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花見

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この時期、天気の良い休日を見計らってカミさんと花見に出かける。場所は車で40分程のショッピングモール横の川沿い。1km程の桜が並ぶ堤をぶらっと一周する。満開のこの時期でも人通りは少なく、シートを広げている花見客も数組だ。酒を飲んで騒ぐ人もいない。ところどころ菜の花も咲いており、黄色とピンクのコンストラクトが目を引く。ショッピングモールの反対側には畑が広がりその先には新幹線の高架線路が走っており、タイミングによっては花と新幹線のコラボ写真も撮ることができる、穴場である。

花見と言えばソメイヨシノだが、この品種は江戸時代後期に品種改良で開発されて、戦後の高度成長時代に復興の象徴として全国に植えられた比較的新しいクローン種なのだそうだ。また、その特性として菌類の病気に弱く、根を浅く広く張る性質から都市部の植樹には不向きな点もあるため、最近ではジンダイアケボノなどへの置換えがすすんでいるとのこと。

そんな話を聞くと、今の見ているこの光景は昔からあるものではなく、また、未来と同じものではないのだなあ、との感慨が沸く。西行法師がその下での入寂を願った花は、いま見ているこの桜ではないし、子孫達が見るであろう花もこの桜ではない。

桜と時期を同じくして、最近多く見かけるのが新入学生や新社会人だ。真新しい制服やスーツで、辺りを闊歩している。近頃は売り手市場のようで、有名人を呼んだ入社式を開催したり、入社のための準備一時金を出したり、旅行付の新人研修を実施したりと、企業は随分と新入社員に気を使っているらしい。ウチの会社も例にもれず、これまでにやったことのない、内定式や、入社前の先輩たちとの食事会、懇親を目的といたボーリング大会への参加など開催したようだが、どうも昭和臭がしていて、今時の若者は食事会やボーリング大会で引き留めることができるのだろうか。

昭和と言えば、ある報道番組が令和と昭和の入社式の違いを特集していた。昭和では入社式で大勢が肩を組んで社歌を熱唱する、入社式で海に入って禊をする、夜に街中10kmを歩き通す、など当時のニュース映像が流れていた。その中で、コメンテータが今の価値観で昔の行動に善悪をつけてはいけない、とコメントしていたが、やはり令和の価値観では昭和の価値観は悪なのであろうか。

個人的には令和にしろ昭和にしろ、ニュース映像になっているくらいだから、それぞれが特異な入社式であり、特異同士を比較しているから極端な違いが出ているだけではないかと思う。入社式のやり方は時代よって違いがあるかもしれないが、新社会人が組織に所属して求められるものについては、どの時代でも大きな違いはないのではないだろうか。

そんなことを考えると、コメンテータの今の価値観で昔の行動に善悪をつけてはいいけない、というコメントは正しい。昭和の映像で新入社員が「こんなこと何になるのでしょうね」と愚痴ているのに対して、人事担当者が「早く組織になじんで団結して欲しいから」と発言していた。社会人になると、組織に属して他の皆と協調して仕事をやり遂げなければならない、という現実は令和になってもそんなに変わっていないはずである。

極端な話、軍隊など団体行動が生死に直結するような組織では、ブートキャンプと称する過酷な訓練を実施する。そこでは人格を否定する罵倒が繰り返され、理不尽な上司からの命令にも絶対服従することが求められる。これは、個人の価値観をリセットし、組織の価値観を植え付ける訓練だと聞いたことがある。

良いか悪いかは別として、組織で何かをなそうとする場合に個の価値観が邪魔になることは充分にある。だから、昭和の入社式や新人研修はブートキャンプに近いものになったのかもしれない。しかしその組織主義の企業風土が高度成長を支えた一方で、ブラック企業やパワハラなのどのモラルハザードを産みだし、その犠牲者が出たこともまた事実であろう。

そして今は、その行き過ぎた組織主義への揺り戻しがあって、個に傾倒している時代になっているのではないだろうか。価値観は振り子のように揺れ動いている。だとしたら、個人主義が行きすぎるとそれはそれで、別の弊害が出てくるに違いない。だから、今の価値観で過去の善悪を判断してはいけない。善悪を判断するのではなく、今も過去も見つめて、変わらない大切な何かを見つける事こそが肝要だ。

入社後、数か月、はたまた数日で退職する新人が増えている、というニュースもあった。退職代行サービスが、退職の敷居を低くしているらしい。入社前に提示された条件が虚偽だった場合は早々に退職してしかるべきだし、退職代行サービスがそれを手助けしてれるならば有益なサービスといえよう。しかしそのニュースでは、入社後数日で退職サービスを利用して退職した若者のインタビューを流していたが、その若者は介護の専門学校を卒業して病院に就職したが、入社に組織運営なので自由に休みをとれない可能性がある、と説明を受けたので不安になって退職した、と言っていた。

エッセンシャルワーカーは、どうしても個を犠牲にせざるを得ない職種である。なのに自由に休みをとれないことが不安という個を優先させた理由で退職した彼は、エッセンシャルワーカーには向いていなかったと言わざるを得ない。そういった意味では、早めに気が付いて退職したことは、職場と彼、双方にとって正しい選択だったのかもしれない。

しかし一方で、ブートキャンプで強制的な価値観の入替を行わなくても、働いている中で価値観が変わることは十分にありうる。いや、学生から社会人になって働くなかで価値観を変えてゆくことは当たり前の話だ。もしかしたら彼も、しばらく働いていたらエッセンシャルワーカーとしての価値観を持てたかもしれない。もしそうであるなら、退職代行サービスが退職の敷居を下げたことで若者の可能性をつぶしたとも言えるのではないか。

あくまで可能性の話なので、だからといって退職代行サービスを否定するつもりはない。退職代行サービスはあくまで強すぎた組織に対して、個を支援するサービスにすぎない。価値観は移ろいで行く。今後、もし個の方が強くなれば必要のないサービスになるかもしれない。加えてこの世の中、何が正しいかは分からない。彼もエッセンシャルワーカに向いていないことに早々に気づき、自分にあった道を見つけられるのであれば、それはそれでよいのではないか。

桜は毎年咲いて、そして散ってゆく。毎年変わらない桜を、我々夫婦は毎年見に行く。変わらないように見える桜も、西行が見たものと、自分達、子孫たちが見るものとは変わっている。それでも、昔の人も今の人も、きっと未来の人も、何故か惹かれて桜を見る。何か感じるものがあるのであろう。その事は変わらない。移ろいゆくものと、変わらないものがある。価値観もきっとそんなものだ。

春は人を感傷的にさせる。

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