は自社で育成する必要性が出てくるのです。
では、単純に技術者の員数を確保して社内育成してレベル確保をすればよいのか、というとこれまた話は簡単ではありません。質の投資から量の投資が必要になって来た、ということは開発した商品やサービスがある程度マーケットに認められた、という時期です。この時期は限られたリソースに対して顧客の方が増えてきているいるため、目の前の案件を熟すことで精いっぱいで技術者の確保やその育成にかける余力がない、というのが実状になります。また、質の投資時期の技術者は商品やサービスの開発当初から事業に携わっており、それなりの経験を積むことができましたが、量の投資時期に確保した技術者には同じような経験を積ます余裕はありません。
要は、質への投資時期に育成された優秀な技術者を、量への対応が必要になったからと言って短期に大量に育成することは不可能だということです。正しくは質への投資とお同じやり方で、という条件をつけた方が良いのかもしれませんが。
この辺りが質から量への投資の転換箇所で、確かに追加の資金が必要になることには間違いないのですが、資金だけではなく商品やサービスの仕組み自体を再構築する必要があり、ここを乗り越えることの困難さから「死の谷」などと言われているのだと思います。
例えば、質の投資時期に育成された優秀な技術者と同レベルの技術者を短期に多数育成することができないのであれば、ある程度の技術者でも同品質のサービスが提供できるような、自動化ツール、工法の開発、パッケージ化など、お客様に直接提供する商品やサービスを後支えする仕組みを作る必要があります。この仕組みへの投資が量への投資で、同時にこの時期では提供できる最大の価値・品質レベルだけではなく、最低限提供しなければならない価値・品質レベルについても定義しなければなりません。優秀な技術者が提供できる価値・品質レベルよりも、どの技術者が担当しても提供できる価値・品質レベルを評価する必要があるのです。
個人的に、これを個人から組織への壁だと思っています。個人の能力をコンピタンスとしている事業は多く存在します。ただ、これらの事業に共通する問題は量への対応と持続性への対応です。量や持続性への対応がその事業にとって必要不可欠であるならば、どうしても個人の能力から組織の仕組みへと、コンピタンスを変えないといけません。最初から、組織で動ける新規事業やスタートアップが開発できるとよいのですが、VUCAという時代背景を鑑みると、いきなり大きな投資を行うより、小さな投資から市場の感触を確かめなら事業をはじめる必要があるのもまた事実です。
たしかにスモールスタートやアジャイル開発は初期投資のリスクを少なくしますが、一方でマスへの対応が必要になったタイミングで追加投資が必要になります。これは、量へ対応するために商品やサービスのアーキテクチャ自体を再構築するための投資であり、個から組織へ変わるための投資という事ができます。
確かにこの時期の変革は、死の壁であり大きなリスクかもしれません。しかし一方で乗り越えなければならない、壁であることには間違いないので、その正体をしっかり見極めたうえで、超えるための更なる知恵を絞りだす必要があるのだとおもいます。