好きになれないAI生成
いつも通りあっという間に4月が終わり、今年も三分の一が終わろうとしています。私の住んでいる場所ではもう少しで桜が咲くかなというところですが、同じ地域でもすでに満開になっていたりするものもあるので、やはりこちらは広いなぁと毎年感じる次第です。
仕事の上ではありがたいことに慌ただしい日々を過ごせており、多くのタスクをこなしている毎日です。今期からは開発側ではなくその前段階にウエイトを置くことになったのですが、AI を活用してあれこれするのはどのポジションでも同じだなと感じています。特に情報収集や情報解析を行う場面では、AI の力が非常にありがたいと感じることが多いです。うまく活用できれば、自分のアウトプットの質をまだあげることができるとも感じています。
ただ、AI をある程度使っているにもかかわらず、どうしても好きになれないケースがあります。それは、最終的なアウトプットが AI が作成したものだと感じ取れるケースです。画像、動画に文章、多くの場面で AI がすべて作りましたとわかるコンテンツが目立つようになりました。自分の個人的な感覚ではありますが、どうしても人の手が見えないコンテンツというのが好きになれません。
実際問題、まだまだ AI が生成したコンテンツというのは人間の目で見破ることができるものが多いです。どこかのタイミングでそれも難しくなるとは理解していますが、まだまだそこまで到達していないのも理解しています。また、日本固有のものとして、多種多様な言い回しがありますので、AI による文章生成では特に人間らしさを感じないもの、もしくはありきたりな形でしか AI による文章生成は行えていないと思います。ここは私の考えですが、日本語に対して AI は意味を理解することができるけど多様な表現を行うことはできないと思っています。実際どこまでできるのかを調べてもいないので、やってみたらすごく日本語的な文章でした、なものを作ることができるかもしれませんが。
そのような点もあり、人が介在していないものに対して説明の難しい忌避感が私にはあります。不気味の谷のようなものかもしれません。すべてを AI に任せて人間があまり手を動かしていないことに感じる古臭いお気持ちかもしれません。仕事として考えた場合では、AI だろうと人間だろうと最終的な成果物が問題なければよいので、そこまで人間らしさを重要視することはないのですが、作品的な面を持つ必要があるものの場合は人間が作成したという証が感じ取れなければ忌避感を感じてしまうのかもしれません。この辺りは理屈としてこうだと言えるところでもないので、あくまでも私個人の気持ちの問題でもあります。
時間が経過しさらに AI が発展することで、私のように忌避感を感じる場面も減るかもという期待はあります。それよりもこちらが考えている以上に発展し、今回書いたような心配事自体が無用の長物となってしまうことも十分にあり得ます。どのような未来が待ち構えているかはわかりませんが、注意深く見守り自分も適用できるようにしていきたいものです。なんとなくではありますが、こういった忌避感も問題ないレベルにまであっという間に進化するのではないかな、という点はほぼ間違いない気もしていますので。