ドキュメント作成と記号接地問題
アジャイル憲章「包括的なドキュメントよりも動くソフトウェア」の信奉者なので、ドキュメントはつくりたくない。でも、憲章自体が「左記のことがらに価値があることを認めながらも、私たちは右記のことがらにより価値をおく」と、ドキュメントを否定しいるわけではないので、全くつくらないわけにはいかない。
システムはイメージの世 に関連しての話になるが、最近はドキュメント作成力も落ちているのではないかと思う。というか、みんなドキュメント作成スキルってどうやって習得してるのだろう。
もう遥か昔にはなるが仕事を始めて間もないころ、親会社のシステム開発支援案件に従事したことがある。そしてその仕事のほとんどが資料作成だった。大手企業というのは、資料作りが仕事なんだ、と変に感心したものである。その時の客先担当者も、ウチは関係者が何千人もいる。その一人一人説明して回るわけにもいかないから資料で周知する必要がある、と資料作成の意義を仰られていた。ちっちゃい会社の所属の身としては、目から鱗がおちてしまいそうな話であった。
当然、資料だけで何千人に理解してもらわないといけないわけだから、その作成には様々なノウハウがあったと思う。その頃はA3一枚の文化などと言われ、大量のバック資料を作成しながら重要関係者へ確認や合意をとり、最終的にはWordでA3横の一枚の資料にまとめ上げる。そんな感じだ。後から知った話だと、トヨタのカイゼンに由来する方法なんだとか。
その会社では上司が部下の資料をもとに添削や指導をしている光景は良く見られ、自身もその指導をよく受けた。大量のバック資料をA3一枚にまとめるわけだから、もはやアートである。例えば、BeforeーAfterの簡易図を入れた際、システム導入後のAfter図がBeforeよりごっちゃりしていると、システムを導入すると仕事が増えたように感じられるのでNGなど。こうやって資料の推敲を繰り返しながら、担当は内容の理解を深めていたのだとも思う。
近頃ではこのような文化もかわってきており、資料はパワポで作成することが主流となっている。最近また、この企業の案件に関わって、少し気になったことがある。なんだか、資料作成が下手になっている。仕事が資料作成の文化は変わっていない。相変わらず多くの資料を作っている。パワポで。でも、この資料で何を伝えたいのか、がさっぱりわからない。
あくまで仮説ではあるが、媒体が紙から電子になったこと。そのツールがパワポになったことが原因ではあるまいか。紙だと大量の資料は印刷と配布にかなりのコストを要するが、電子だとほぼタダ。だから紙の時代は配布コストをなるべく減らすためにA3一枚に纏めていたものを、バック資料含めて全てをパワポに詰め込んで配布できるようになった。また、パワポは簡単にページを増やせるから伝えることを文字でも絵でもグラフでも動画でも全て記載することができる。情報の取捨選択、推敲をしなくてよくなったのだ。
それは結果として、本当に伝えないといけない情報は何かということの精査が行われなくなったことを意味する。質問がなくてもわかる様に、もしかしたら文句も出ないように、伝えなくてもよいこと含めすべての情報を資料化することが、逆に何を伝えたいかが分からない資料になってしまっている。というのが当方の見立て。
話を元に戻して。
何を目的としたドキュメントを作成するか。この問いが大切だ。報告書なのか、説明資料なのか設計書なのか。ドキュメント化しなければならない情報が同じでも、誰に対して何のために、という点を加味するとその中身はかなり変わるはず。例えば設計書とは、まず設計というプロセスがあって、その結果を次工程に渡すために作成されたドキュメントである。しかし、なぜか設計書というドキュメントを作成することが目的になってしまい、設計という行為がおざなりになってしまうなど。
先日も設計フェーズで、担当にまずはフローから作成してもらった。そのレビュー時に「この条件分岐は何故ここにあるのか」という問いに、担当は「次の処理がすでに終わっている可能性があるじゃないですか?」「削除しますか?」という回答を繰り返すだけだった。前の処理がクリアされないと、次の処理に進めないというのが要件。それなのに、このフローでは前の処理と次の処理の間に、次処理の処理が行われていなかったら、という条件分岐が入っている。
こちらは、なぜ担当がここにわざわざ条件分岐を書いたか、もしかしたら次の処理がすでに終わっている状況がありうるのかを質問しているのだが。「可能性はないのか?」「表現の問題ではないか?」「削除するのは問題ない」など、かみ合わないやり取りが延々と続く。きっと、やっていることが違うのであろう。こちらはフローを叩きに設計しているのに、担当はフロー図を描くことを目的にしている。SEなどという肩書ではあるのだが。
また少し話は変わるが、先日、あるテーマの特設サイトを開設するため、試しにCopilotにプロットの作成を依頼した。すると、それなりのプロットを作成してくれて、驚いた。キャッチコピーや背景文、説明の見出しと流れなど、プロットとしては十分だと感じる。特にキャッチコピーなどは、こちらで考えるよりもプロっぽい。次に、このテーマについて詳細化しますか?と聞いてくれたので、お願いしたのだが、この辺りから段々と怪しくなる。テーマの説明だが、なんとなくそれっぽい文章になりはするものの、どうにも腹落ちできる内容にならない。何かが違う、説明が説明になっていない、という感じ。違和感だらけ。この点については、何度質問や指示のしかたを変えても、納得できるものにはならなかった。自分だけでは、こちらの問題もあるだろうから周囲にも意見徴収したが、感想は同じ。違和感がある。
いわゆる、記号接地問題というものであろう。特設サイトのテーマ自体は一般的用語である。しかし、そのテーマは特設サイトを開設したい当方の中で、体験にもとづいて解釈と意味づけされている。そこがAIに理解できないーAI自体意味を理解しているわけではないがー点であり、違和感を払しょくできない点なのだろう。特設サイトはマーケティング用なので、このテーマに興味をもっている閲覧者に共感を与え、顧客として誘導することが目的だ。その為にもテーマに対する解釈と意味づけをアピールする必要があるが、意味を理解しないAIではそれは難しい。
実のところ、このAIの記号接地問題によるもどかしさは、件の設計担当との会話によく似ている。こちらは設計する、彼はフロー図を描く、という目的の違いから成立しない会話は、AIが体験にもとづいた解釈と意味づけができないがために共通認識が持てないということと同根の問題なのではないだろうか。ただ、担当はAIではなく人なので共通認識を持つことが不可能とは思はない。しかし双方が共通認識をもとうとする努力は必要だが、現実はこれが難しい。何故なら、彼自身は共通認識がずれているとはこれっぽちも思っていないから。彼自身、設計と設計ドキュメント作成の違いを認識していないので、自身では設計をしているつもりでいる。だから、あなたのやっていることは、フロー図の作成であって設計ではない、と何度繰り返しても、そんなことはないと歩み寄ろとしない。人による記号接地問題。彼はきっと「設計」という言葉を記号として取扱っている。
また少し話は変わるが、「霞ヶ関パワポ」「霞ヶ関文学ポンチ絵」なるものがあるらしい。官僚がパワポで作るA4一枚の説明図の事だ。これがアートだとネットで盛り上がっている。確かにカラフルでかつ、みっちりと細部まで描きこまれている図は遠目にみればアートだ。しかし資料図なので、本来の用途はその図から何かしらの意図を読み解かなければならない、が、あまりにも細かく描きこまれているので、そこから何かを読み解くには相当な労力を要する。
デザイナーがこの霞ヶ関パワポを再編してすっきり分かりやすい図に直したところ、霞ヶ関パワポというのは官僚が関係省庁や利害関係者含めて調整に調整を重ねた結果をまとめたものなので、図のいずれも足し引き出来ないものなのだと説明していた。親会社のA3一枚の文化に似た性質の資料なのだろうが、中央省庁とものなるとステークホルダーも桁違いなので、本当にアートの域に達するのだろう。基本的には万人に分かってもらうための図ではない、ということだけは確かである。
ところでアートとデザインの違いはアートは感性に訴えかけ、デザインは理性に訴えかけるものだと思う。もう少し言うと説明が不要か必要かである。感性に訴えるアートへの説明は野暮だが、理性に訴えるデザインには説明が必要だ。そういった意味では、ドキュメントはデザインに分類されるので説明の必要がある。もしくは説明のための手法である。霞ヶ関パワポは、関係者へ説明するためのドキュメントである一方で、関係者以外へはそのにじみ出る苦労のあとが見る者の感性に働きかけアートと評されるのであろう。
この辺りも、ドキュメント作成時の重要なポイントである。ドキュメントはアートではないので説明が必要だ。しかし説明は、説明する側と説明を受けて理解する側との間に、何かしらの共通認識を必要とする。だから、ドキュメントを作成する際には、まず作り手と読み手の間に共通認識がどこまであるかを知らなければならない。そして、必要な共通認識にギャップが認められた際には、それを補完する手立てが必要である。
では、この共通認識とは何で、どうやって醸成されるのだろうか。ひとつは集団や組織の中で、共通の体験を通して培われ蓄積された暗黙知ではないかと思う。家族、学校、企業、業界、地域、国など、人は少なからず何らかの集団や組織に多重的に属している。その中では共通の体験を通して、集団や組織特有の暗黙知が醸成される。そしてその暗黙知を教育等を通して、組織の中に拡散し蓄積させてゆく。これが原初の共通認識。言い換えるならば、集団や組織の文化といっても良いのかもしれない。だが原初の共通認識だけではその集団や組織の傾向位の薄い認識でしかないので、ドキュメント作成時には、その共通認識の上にもう一層、ドキュメントのテーマに沿った共通認識をつくる必要がある。地盤の上に基礎工事を行って、その基礎の上に建屋を建てるイメージ。組織文化で培われている共通認識が地盤で、作成するドキュメントに応じた共通認識が基礎だ。ドキュメントでは、これらは主にイントロダクションとして記載されている。だからイントロダクションは意外と大切だ。
ちなみに記号接地問題とは、AIは言葉を記号として取扱っており経験や身体的感覚に対応(接地)していない。意味と意図を理解できていないのに、あたかも理解したふりをして振る舞っていることを言う。先に共通認識とは組織や集団のなかでの体験にもとづく暗黙知ではないかと書いたが、もしそうであるならば、人とAIは共通認識を持つことができないことになる。何故なら、暗黙知は接地している必要があるから。現在のAIは学習データや訓練データで学習を行う。データあくまで形式知なので記号として扱えAIは学習することができる。しかし、暗黙知は経験や感覚と接地しており記号として扱えないので、AIは学習することはできない。人と人はSECIモデルでいうところの共同化の営みのなかで暗黙知を伝達することができるが、AIと人は共同化をおこなう術が今のところない。これこそがCopilotが作成した特設サイトのコンテンツが、なんど会話をしても違和感を払拭できない理由ではないだろうか。
そして、これまで述べてきたことは、一つ怖いことを示唆している。それは、記号接地問題で人とAIは共通認識を持てないが、実は人も記号接地問題を起こすので人と人でも共通認識をもてない場合もあるということ。件の設計担当は設計に対しての経験や身体的感覚がなかったので「設計」という言葉を記号として取扱っており、当方と共通認識が持てなかった。本来ならば共同化のなかで暗黙知を伝達して共通認識を得ることができるはずなのだが、本人にその自覚がないー分かっているフリをしているのか、分かっているつもりなのかは分からないがーと、いつまでたっても「設計」が接地しない(もしかしたら、ダニング・クルーガ現象なのかもしれない)。そう、人は自ら無意識に記号接地問題に陥る可能性があるのだ。もしかしたらこれをバイアスというのかもしれない。
ここからは想像の世界だが、よくAIが人を支配している世界、というのが話題になる。個人的にはこの記号接地問題がある限り、AIは人を支配できないと思っている。それは、AIと人は共通認識が持てないので、人はAIの出す答えに違和感を感じ続けるからだ。しかし一方で、人は自ら記号接地問題に陥る可能性も持っている。体験と感覚に接地した暗黙知に無自覚なために、AI同様に物事を記号として取扱ってしまう。もし人が接地しなくなったら、情報量と演算量では圧倒的に優位なAIに太刀打できなくなるのではないだろうか。しかも社会は、ネット社会とも呼ばれるように体験と感覚よりも、情報を記号として取扱うことに重きを置く方向に進んでいる。
ちょっぴり怖くなったので、最後に本稿の提案を纏めて終わりとしよう。
ドキュメント作成には共通認識への理解が必要で、共通認識は体験と感覚に接地した暗黙知である。また、AIと人を分けるのも体験と感覚に接地した暗黙知である(今のところ)。人が暗黙知とその共同化を軽視し、形式知を記号として扱うことに重点を置くようになれば、それはAIにとってかわられることを意味する。だから、ドキュメントの作成方法をカリキュラム化して、そのなかで暗黙知と共同化の扱いを訓練すればよいのではないか。
・・・既にお気づきかもしれないが、本稿は面倒くさい資料作成からの現実逃避を目的に書いています。あと、Copilotと設計担当への愚痴と。なので、こんなの書いている間に仕事しろよ、というお叱りは受け付けませんのであしからず。