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その開発は幸せかい?

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当たり前の話だが、システム開発は「正しいもの」を「正しくつくる」必要がある。後者はプロジェクトマネージメントの世界でいろいろな教科書があるが、前者は設計がそれにあたるかもしれないが、意外とその手法は確立されていない。

最近のアジャイルなどは、いかに「正しいもの」を作るかに重点を置き、間違ったものをつくらなければ、それは「正しく作った」ことになるとしている様に思える。

昔は技術も未熟で作れるものにも限界があり、それが「正しいもの」であるかは二の次だったのだろう。だから「正しくつくる」が重要視され間違わないための開発方法論が考えられた。

最近は技術も発展しいろいろなものが作れるようになった。代わりになにが「正しいもの」なのかが揺らいでいる。そこに追い付いていないのか、昔のまま「正しいもの」の議論を置き去りにして、「正しくつくる」ことだけに注力しているようにも感じられる。

「間違ったもの」を「正しくつくる」ことは不幸だ。作る過程にムリが出てくるし、強引に作り終えても、喜ぶ人はいない。そしてこの不幸な状況は多く見てきているのだが、問題は「正しいもの」を作る、という意識のないままもの作りに関わっている人が意外と多くいるということ。そしてこの人たちとは話がかみ合わないということ。

別に「正しいもの」を作るという意識のない人達は、「間違ったもの」を作りたい人たちではない。それが正しいか、間違っているか以前に、作るものに対する意識が希薄な人たちだ。彼らの行動基準は「何をつくるか」ではなく「何を言われたか」にある。言われたら言われたままに作ろうとし、それが「正しいもの」かは考えない。

この人たちに、それは「正しいもの」なのか、と問うても応えはない。それは「間違ったもの」だ、と指摘しても是正はできない。そして何より誰からから言われたまま作るものは「間違ったもの」である場合が多い。

こうしてまた不幸が作られる。わかっているだけにもどかしい。

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