地方エンジニアが感じる地方・中小企業での悩み

経験を殺すのは自分

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 元々わたしは過去に囚われない形で物事を考えていくのが好みなクチです。自らの経験に頼ることに、ある種の危惧というか危険性を感じる性格というのも大きいのですが。

 どのような方でも、ある程度の時間をかけて得た経験というのは非常に重要な財産であるかと思います。その人のアイデンティティを形成する上でも、経験というのはものすごく重要であると思います。ですが、その経験を物凄く重要視してしまい、常に過去の成功例に頼ってしまっている現状もあるのではないでしょうか。

 わたしは個人的に「経験のみ」を元に話してくるタイプな方が苦手です。苦手というか「合わない」ですね。経験を踏まえてさらに理論をとおしてくるというか、経験+αな話をされる方というのは尊敬するのですけどね。

 「過去にこのように行い、成功しました!」とか「以前はこのように対処し、無事に済みました」というような体験談レベルな話では、わたしの中であまり共感を覚えるものでもなく、

ふーん、すごいですね。それで?

というように、ある種の感嘆のみで終わってしまって、それ以上のものを感じることがなかったりします。どちらかというと、成功談よりも失敗談としての過去の経験はありがたいと思うタイプです。同じことをやって成功する確率よりも、同じことをやって失敗する確率の方が遥かに高いと思うためですね。

 概要設計を行ったりしていると、けっこうわたしが苦手とするタイプの方と出会うことがあります。

 過去の体験として、検針業務などでハンディターミナルを導入するような受託案件にて、次のように話されたことがあります。

  • ハンディをターミナルに接続してデータやプログラムをダウンロード
  • 最新情報は常に事務所に戻りダウンロードを行う
  • アップロードも事務所から行う
  • 端末は個別には持たずに必要な際に使いまわす

 これだけ見ればさほど問題のなさそうに思えますが、特にヒアリングを行うことなく上記のようなことを「さも当然」として語りだしてきたのは、なかなかに困ったものです。費用的制約などから上記の結果になるのであれば良いのですが、それを聞き出すより先に「結論ありき」で話されてしまうのは、同じ技術者として「それはどうよ?」という気持ちになります。

 過去に同様の案件を経験しその際の構成を話しているのでしょうが、ノンカスタマイズなパッケージ適用案件ならいざしらず、いかようにも案件が変化する可能性のある受託開発にて同じやり方を行おうとするのは、非常に問題ではないでしょうか。

 時代も進み、今ではハンディターミナル上でリアルにデータ取得を行わせても、以前ほど高額な費用は発生しないシステムを提案することも可能になりました。逆に随時最新情報を扱えるようになったことで、迅速なクレーム対応が可能になるなど、新たに付加価値を提案できることも少なくありません。ユーザーに対し、メリットとデメリットを説明した上でどのような形が好ましいかを選択(もしくは協議)する形が適しているのではないかと、わたしには思えます。

 先程のハンディターミナルの件では、過去の構築形態をそのまま適用させようとするのではなく、過去の事例にて得た「運用上の注意点」や「現場での負担」など、実際に体験した人でなければ気付かない点を指摘するようなことこそが、過去の経験を最も生かせているのではないでしょうか。

 経験は非常に重要な要素で、一朝一夕で得られるようなものではありません。だからこそ使いどころをよく考慮し、あてはめる内容もよく考えていかなければせっかくの経験を生かすことはできないのではないでしょうか。

 わたしは「無駄な経験」というものは何ひとつない、と思っています。ただあるのは「使いどころを間違えている」ということではないでしょうか。

 よくミドル世代などで過去の経験を生かせない話をよく耳にしますが、それこそがまさに「経験の使いどころを間違えている」ということなのだと思います。わたしの見える範囲でも、本当に経験を生かせないケースというのはほとんどないように見受けられます(もちろん、まったくの初案件など、例外はあるでしょうけど)。見ていて困るのは過去の経験をそのまま同じくあてはめようとする、そのやり方なのだと思っています。

 そのようなやり方では、宝となるべき自身の経験を自身で殺してしまってはいないですか?

Comment(14)

コメント

インドリ

仰るとおりだと思います。

がると申します。
確かに経験は「生かす」ものではありますが…同時に、某漫画の台詞を借りますと「過去の栄光なんて角砂糖一個の栄養もないのよ!」だと、思います。
なかなかに難しいものだなぁと、いつもながら感じます。

saki1208

Ahfさん、こんばんは。

saki1208です。

仰る通りでしょうね。

この世界は日進月歩でどんどん新しいことが出てきます。全く同じ物を作ることは殆どありませんから、過去の事例からだけでは正解は得られないことも多々あると思います。
しかしながら、過去の経験則から判断することも多くあります。
# 今回のコラムで記述されている事例では間違った方向に進んで行くかもしれませんが...

ただ、その経験の中で得たもの、学んだ物がなかったのか、件の方からは聞いてみたいですね。
# より良いものを作ろうとか、あのときここで失敗したからとか、こうしてればもっと良かったのにとかないのかなぁ...

おはようございます。

Webシステムにするのも、SQLを使わないのも、みんな決め打ちしてくる。
それは成功体験じゃなく、成功ラインが低かっただけってことも多いですからね。

そういうのを成功体験として持ってこられると、私も本当に腹立つことがあります。

ビガー

ビガーです。

>いかようにも案件が変化する可能性のある受託開発にて同じやり方を行おうとするのは、非常に問題ではないでしょうか。
解釈の仕方次第ですが、「標準化」自体には非常に意味があり、逆にしない方が無駄なコストや品質低下など多くの問題を生むと思います。
趣旨は、安易に古い成功体験にすがるなということでしょうけど、成功体験の中には成功した理由が必ずあるのできちんと抽象化して標準を作るべきだと思いますね。

Ahf

皆さんコメントありがとうございます。

経験から判断する、経験からさらなる努力目標を設定する、等々使いどころさえ間違えなければ、無駄になる事はないと私は感じています。
最近はどうもこのあたりを上手くこなすことができずに、自信喪失される方というのを見かける事が多くなった気がするのですよね。

>インドリさん

簡潔に賛同してもらいありがとうございます。

>がるさん

私もこのような内容で書いてはいますが、本当に難しいですよね。
それと元ネタがわからないです・・・。

>saki1208さん

件の方も多くの経験を積み多くの事を知っている方なのですよ。このケースの時はそのままやろうとしてしまい、後々まで引きずる結果になりました。
パッケージをノンカスタマイズで適用する案件では非常にできる方なんですけどね。

>生島さん

成功体験というのも難しいですよね。個人的には成功した前提条件(というかその案件固有の要件など)を忘れてしまい、全般的に適用できると思いこんでしまう方には非常に困ってしまいます。

>ビガーさん

「標準化の観点」というと難しくなりますがパッケージの適用と捉えると言われる通りだと思います。受託案件では適用しないことが最もベターなケースもあり得ますのでケースバイケースですよね。
BPRを行おうとする際には逆に標準を考えない事がプラスにつながる事もありますよね。

三年寝太郎

こんばんは。

経験とは身体感覚を伴った知識のことである。
というのは、何かの本で言ってたような気もしますが、
身体的な感覚が伴っている場合、同じことの繰り返しや、既存の経験と大きく異ならない自称を処理する場合は、極めて正確で反応速度が速い実行が可能なものだと思います。

よく言われるロジックはソフトによる制御のようなもので、反応速度や処理速度に限界があるし、感情は、暴走やその逆の「動けなさ」の様なものがいつ発動するかわからずコントロールが困難。
それらとは全く違う基準で物事の良し悪しを判断するための回路のようなものではないかと思います。
経験による処理は、ある意味機械的なものだと思えます。もしくは自律神経や運動神経の様なものかも。

ハード的な回路のような感じといえば意図は伝わるでしょうか。
それも、末端のデバイスを制御するハードではなく、全体的、総合的な視野でシステムを制御する回路のようなもの?の方が、より望ましいのかもしれません。

なぜなら、経験を末端の作業レベルでいくら積み上げても、効率には繋がっていかないものだと思うからです。
まあ、それはそれで経験者の固有の技能として、能率には繋がるかもしれませんが、それでうれしいのは案外、本人だけだったりします。

対して、様々な経験を通して異なる事象を比較の上で、共通点や差異の整理をして自身の中に体系化された知識や知恵を蓄積していけば、効率化や改革、或いは創造に繋がる。それは、本人だけではなく、周囲の人にとっても有用なものに成りえます。

経験を活かせるかどうかを判断する上で、前提条件(=差異)は非常に重要なのですが、恐らくそれ以上に、現場の空気や活気の様なものの方がより重要だと、個人的には思います。
違いを探すより共通点を探した方が速いという点で。

最後に、前提条件が明らかに異なるのに体験談レベルの話で押し通そうとする人には、「話が具体的過ぎて本案権との関連がよくわからないので、もうちょっと抽象的に説明してくれませんか?」と言ってみると良いかもしれませんね。
普通は逆を言うんですけどw

Ahf

三年寝太郎さんコメントありがとうございます。

ある人が得た経験をどう周囲に適用、開示していくか。
ここが非常に難しいポイントになるかと思います。個人的にはまさしくその状態を目標にしていきたいのですけどね、やはりなかなか・・・。

最後に~、のくだりには思いきり肯いてしまいました。
いやはや、まったくですw

ビガー

意図が伝わっていなかったので、補足を。
私の云っている「標準化」というのは、三年寝太郎さんの文を引用させていただいて、

>対して、様々な経験を通して異なる事象を比較の上で、共通点や差異の整理をして自身の中に体系化された知識や知恵を蓄積していけば、効率化や改革、或いは創造に繋がる。それは、本人だけではなく、周囲の人にとっても有用なものに成りえます。

を指しています。
パッケージは上記事項をある観点で実装した1つのモノでしかないので。

だからなんだという話になると思いますが、要するにお客様は言い方悪いですが、オコチャマに
ヨシヨシするような感じにしておいて、自分たちのナレッジをしっかり作ることが将来的に大事な要素になるということがいいたいわけでした。

Ahf

>ビガーさん

ナレッジマネジメントな世界ですね。失礼しました。
理想として目指したいところではありますが、ナレッジを上手く構築し、
適用できるようにするというのは、かなり難しいですよね。

自分のナレッジは作れても、自分達のナレッジというのが物凄くハードル高いです。

三年寝太郎

こんばんわ。

>ある人が得た経験をどう周囲に適用、開示していくか。
>ここが非常に難しいポイントになるかと思います。個人的にはまさしくその状態を目標にしていきたいのですけどね、やはりなかなか・・・。

 私も以前悩んだのですが、これは実際はほぼ完璧に無理なのだと思います。

・経験とは、体験の積み重ねと既得の情報の取捨選択によって形成される反射反応の洗練である。
・そして、体験とは、そのほぼ全てが身体的な感覚を伴ったものである。

この前提を正しいと考えると、
結局は体験しなければ判らない。と身も蓋も無いことを言わざるを得ない。

少なくとも"私の経験"上は、同じ体験をしても、人によって感じ方も受け取り方も、そこからのアウトプットも全く異なるケースがままあるので、そもそも体験談を語ったり説明したところで、受け取り方が違うと伝える側が意図したところには落ち着かない。
マニュアル化できるものであったり、メタファーの様に一定の普遍性がなければ、万人に一定以上の精度で伝えるのは難しい。

なにより問題なのは、一人一人に時間をかけて理解度を読み取らないと、どう受け取ったか判断できないため、チェックも間違いの指摘もできない。
若い人は、自分からしゃべることが少なかったり、説明するための"自分の言葉"が身についてないのが一般的です。
つまり、検証が極めて難しい。

 知識は、ある一定の閾値を超えてないと物事の理解に役立つ力にはなり難いし、また、獲得した知識が効果や成果として現れるまでに相当な時間の経過が必要となる可能性が高くなります。
例えば、話を聞いたときには判らなかったことが、後で知覚できることもあるでしょうし、説明が足らずに後で理屈がわかって初めて納得できることもあるでしょう。
それは、時間の経過(=活動継続の困難)という障壁を乗り越えた、継続的な進歩を期待できない、という根本的な問題が待っている可能性が高いということでもあります。
好景気も不景気も関係なく、一貫して組織のバックアップの元で行えるなら、トヨタのカイゼンのように時間の経過と供に高く評価されるものに繋がるのでしょうけど、人の入れ替わりの激しい業界で、しかも中小企業で、となるとなかなかに難しいでしょうね(正直に言うとほぼ不可能、、、)。

 そうなるともう、これは「体験を伝える」のではなくて、可能な限り本人に「体験してもらう」しかないんだ、という結論に達しました。それも、可能であれば、1回ではなく複数回。というのは、体験を経験に変えるには、どうしても場数が必要になるケースが多いからです。(一度で十分なものもありますが)

 ということで、現場現物、リアルタイム、身体感覚、といった現実的な知覚・認知とその反復に基づかない限り、伝えようしていることを理解も判断も分別もできない、というのを前提として、「どうやったら体験させられるか?」を考えた方が良いのでは?と、今は思っています。

実はその時点で、体験させたいこととその理由はそれぞれでも、「どうやったら体験を伝えられるか?」よりも、目的(特に要求するレベル、地点)が具体的になっていたりします。。。

 どんな体験をさせるか?については、できる限り伝えたいことと同じ体験をしてもらう、或いはそれが難しいなら、メタになるべく近いもの、部分的にでも似ているもの等、幅が広いのですが、自分の経験ではなくても、実践系の啓発本や、雑誌やネットのビジネス系のサイトにある成功体験などから、自分が感じたことに近いものを選んで、取敢えずやらせてみて、受け取り方や消化の仕方、反応をみて、それらを元に判断して次をどうするか考える。

さらには、自分も全く経験が無いことでも対象にすべきなのでしょう。
時代は進歩し続けているのですから。

 新しいことをやる場合、何を持って評価するかが難しいので、踏み出せないのも判らなくは無いですが、傍で見ているだけではなく、自分からなるべく入っていって一緒に考えたり説明を受けたりして、ある程度は擬似体験が出来るし、それが自分にとってもプラスになるでしょう。
そして、どんなに悪くても、携わった人の成長は体感できるものだと思っています。

またまた長くてすみません。

Ahf

コメントを読ませて頂いて「知識を伝えるより体験をしてもらう」、なるほどと思いました。

体験をしてもらうことが、当人にとって最も近道であるというのはすごく納得できます。思い出してみると、私もそのように色々な事を体験したからこそ、今があるというように思えます。

そうなると続く問題は、いかにそれを継続(自分達だけでなく続く世代へと)していくか、という点でしょうか。教わること・経験することを覚えた人達をどうやって「教える」側へと向かわせるか、新しいことに対して自ら進むように仕向けるか(言葉は悪いです)

きっとここエンジニアライフを見に来てくださるような方々は、自ら何かをやろうとすることができるタイプな方が多いと思います。そのような方達がどう行動すれば、そうではない(受け身な)人達を誘導することができるか。

上手い言い方が思いつかなく、どうも良くない表現になってしまいますが・・・。
すいません。

三年寝太郎

こんばんは。
10日間も休むと、しかもケータイとテレビ以外の情報をシャットアウトしていると、世の中の事情が判らなくなってしまって困ります。
一定の情報を拾い上げて軽いリハビリが必要になっているのが恐ろしい。
普通に仕事をしているだけでも、いかに情報(Information)に振りまわされているのかが判ります。

ただ、幼馴染と一緒に磯で潜って貝を取ったり、集まって飲んだり、あるいは20数年ぶりに再会した同級生と近況を報告しあったり、全くの偶然で故郷の防災イベントに軽く巻き込まれて、私が子供の頃におじさんだった今はおじいさんになった人たちに軽く弄られたり、親戚との付き合いや墓参りを通じて、心を通わせた人が減っていることに改めて気づいたり・・・と、久しぶりにヘビーな、ディープな、そしてリアルなコミュニケーションを満喫しました。

> そうなると続く問題は、いかにそれを継続(自分達だけでなく続く世代へと)していくか、という点でしょうか。
 体験の継続は、IT産業の発達する以前、というよりも人類発祥以後、常に重要なものだったのだろうと思っています。
さすがに現代と昔とでは情報の量には圧倒的な差があると思いますし、地域や文化的な違いからも差は生じるのですが、人間にとって重要な"もの"(常識やモラル、メタファー等)は、条件の違いを超えて通じてしまうものです。
2000年以上も前のヨーロッパや中国に生きた人が残した言葉が、今でもまったく新鮮さを失わずに立派に通用するなどどいうことが往々にしてあるんですから。

誰でも知ってる格言の一つに「継続は力なり」があります。
それはまさにその通り。
ですが、あえて条件をつけさてもらうなら、

明確且つ正しい目的と、継続が可能な状況があること。
に、なるでしょうか。

最低限、自分自身の目的がはっきりしていれば、オーディエンスは居なくても良いのだと思います。

自らコントロールしてこそ責任が持てる。
自己責任は、過程(言動)に対して負うべきであって、結果に対して負うべきものではないと誰かが言ってましたが、悪い結果を出してしまった場合は、責任を取るよりも罰を与えられることの方が意味が大きいのですから確かにその通りなんでしょう。

もしかしたら、是非を問われない程度に良い結果が出なかった場合の方が、その人の責任の取り方の良し悪しが一番わかりやすいのかもしれません。
表面には見えないほどのわずかな違いしか無かったとしても、刻まれたものは確かにある。それが反復して刻まれると、癖や習慣として残る。

怠惰では無かったか?怠慢では無かったか?不遜ではなかったか?
傲慢ではなかったか?思いやりはあったか?誰かを悲しませなかったか?
問うべきことは多い。負うべきものと同じ程度に。

過去の経験にとらわれ、やり方を変えられないのは、川が常に自らが刻んだ地形にそって流れるのと同じことなのかもしれません。
地質や地形、水量にもよりますが、誰かが無理にでも変えなければ、流れは変わらないのでしょう。

Ahf

と、10日も休みでしたか・・・うらやましい・・・。

「自分自身の目的がはっきりしていればオーディエンスは居なくとも良い」
その通りだと思います。そしてそれを実行し続けていくということが、
とても強靱な精神力を必要としますね。

現在私は社内勉強会という形で行っていますが、その状態を実感しています。
まだまだ考えなくてはいけない点が多々ありますよね。

ば私も自分が行っていることが、誰かに刻まれていることを願います。

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