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自己家畜化とアジャイル

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言わずもがな、生物にとって最大の問題は環境の変化である。生物は環境に適応しようとするが、極度に適応してしまうと急におこる変化に壊滅的なダメージをうけてしまう。

家畜は、人間が管理する環境に極度に適応した動物である。品種改良で人間環境に適応させた、動物ではあるが。歴史的にみると犬や猫の様に自ら人間の環境に適応することを選んだ動物もいる。また、人間自身も自ら作った環境に自身を適応させてる家畜である、という考え方もあるそうだ。これを自己家畜化という。

人間は家畜。自ら作った環境に極度に適応した生物である、という自覚はとても大切だと思う。例えば地球温暖化問題。おそらく地球の気温が上がっていること自体はあまり問題ではない。人間が今の環境に極度に適応しているため、地球温暖化がもたらす環境変化に対応できないことが問題なのだ。そして地球温暖化自体も人間自身が引き起こしている可能性がある。

極端な話をすれば、地球が温暖化すれば住めなくなる地域もあれば、住めるようになる地域もでてくるだろう。しかし人間社会には国境がある。国境がある限り、移り住むことは簡単ではない。例えば、ツバルが水没するが、ロシアのツンドラが住める環境になったとしても、ツバルの人がツンドラに移住することは簡単でないことは容易に想像がつく。人は国という管理された環境をつくり、その中で自己家畜化している。

地球規模での話ではなくとも、身の回りには環境に極度に適応したがために、急な環境の変化で身を滅ぼした話は枚挙にいとまがない。特に成功した組織ほど、そのなかで最適化が進んでゆくので、黒船が来た時に立ち行かなくなる。ムラ社会などその最たるもので、排他的既得権益エコシステムに中に身を置いてしまっていると、そのシステムが破綻したとたん、生きていくことは難しい。

自己家畜化は人類や組織という単位だけではなく、もしかしたら家や個人にも起こりうるのかもしれない。一昔前の推理物ではないが、古い因習の中で起こる殺人事件や、自分の世界の中に引きこもって社会との関りを閉ざす人たちも、自己家畜化なのかもしれない。そう言った意味では、正常性バイアスとは自己家畜化を起こす上での必要な認知機能であるように思えてしまう。

別に自己家畜化自体を否定するつもりはない。自己家畜化を進めたからこそ現代の発展、便利で安全、安心な生活がここにある。ただ、その反面、環境の変化には脆弱になっていく、というトレードオフを忘れてはいけないと思う。家畜の環境はなるべく変化しないように人間がコントロールするが、人間の環境は常に変化にさらされるているからだ。

日々の生活のなかで事故や事件がおこるとその原因が究明され、対策が施される。その繰り返しで社会は安全で便利になってゆく。仕事のなかでも、何かが起こることは忌避され、何事もなく完遂するとが求めらる。それらは仕組みとして展開され、社会や組織の中に定着する。しかし、その様な仕組みの中に慣れてしまうと何かが起こった際の対処が難しくなる。

では、どうするか。それは家畜となりながらも野性を持つことではないかと考えてみる。野性とは何かというと、生きることへの逞しさ。どういうことかというと、急な環境の変化が起こった際に生き残る行動がとれること。どうなることかというと、変化を早急に察知して必要なタイミングに生存確率が高い行動を即座にとれること。

技術者の中には鼻の効く人たちがいる。障害が発生した際に問題個所のあたりの付け方が上手く、障害の解消が早い技術者だ。彼らに問題解決のコツを聞いても、明確な答えー方法論ーを持っていないことが往々にしてある。野性の勘、と臆面もなく答える者もいる。コンプライアンス、エビデンス主義、嫌属人化などの最近の感覚からすると問題だが、現場ではこのような技術者がいるとは頼もしい。

一方で経営者の中には、何かの意思決定をして欲しいときに、エビデンスを出せという人たちがいる。エビデンスを持ってゆくと、これでは粗すぎるので判断できない、と言われる。こういう経営者は、そもそも意思決定ができない。エビデンスの精度の所為にしているが、どんなに精度の高いエビデンスを出しても難癖をつけるだけである。

野性のスキルは絶対に間違わないことを前提とすると成り立たない。少ない情報でも来るべく変化を予測し、生存確率の高い対策を即座に見つけ、適切なタイミングで実行に移す。精度の高いエビデンスなど待っている暇はないし、科学的分析というよりは勘や経験に基づくことの方が多いのかもしれない。

最近では、経験と勘からの脱却。データに基づく経営。などという言葉が流行ってはいるが、ITベンダーによるコーポレートプロパガンダ的な要素もあるのではないだろうか。確かに、サイコロを振るような経営判断をしてもらっては困るので、データに判断根拠を求めることは重要ではあるが、データはあくまで過去の事実であって、そこから未来は予測するしかない。線形的な未来の予測はITツールでも可能ではあるが、急な環境の変化はどこから来るかは分からないのでITツールで予測することは不可能であるし、そもそもデータを取ることができるかも分からない。

恐らくデータに基づく経営、というのはデータによって予測できる線形的な未来に対して精度をあげろ、と言っており、それはそれで重要ではあるが、予測できない急な環境の変化については何も触れていない。やはりそこは野性を働かせるしかあいのではないだろうか。予測するだけではなく、対処を考え実行に移すためにはなおさらだ。

2021年にPMBOKは第7版に改訂され、これまでのプロセスベースのアプローチからアジャイルなどの原理・原則ベースになり予測が難しいプロジェクトへ対応が可能になった。今さら言うまでもないが、アジャイルはソフトウェアは目的ではなく問題解決のための手段であり、ソフトウェアの利用を通じて問題を解決して価値を提供することこそが目的である、ということを前提としている(原理・原則)。そして精緻な計画を順守するのではなく、なるべく早くリリースすることで問題を顕在化し、それらを解決することを繰り返す。

ソフトウェアは多くの事象が複雑に絡まりあっているので、全ての問題を予測することは難しい。だから計画よりも適応を重視する。このことは、これまで述べてきた野性に似ている。証拠に、アジャイルを実践して感じることは、アジャイルの難しさは各イテレーションで何をテーマにするか、イテレーションで顕在化した問題をどう解決するか、にある。プロセスベースだと、プロセス毎に何をしなければならないかが決められているが、原理・原則ベースだとプロセス自体を考えなければならない。これらの方法論は示されていないし、プロジェクト毎に応じて変えないといけないし、全く同じプロジェクトは世の中に存在しない。

ではどうするかというと、やはり経験や勘に頼ることになる。ただ、勘とはサイコロを振って運を天に任せることではなく、表出化はできないが暗黙知としてもっている蓄積された五感の知識に基づく知恵である。アジャイルでは早いサイクルでイテレーションを繰り返すので、これら暗黙知が蓄積しやすい。しかも失敗も早い段階で経験するので、致命的な失敗にならず軌道修正が可能だ。そして、その中で見つけた原理・原則は判断の基準となる。

アジャイルのメタファーを踏まえてみると、家畜化とは今ある環境に適応することであり、野性化とは変化する環境に適応することであると思えてくる。実はそのバランスをとることが重要なのではないだろうか。例えば日光東照宮の陽明門の12本の柱があるが、そのうち一本は逆さに立っている。「満れば欠ける」という思想のもと敢えて不完全にしており「魔よけの柱」と呼ばれているそうだ。アップルはiPodの成功のあとiPhoneをリリースし、結果、iPodのサービスを終わらせている。所謂カニバリズム。AWSもドメインの被る様々なサービスを立上げ、統廃合を繰り返している。

完璧を目指しながらも、間違いや失敗を拒否するのではなく受入れて、五感の暗黙知を蓄積する。その中で原理・原則を見つけ出して、生存確率が高くなる施策を考え実行する。ただし致命的な失敗や間違いをしてしまうと、その時点でゲームオーバになるので、それは絶対に起こしてはいけない。その何が致命的で、致命的でないかという判断も、やはり経験である五感の暗黙知から導かれるのでスモールスタートのイテレーションから始める必要がある。

だから、アジャイルは難しいのだ。そんなことを考えてた今日このごろ。

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