月がきれいですね
夏目漱石は、「I love you」を「月がきれいですね」と訳したという。ではその人が嫌いな場合はなんというか。「月は、きれいですね」というのはネットでひろったネタ。
「base ball」を「野球」、「short stop」を「遊撃手」、「tennis」を「庭球」など。先人たちは外国の文化を取り入れる際には、言葉を日本語で再定義していた。
日本には色を表す名前が1,100あると言われるが、パプアニューギニアのダニ族の言語には2つしかないそうだ。一方で中国には日本の「焼く」に相当する調理法の言葉が何十種類もあるという。
これは文化の違いである。他国のこの言葉を自国の言葉に置換える場合、文化的差異によって言葉の過不足がでてくる。先人たちはその対応に苦労した。例えば「野球」「庭球」など全く新しい言葉を作ったり、福沢諭吉は「freedom」「liberty」を「自由」と訳しはしたものの、元来日本に存在した「自由」という言葉の意味と完全に一致していないことは自覚していた。今でこそ「自由」の意味は英語の「freedom」「liberty」に近いものになってはいるが、それでも英語では「freedom」と「liberty」の二つの単語が存在するのに、日本語では両方「自由」の一語である。
先人たちのこれら苦労は、実はとても大切なことだったと思う。それは言葉を知ることは文化を知ることだからだ。他国の言葉を知ることは他国の文化を理解する行為であり、自国の言葉に当てはめるには自国の文化を改めて理解する必要がある。
今の世の中、異文化との壁は低くなり言葉は自国語と外国語がもの凄い勢いで行き交っている。その所為かもしれないが、相手の言葉も自分の言葉も正しく理解することがおざなりになっているように感じる。時世柄、おそらく他国で産まれた文化を輸入する際に、自国の文化と照らし合わせて言葉を新たにつくるなど悠長なことをいってられないからだろう、最近の海外製の言葉はそのままカタカナで使われ、そのまま定着している。「ERP」や「BCP」などの略語は「企業資源計画」や「事業継続計画」など直訳される場合もあるが、直訳では何をいっているのか分からないので「イーアルピー」や「ビーシーピー」とカタカナで利用されるのが殆どだ。
加えてもう少しプリミティブな言葉、例えば「management」「project」「agail」などはカタカナのまま定着している。対訳とされる言葉が一部ありはするが、おそらく多くの人が間違いと知っているのであろう。明らかに使い分けて使われている場合が多い。
別に外国語をそのままカタカナとして自国文化に取込むこと自体は悪いことだとは思わない。そういった意味では、表意文字と表文字両方が混在している日本語は異なる文化を取り入れやすい性質なのであろう。ただ、簡単に言葉を取り入れることができるがために、安易に使えてしまうというリスクはあると思う。意味も分からずカタカナを並び立てれば、なんだか偉そうに見えてしまうのはその弊害だ。
「学ぶ」の語源が「真似ぶ」にあるように、新しい文化を取り入れるにはカタカナで知らない言葉を使うことから始めないといけないのかもしれない。しかし、いつまでも真似てばかりいても正しい理解にはつながらない。逆に意味も分からないままカタカナを使い続けることで、なんだか分かった気になる可能性もある。これは「学び」ではなくただの「猿真似」だ。
SECIモデルの生みの親である野中郁次郎先生は経営学を学ぼうとした際に、日本の経営学研究はアメリカの経営学理論を列挙するだけの研究であったため、本場のバークレー校に留学して博士号を取得。そして日本に戻ってから知識経営を提唱された。「猿真似」と言ってしまえば当時の経営学者に失礼かもしれないが、野中先生以前の経営学はカタカナ経営学で、野中先生が知識経営を提唱し海外からも評価されることで、経営学が日本の経営学が生まれた、ということかもしれない。
どちらにしろ外国の文化を取り入れるためには、学び、消化し、自分たちの知識にする努力が必要である。それが昔は言葉を訳するプロセスでなされていたのが、最近では言葉を安易にとりいれ、表層だけの理解で適当に流されているのではないかという懸念。
特に昨今はDXブーム。あちこちからDXをやりたい、と相談がくる。「クラウドにアジャイルを使ってDXを実現したい」というような話まで。しかし実際に話を聞いてみると、数年前にスクラッチ開発した社内のシステムがあるけが、メンテできる社員が辞めてしまったので困っている、というような内容。親会社がやれっていってるんだ。何をしてよいかさっぱりわからないけど、みたいな話も。身内でも、「アジャイルで開発をしたいと依頼されたお客様から、ドキュメントを作れと強要されるし、スプリントで提示したシステムに機能が足りていないと文句言われる」と上に相談したところ、「開発と管理は違う。お前らはプロジェクトマネジメントができないのだ」と叱られる始末。何をいっているのやら。
商売としては、多くの人が「DX!」と叫ぶのは良い事なのかもしれないが、実際はカタカナ「ディーエックス」なので、下手に飛びついてしまうとドツボにはまる恐れもある。だから、怪しい相談にはこう返事をしている。
「DXは、大切ですね」
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コメント
匿名
>簡単に言葉を取り入れることができるがために、安易に使えてしまうというリスクはあると思う。意味も分からずカタカナを並び立てれば、なんだか偉そうに見えてしまうのはその弊害だ。
とめどなく溢れてくるカタカナやアルファベットの専門用語こそ、日本の生産性の低さの大きな要因の1つなのでは?その界隈の人ならともかく、ちょっと違う分野の人や年配の方では、言葉を1から勉強しなくてはならないのだから。こんなことでは、外国人と会話をするのと同様の苦労が必要になります。
山無駄
どうも匿名さん
溢れてくるカタカナやアルファベットをそのまま使うにしろ、翻訳して使うにしろ、
新しい知識を取得しないといけないという意味では、今の世の中は仕方のないこと
かもしれません。生産性という意味では、言葉を知識化せずに間違ったままでの利用
たとえばデマ等が結果的に生産性を押し下げている感じがします。