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なぜカエルはとらわれてしまうのか?

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「井の中の蛙、大海を知らず」

という言葉があります。ご存知の通り、「井戸の中に住んでいるカエルは海の広さを知
ることはできない」という意味です。由来は荘子の秋水編で「井蛙は以って海を語るべ
からず、虚に拘めばなり」とあり、「狭い知識にとらわれて、物事の大局的な判断がで
きないこと」と解釈されます。
実はこの言葉には続きがあり、というよりかは後世の人が続きを作り、さまざまなバリ
エーションがあるとのこと。

「ただ、空の青さを知る」
「されど、空の高さを知る」
「されど、井の中を知る」 等々。

パターンとしては、接続詞の「ただ」か「されど」の違い。大海に対応する対象が「空
(天)」なのか「井」なのか。加えて「青さ(色の度合い)」か「高さ(空間的な広が
り)」か「中(場所)」の組合せで様々なバリエーションがあるようです。しかし意味
的な解釈を考えると、(あくまで個人的な意見ですが)先に挙げた3つのパターンに収
斂するのではないかと考えます。例えば、別の組合せとして、

「されど、空の青さを知る」
「されど、天の広さを知る」

という言葉もあるようですが、先は「されど」が逆説を表す接続詞なので、前半の「大
海」と後半の「空の青さ」の間に対比される何かがわからないので意味が分かりづらく
なっています。しかし「ただ」という限定の副詞を用いると、前半との関係が薄くなり、
急に情緒的になり、詩的な光景が広がります。

「井の中の蛙、大海を知らず。ただ、空の青さを知る」

暗い井戸の中に生まれた蛙が、外の世界に憧れ、ずっと空を仰ぎ見ている、そんな情景
が目に浮かんできませんか。おかげで原意の説教くささも希薄になり、哀愁すら漂いま
す。

つぎに、「されど」に着目して考えてみると、「大海」と「空の青さに」に対比を見
つけるのは困難ですが、「空の高さ」にすると空間的な対比が生まれてきます。すなわ
ち「大海」は海の広さ(水平方向の広がり)と「空の高さ」は垂直方向の広がりの対比
となり、水平方向の広がりは知らないけれど、垂直報告の広がりは知っている、という
解釈が成り立ちます。空間的な対比という意味で考えると「天の広さ」という選択肢も
あるように思えますが、それだと「海の、空間的な広がり」と「天の、空間的な広がり」
の対比にとなり、海と天の広さの違いを比較してもよくわかりません。また、井の中の
蛙に視点を移してみても、井戸の中で一部の天が見えているからと言って、その広がり
まで知るというのは、すこし無理があります。これら踏まえると、「されど」と繋げる
のであれば、空の高さを知っているのが妥当だと感じるのです。

「井の中の蛙、大海を知らず。されど、空の高さを知る」

周囲を囲まれた井戸の中に住んでいる蛙は、水平的な広がりを知らない代わりに、垂直
的な広がりを知っている。これはトレードオフです。原意では視野が狭く、大局的な判
断ができなかった蛙が、物事の奥深さを考える求道者になったのです。これは、ジェネ
ラリストとスペシャリストの比較でもあり、同時に、スペシャリストになるためには、
あえて広い視野を捨てる必要があると、言っているようにも聞こえます。神仏ならざる
身では、何かを捨てなければあ何かを得ることはできないのかもしれません。

最後に、すこし異色な「されど、井の中を知る」ですが、この作者は近藤勇などという
説もあるようです。

「井の中の蛙、大海を知らず。されど、井の中を知る」

井戸の中で生まれ育った蛙は、見たこともない大海などは知らないが、自分が生きてゆく
井戸の中のことについては、しっかり知っている。徹底的なリアリズムを感じます。
すこし拡大解釈すると、そもそも蛙は海では生きていけないわけで、非現実的な夢を見る
のではなく、いま生きている世界をしっかり知りなさい、という教訓にも聞こえます。

このように、最初、視野が狭いだけのダメな蛙が日本に来て、外の世界に憧れるように
なり視野は狭いが道を求めるスペシャリストになり、リアリズムの体現者になってしま
いました。
どれだけ蛙好きなんだ、日本人。って感じですね。

因みにですが、蛙にまつわる慣用句?にもうひとつ、「茹で蛙」というものがあります。
二匹の蛙を用意し、一方は熱湯に入れ、もう一方は緩やかに昇温する冷水に入れる。する
と、前者は直ちに飛び出して脱出・生存するのに対し、後者は水温の上昇を知覚できずに
死亡する。という疑似科学的な例え話です。実際は、一定の温度に達すると蛙たちは苦し
み脱出を試みようとするらしいのですが、頭にタオルを載せて気持よさげに湯につかって
いる(隣の蛙は昇天している)挿絵と共に、ビジネス業界で現状維持バイアスの警句とし
てよく目にします。
井の中の蛙は空間的に囚われており、茹で蛙は時間的に囚われています。なぜ、蛙は囚わ
れるものの代表として登場するのでしょうね?

最近、「茹で蛙。茹で上がるのはオタマジャクシ」という言葉があることを知りました。
緩やかに昇温する冷水につかっている蛙は、実は茹で上がる前に自分が脱出できること
を知っている。だから、あわてず、騒がず、じっと耐え、ぎりぎりで脱出。そのため、
茹で上がるのは脱出できないオタマジャクシ。組織の変革を嫌う老害などの比喩として使
うらしいです。
ここでも、時間に囚われて茹で上がっていた蛙が、いつのまにか残り時間を計算できる
老獪な生き物になっています。ポジティブかネガティブかの違いはありますが、両方の
慣用句の共通点として原意でダメな奴の例えとして登場する蛙が、いつの間にか拡張さ
れ、有能な奴に変化しています。

オタマジャクシは水の中しか生きていけないので、環境に囚われています。しかし、蛙
は水の中でも陸上でも、ジャンプをして空中でもいける、かなり自由な奴です。しかも
卵からオタマジャクシ、蛙へと時間と共に変わって行くこともできるので、時間にも適
応しています。だから彼らをダメな奴に見せようとすると、井戸の中に入れたり鍋の中
に入れたりと制約を設けて何かに囚われる必要があるのかもしれません。
しかし、蛙が持つ本来の自由度の高さが、それら制約を凌駕するので、慣用句の中でも
ダメな奴から有能な奴に変化していくのかもしれません。

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