知性と品性のはざまで
出張時につかった航空会社が「鬼滅の刃」とコラボをやっており、機内で
「鬼滅の刃 遊郭編」を鑑賞できた。本作は一昨年に映画でヒットした無
限列車編から始まるためか、オープニングがに集落を突っ切って延びる鉄
道を俯瞰しているシーンがある。このシーンはTV放映の直後に話題になっ
ており、その記事を読んだからであろう、確かに違和感があった。別に作
品自体の質に影響するものではなく楽しめたが、何故このシーンに違和感
を持つのか、すこし考えてみた。
シーンはオープニングの一瞬でうろ覚え。画面下の山間を抜けると平地が
広がり、画面上の山まで線路がまっすぐ続いている。その中間あたりに線
路を挟むように集落が広がっている。駅があったかどうかは定かではない。
時は大正、鉄道の黎明期である。なぜ不思議に感じるのか。それは集落を
線路が真っ二つに分断しているからだ。このような状況になるには、もと
もとあった集落の真ん中に線路を通したか、もしくは線路の周囲に後から
集落ができたか。そもそも鉄道は、往来の多い町と町もしくは観光地を結
ぶ様に敷設されてきた。だから線路の両端には人口密集地があるが、その
間はなるべくまっすぐ集落を避けて鉄道は走るはず。問題のシーンでは線
路が集落を突っ切っているので両端の目的地ではない。集落がもともとあ
ったとしたら、わざわざ集落を分断するように線路を敷設する理由がわか
らない。間違いなく分断された集落は不便極まりないし、集落の周囲には
空いた土地が残っているのでそこを走らせるほうが合理的だ。では、元々
あった線路を取り囲むように後から集落はできたのだろうか。それも考え
にくい。確かに私鉄の沿線開発で、駅の周辺に町を作って人を集める都市
計画もあるが、そんな人口的に計画された町ではない。何もないところに
自然と集落はできない。それが違和感だ。
遊郭編ではもう一つネットで盛り上がったシーンがあった。それは遊郭に
変装して潜入した善逸が三味線の才能に目覚め、じゃかじゃか弾きまくる
シーン。それが津軽三味線の曲調だから遊郭に合わない、というもの。
このシーンも見た。確かに遊郭に津軽三味線のイメージはないが、しかし
これは、絵面からすると善逸の超絶技巧が強調されているので、津軽三味
線の曲調があっているとも思える。演出、と言われればそうとも言える。
鉄道にしろ三味線にしろ、そのシーンに違和感を持つには、バックボーン
となる知識が必要になる。大正時代の鉄道や遊郭などの実物を確認するこ
とはできない。もし比較となる知識を何も持たなければ、そのシーンをそ
んなものだと素直に受け取るだろう。しかし何らかの知識があると、それ
と比較し、その差異が違和感となって現れる。ただし、アニメのシーンと
自分の知識、どちらが現実に近いかはわからないが。
こんな話も聞いた。
小学校の教材である「ごん狐」で、兵十の母親の葬式にごんが居合わすシ
ーン。教師が「(参列者への振る舞い料理を作っている)なべで何を煮て
いるのか」と質問したところ、子供たちが「母親を熱湯で殺菌消毒してい
る」「死んだ母親を煮て溶かしている」と答えたというのだ。そしてこの
話を例に今の子供たちの読解力が落ちているとの論を展開している作家が
いるらしい。気になったので「ごん狐」を読み返してみる。改めて読むと、
小学校の教材とはいえ難しいと思う。文章や物語、というより背景となる
風習が現代とはまったく異なっているからだ。昔の葬式は自宅で執り行わ
れるので、ご近所さんが加勢に来て振る舞い料理を作り、弔問客が訪れ坊
主が読経。棺桶は本当に桶で、担いで墓場までもってゆき穴を掘って土葬。
葬儀の一切が葬儀社で執り行われ火葬される今の葬儀とはかなり趣がこと
なる。ただでさえ死が遠くなってる現代の子供たちに、そういった葬式に
対する今昔の風習の差というものが、どこまで知識としてあるものだろう
か。それにしても教師が、鍋で煮ているものを問うた質問の意図は何だっ
たのだろう。子供たちが昔の風習を知っていれば、鍋の中身を想像するこ
とができるが、葬儀で料理をふるまうという知識がなければ、鍋で母親を
殺菌消毒したり、地獄絵図の窯ゆでを想像しても不思議ではない。その行
為が倫理的に常識的かを問うのはまた別問題だ。
そういえば自分は昔の風習などの知識はどこから得ていたのだろうか。
学校で習った自分で調べた、というよりは「まんが日本昔ばなし」や時代
劇だったと思う。TVから流れるビジュアルな情報は、わかりやすく知識と
して残りやすい。文化や風習に興味がなくても、チャンバラが面白ければ
それらは自ずと目に入ってくる。興味の主体だけではなく、そういった付
属情報までを垂れ流してくるのだから、TVは意外と優れた情報媒体だ。
ところが最近のTVからは時代劇の多くが消えてしまった。かつらや衣装、
町並みなどビジュアルの再現にコストがかかりすぎるのだとか。加えて時
代考証を間違うと虚偽の情報を流した、ということで怒られてしまうのだ
とも。真偽のほどはわからないが、世知辛い世の中である。「鬼滅の刃
遊郭編」では、子供に遊郭を見せてよいのか、どう説明するのか、などの
議論もあったようだが、昭和の時代劇はゴールデンタイムで家族そろって
見ていたし、当然、岡場所や吉原などは当たり前に登場していた。
そういう文化が事実としてあったのならば、都合の悪い事であっても、隠
すことよりも知識として伝え残すことの方が大切だ。映画「風立ちぬ」で
結核患者と同じ部屋での喫煙シーンにクレーム。不良マンガ「ろくでなし
ブルース」の単行本が再販される度に高校生が持つたばこが修正される、
犯人が車で逃走するさいにシートベルト着用等。リアルが倫理や道徳によ
って隠されてゆく世界は、果たしてまっとうなのだろうか。
時代劇に限らず昭和のTV番組は情報量が多かったように感じる。最近、
早朝に世界名作劇場を再放送していたが、「アルプスの少女ハイジ」
「フランダースの犬」「あらぐまラスカル」「母を訪ねて三千里」など、
外国の異文化がリアルに描かれている。また、サスペンスドラマでは、毎
週の様に舞台を地方に移し、その土地土地の名勝や歴史などを半ば強引に
紹介していた。サスペンス愛好家のみならず、旅好きやその地元関係者の
視聴者を取り込む作戦だろうが、まんまとはまって自分の興味がない情報
でも押し付けられて触れることにより、それが潜在的な知識として蓄積さ
れ、何かのきっかけで役に立つことがある。京都などはその良い例で、情
報のチャンネルが広いから全体的な知識量も増え、人気の観光地になった
のではないだろうか。
ところが、これもまたコスト削減の風潮からか、アニメはマンガ原作の作
品が中心で、ドラマも東京が中心で地方の観光地に出張ることは少なくな
った。余計な押し付け情報はコストのムダだから削減される運命なのか。
ただ、コストに同期して得られる知識量も減って来ているかもしれない。
ここで、自分の興味があって増える知識と、興味がなくても増える知識に
ついて、整理しておきたい。前者は自分で情報を収集して深さを増やして
いく知識。後者は誰かから情報が与えられて広さを増やしてゆく知識。知
識は深さと広さが相互作用を及ぼしながら増えてゆく。新しい情報媒体で
あるネットは前者と相性がよく、古いTVや新聞などは後者と相性がよい、
と言えるかもしれない。
先日、動画サイトのランタイムを見ていたら、何かの拍子に昔見たキョン
シー映画が流れて来た。懐かしさのあまり少し長めに見たところ、ランタ
イムがほぼキョンシーとカンフーの動画で埋め尽くされた。次に、でかい
耳垢をとる動画を、最初は何をしているかわからずに眺めていたら、ラン
タイムがキョンシーとカンフー、耳垢だらけになってしまい往生した。
ネットは基本PULLなので、大量の情報から必要な情報を能動的に取りに行
く。新聞やTVはPUSHなので、有限の情報が興味のあるなしに関係なく垂
れ流される。どちらが正しいとか有益かという話ではなく、それぞれの特
質踏まえて活用することが肝要だ。
ただ様々な情報媒体から、いろいろな形で情報を得たとしても、それがす
べて知識になるわけではない。情報はいったん自分の中で理解、咀嚼され
知識として定着する。そして情報を理解、咀嚼するにはベースとなる知識
が必要だ。そのベースとなる知識とは、教育によって与えられる教養であ
る。しっかりとした教養があると知識は雪だるま式に増えてゆくが、教養
がないといくら情報をあたえても知識は増えてゆかない。
昔いた役員が、あるとき北陸の案件があり金沢へ出張した。戻り次第、そ
の案件について協力会社の方と打合せしていたが、「初めて金沢に行った
けど、何にもないところだった」。すると協力会社の方が「金沢、いいと
ころじゃないですか。兼六園を中心に城下町や美術館もある」。するとそ
の役員はのたまった。「そんなの、興味ないな」。自分の無知さを興味が
ない、と片づける。興味がないのではない。教養がないのだ。
最近、気に入っている言葉がある。「何を言うかは知性。何を言わないか
は品性」。先述の役員は言わなくてよいことを言って恥をかいているのだ
から知性も品性もない、ということだろう。この言葉で重要なことは、
「言う」「言わない」で意思表示であり「言える」「言えない」の能否で
はない、というところ。言いたいことがあり、言える知識があったうえで、
何を言うか、言わないかを知性と品性で判断しろ、と言っている。
防衛大学校は言わずと知れた日本の士官学校だが、そこでは一般教養、リ
ベラルアーツに力を入れているらしい。その理由として、防大の卒業生は、
自衛隊の士官となり人の前に立ち自分の意思を示す役割となる。その際に、
教養がなけれけば人は感動しないし、その意思に従おうという気にならな
いからだそうだ。まさにその通りで、先述の役員の指示には従う気になれ
ない。
冒頭で、何かを見聞きした際に自分の持ってる知識と照らし合わせ差異が
あると違和感を感じると書いた。その違和感をきっかけに、論考が始まる
とも。実はこのレベルでは知識はまだ本来の役割をはたしていない。次に
教養というベース知識を核に知識は雪だるま式に増えていくとも書いた。
しかしこのレベルでもまだ、個人の知識の話である。防大は将来の士官が
意思を示し、人が共感することを目的にリベラルアーツに力を入れている、
と書いた。重要なことは、この点である。何故、士官は自分の意思を示し、
共感を得ないといけないのか。
SECIモデルを提唱している野中郁次郎が言っている。一人称(主観)の
知識が共感をもとに二人称(相互主観)となり、やがては三人称(客観)
となって世界が変わる。ひとりひとりが持っている知識では、まだ個の中
に留まったままで、何かを変えたり生み出したりはできないが、それが三
人称、すなわち多くの人たちの共感を得て知識が融合すると、世界を変え
る方法を導き出すことができる。これを知恵といい、まさに「三人集まれ
ば文殊の知恵」というわけだ。
本コラムは"知識"をキーワードに思いつくことを思いついたままに、ダラ
ダラと書いてみた。もう少し言いたいことを明確にし、余計なことを書か
ない方が、読者の共感を得られたのではないかと思っている。
そう、まだまだ知性と品性が足りていないということであろう。