ブラックとホワイトの狭間で
〇我々はブラックなのか
昨今、大手広告会社の社員過労自殺問題で働き方改革という言葉をよく聞くようになった。また、厚労省はブラック企業の公表基準を見直し、労基署から是正勧告を受けただけで公表されるようにもなった。過労自殺やブラック企業を労働時間だけで評価するわけにはいかないが、世間は長時間労働に対して厳しくなってゆくのだろう。
そしてこのような情報に触れると、どうしても心がざわついてしまう。
当然、過労自殺やブラック企業を肯定してい訳ではない。パワハラや行き過ぎた指導、サービス残業などは許されるわけではないが、長時間労働に関しては、どうしても発生してしまう現実があるからだ。どうしても開発を生業としていると、残業は当たり前で徹夜作業や休日出勤が常態化してしまう。いちプロジェクトの一過性の状態ならばまだ良いのだが、景気がよくなり案件が増えると開発メンバーはプロジェクト渡り歩き、長時間労働の状態が普通の状態になってしまう。もちろんのこと、長時間労働の常態化を好んでやっているわけでもなく、メンバーの定時内の働きのなかで、なんのトラブルもなく計画通りにプロジェクトが進むことを目指しているのだが、小さい会社の限られた人的リソースだと、それはとても難しいと感じてしまう。
まあ、それはウチだけの問題ではなく、業界自体の課題でもありシステム開発の業界にブラック企業が多いと言われる所以かもしれないのだが。
こういった状況のなか、ダークサイドには陥らない様に、残業代の支払は当たり前の事、メンバーのモチベーションには気をつけ、しんどいながらもやりがいをもってプロジェクトに臨んでもらっていたのだが、最近はそれだけは足りず労働時間の縛りが出てきた。やらなければならないことは多くあるのに、メンバーが働けない。代わりのメンバーも見つからない。じゃあ一体、どうしろ、というような状況が起こりうるのだ。
〇CS vs ES
そのような中、ダークサイドに陥ってブラック企業にならない様にという事で出てきた言葉が働き方改革だろう。よくわからないので調べてみると「働き方・休み方改善ポータルサイト」というサイトがあり、働き方改革の取り組み事例が紹介されていた。多くがノー残業デイの設置や有休消化率の向上、リフレの設置、テレワーク、ダイバシティなどを挙げられている。
ノー残業デイや、有休消化、リフレなどは長時間労働の抑制であろうし、テレワークやダイバシティなどは多様性への対応であろう。興味を引いたのが多くの事例がノー残業デイや有休消化など従業員満足度の向上が目的なのに対し、中には顧客満足度の向上(サービス品質の向上)の目的の中で従業員の働き方改革を位置付けている企業もあるということ。
これは非常に難しく感じる。顧客満足度と従業員満足度のバランスをとることは経営として重要であるが、よく日本の企業は過剰サービスであるという論調も耳に入る。日本企業が提供する肌理の細かいサービスは賞賛をうける一方で、従業員の献身(犠牲?)の上に成り立っている、というのだ。実際に、提供したシステムに障害で客先から電話があった際、たまたま担当者が昼休みに昼食をとりに外出して応対できないと、「こちらが大変な思いをしているのに昼飯で不在にするとは非常識だ」とクレームを入れられたこともある。あながち、そういったクレームにどう対応するかだが、往々にして顧客満足度のために従業員が犠牲になることがある。顧客に過剰なサービスを提供すれば、利益か従業員にそのしわ寄せが来るのは確かだし、現に日本のサービス品質の高さと日本人の勤勉さ(働きすぎ)がいつも話題になるのだから。
さらに「お客様は神様です」的な過剰サービスは実は顧客満足度を向上させない、という話もある。お客様の無理難題に応えてゆくサービスはお客様に喜ばれる一方で、サービス提供側を疲弊させ、同等のサービスを提供することが困難になるため、中長期でみると顧客満足度は下がるというのだ。
これも一理あるように感じられる。少し意地の悪い言い方をすれば、神様扱いされたお客様が勘違いし、チヤホヤされる事にかまけてしまい、本来自分たちでやらないといけない事が出来なくなってしまうような事ことが多々見受けられるからだ。例えばシステム開発を請負ったのだが、本来ならば客先担当がやらないといけないことを過剰に手伝ってしまったため、担当からは喜ばれたができあがったシステムはグダグダだったなどもありえる。
日本では受発注者の間に力差があり、発注者優位の商習慣があるが、アメリカなどでは受発注者の間は契約のもとに対等であるような話も聞きはするが、実際のところ経験したわけではない。ただGoogle社が空港の図面をネット上に公開した際に、メールで謝罪した。という記事を読むと、日本とは文化が違うなと感じてしまう。
〇少しホンネ
炎上覚悟で、長時間労働について少しホンネを書くと、正直、必要悪と考えているフシがある(あくまでも長時間労働であり、ブラック企業ではない)。理由は大きく二つ。ひとつは受注(プロジェクトの数と規模)と社内技術者のアンバランス。経営上、プロジェクトが増えることが売上が増えるのでうれしい。しかし、受注は年によって波があり、社内技術者の数は最低時の受注量で決まってしまう。受注の見込みがないのに技術者を増やすことを経営者は躊躇してしまうからだ。また外注化もコストの問題があるので、なるべく少ない社内技術者で多くのプロジェクトをこなそうとする。そうするとどうしても、社内技術者に負担が行ってしまう。
もう一つは、技術者の育成。この業界、技術者は一生の技術力向上と向き合ってゆかないといけない。そのため、プロジェクトはメンバーの自己啓発と人材育成を考慮しないといけない。また、未熟な技術者と熟練の技術者の生産性は下手をすると何十倍も差が出る。本当に生産性のある仕事をしている時間を定時でやるとなると、技術取得と向上の時間がどうしても時間外で考えるしかない。そんな時間分の費用は認めないという考え方もあるかもしれないが、それでは意識の高い技術者はいつかないだろう。そして、人材育成の時間は未熟な技術者程多くなるし、基本的にはそれで良いと思われる。技術は量と質を熟さないとダメなのだから。ただプロジェクトにいる限り、納期の縛りがあるのでどうしても徹夜や休日出勤をやってでも自分のタスクは終わらせなければならない。
〇我々の働き方改革って何?
そんな状況の中、あらためて働き方改革って何だろうと考えてみた。
残業をするな、有休をとれ、リフレをくれてやる、というのは簡単だ。22時に会社の電気を強制的に消すのも良いだろう。本当にそれだけで働き方改革になるのだろうか?正直、開発現場には今以上の負担が来るだけの様に思えてならない。だから、現場の時間を減らすのであれば、業務量も減らすことをセットで考えないといけない。社内技術者の数を増やして業務を割り振る。未熟な技術者を参画させず熟練技術者でプロジェクトを回す。赤字容認で、外注化する。いっその事、顧客満足度は下がってもよいので、客先との打合せ減らせ、いらぬフォローはするな、受注金額を増やせ、など。
どれも、経営者にとっては難しい判断と感じるられる...。
そう。これまで通りのシステム開発というビジネスモデルの中では、働き方だけを改革するのはとても難しいのだ。
となると、ビジネスモデルを変えるしかない。優秀なノンプログラミングツールやAIを駆使して、開発工数を劇的に短縮する。開発は全てアウトソーシングし販売と企画・設計のファブレス化。請負開発をやめてクラウドでのサービス提供業へ。かつて、機械化のながれのなかで、しんどい仕事が人から機械に置き換わっていったように。
ん?これは本末転倒ではないか。働き方改革は、その人が働いている事が前提で、仕事がなくなってしまうと、それそれで別問題だ。
...やはり難しい。働き方改革は経営者はもちろんのこと、労働者にとっても難問なのだ。
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コメント
非現実性AR
プログラムってのは本質的に「耐久消費財」なんです。
こう書くとどこぞのコラムニストが発狂しそうですが、現実がそうなんだから認めるしかないわけですよ。
つまりどこかに飽和点があるし、コモディティ化も必然起こる。
新発明なんかそう頻発するはずもないし、無理矢理新提案したってニーズがないものが売れる訳ゃない。
そういうどん詰まり、パイの大きさが決まっていると認めた上での経営戦略をするしかないのと違いますか。
成長青天井前提で経営するから歪むし破綻するんです。
まずは身の丈計るところからでしょう。
山無駄
どうも 非現実性ARさん コメントありがとうございます。
プログラム(ソフトウェア?、システム?)を「耐久消費財」といって良いのかは分かりませんが、この業界コモディティ化が激しいのは確かですね。ハードウェアのPCやネットワーク機器、周辺装置はまさに最たるもので、20年前にPCは50万円以上もする高価なものでしたが、いまや10万円程度になるり、ほぼ消耗品に近い感覚です。価格的には1/5程度になっていますがスペック敵には10倍以上になっているわけですから、かなりの価格破壊です。
サーバ機器も用途が特殊であるためPCほどコモディティ化は進まないと思われましたが、PCの高スペック化がサーバとPCの境界を曖昧にし、PCがサーバになる時代になってしまいました。加えて、コモディティ化ではなくイノベーションだと思うのですがクラウドの出現で価格はさらに下がっています。
ソフトウェアも、プログラマーは昔は特殊技術者で高額な単価で稼いでいましたが、VBなど簡易な言語の出現により誰でもできる技術になってなってしまったとたん、単価は下がってしまいます。DBやセキュリティ、ネットワークなど特殊性のある分野ではまだ高額単価かもしれませんが、プログラマーほど需要のある職種ではありません。加えて、Googleなどの出現で高機能なソフトウェアが無償で使えるようになると、開発技術者のできることは限られてきて、さらにコモディティ化が進むでしょう。
ただ、この業界が特殊なのが、コモディティ化がイノベーションにつながっているという事ではないでしょうか。他の日常品の様にスペックが変わらず徐々に価格が下がっていく、というよりかはIT業界はスペックも価格も信じられないほどの短期間で変化しました。この変化は、システム化ドメインの急激な拡張をもたらしています。これまでシステム化ができなかった領域が、システム化されてきているのです(デジタル化といった方が正確?)。会社に数台だったコンピュータはPCとなって社員全員にいきわたり、タブレットやスマホになれば、ほぼ国民全員が持っています。いままで一部の業務だけに使っていたシステムは、いまやそれがないと業務は回りません。
おそらく、今、自分たちが主流と考えている事業ドメインは急速に縮まってゆき、別のところに新しいニーズが広がって行っているのでしょう。だから、おっしゃられる様に成長青天井の経営は破たんするし、短期変化の事業領域で、中長期の戦略をたてないといけないから、経営は難しいように感じられます。
和(わ)
>受注の見込みがないのに技術者を増やすことを経営者は躊躇してしまうからだ
その通りだと思います。
受注がないから手が余る人が出てくる -> サボっている!問題!
となるのは目に見えています。
しかし、例えそれで手が余っても、
手が余ったら学習する -> 次のプロジェクトが早く終わる -> 更に学習して次に備える
ということができると思います。
日本の会社は技術習得を軽視し、とにかく作業をさせたがります。
長く作業をすればするほど良い、それが勤勉で美徳だ、という愚かしい風潮で、負のスパイラルだと思います。
山無駄さんの「技術者の育成」を読んだ時に、学習の時間は時間外でやるという風に見受けられましたが、私は学習の時間は勤務時間でやってもいいと思いました。
山無駄
どうも 和(わ)さん コメントありがとうございます
>山無駄さんの「技術者の育成」を読んだ時に、学習の時間は時間外でやるという風に見受けられま>したが、私は学習の時間は勤務時間でやってもいいと思いました。
すみません。分かり難かったかもしれませんね。言いたかったことは、プロジェクトにアサインされて忙しい時に勉強時間をどうとるか、という事です。プロジェクトにアサインされていると作業を見積らいないといけません。その見積もりの中に学習時間を含めてしまうと、当然、そのプロジェクトはコストオーバーになってしまいます。だから定時で作業を見積り、定時外で学習するしかないのかな、と。当然、学習時間も時間外勤務として認められないといけないのですが、勤務時間に制約が出てくると業務優先で学習時間は優先度が下がってゆくのだろうなと。
しかし、実態は業務の中でスキルを向上させるOJTなどが主流となるので、定時は業務、時間外で学習というのは難しいと思います。
Google社の様に勤務の20%は好きな研究にあててよい、というのも理想ですが、請負開発を主体でやっている限り、それも難しいかと…。
非現実性AR
1980年代くらいは科学万能と言われてました。
21世紀に入ってとんと聞かなくなりましたが。
それはつまるところ、科学では解決できない領域があると周知されてきたからではないでしょうか。
それ同様ITで解決できない領域というものも存在し、現在その境界線に達しつつあります。自動運転とか馬鹿言ってんじゃないよって話ですな。
無限に仕事が湧いてくる訳ゃないんです。
もう大きくならないパイの取り合いの結末は、大多数が季節労働者化ではないかと睨んでいます。
IT土方と言うのも前世紀からある呼び名ですが、今にしてみると言い得て妙でしたな。
山無駄
どうも、非現実性AR さん
うーん。科学万能と言われなくなったのは、科学で解決できない領域がある事が周知されたというより、すべて科学で解決しないといけないという原理主義みたいなものが一時期はやり、それが落ち着いたからではないかと感じます。ITも同じで、仰るようにITで解決できない領域というのは存在することは、この業界に身に置くものとしては十二分に理解し忸怩たるおもいをしながら仕事をしております。ただ、万能というものがこの世に存在しないの同様、ITが解決できない領域があることは確かなのですが、いま解決できない領域が今後も解決できない領域であるということを言うにはまだ、時期尚早のように思えます。
交通事故死者の数は、ピークだったS45に比べると1/3になっているそうです。ところが事故の発生率は変わらず横ばい。車の性能の向上、シートベルトの徹底、医療技術の発達なので死者数は減ったものの、人の運転技術に依存する事故自体の発生件数は変わらない。おそらく、今の仕組みでは限界なのかもしれません。事故の発生件数が減らないという事は、画期的に人が頑丈にならない限りは死者数もやがては減らなくなってくるでしょう。もし、自動運転技術が発達し、事故の発生件数自体が減らせるのであれば、死者の数も今以上に減らせるのかもしれません。それは自動運転にすると死者がなくなるという事ではなく、自動運転にしたことによる新たな問題が発生することも、また確かなことなのでしょうが。それでも、技術の力で少しでも不幸な人が減らせるのであれば、その取り組みは大切だと思います。
今いる、この事業領域がやがて衰退しすることは人が老いてやがて死を迎えることと同様間違いないでしょう。その結果が大量の季節労働者を生み出す事かもしれません。しかし、それがIT産業全体の話かというと、それはまだ先の話だと思います。
非現実性AR
確かトヨタあたりが言っていましたが、自動運転が実現しない理由は「法律」です。
突き詰めれば社会のあり方であり、生活のしかたであり、倫理の問題です。
ITは責任問題を複雑化させているだけで、解決には決して寄与しません。
死人が出なければ不幸じゃない? そんな訳ないでしょう。
IoTなんかもその手の臭いがぷんぷんします。
そしてそのくらいしかトピックがないIT業界は、やはりどん詰まりが近づいているのではありませんか?
10年先とか高をくくっていると足元すくわれかねませんよ。
ある
コラムの結論が、技術者がいらなくなるようなビジネスモデルまで飛躍してしまってましたが、
働き方改革は、絶対にビジネスモデルの転換がセットで必要と思います。
前提になる環境が変わらないのに、働き方だけ劇的に変わるなんてことはないな、と。
例えば、請負だけでなく自社ソフトの開発・販売を2つ目の武器として持つ。
そうすることで経営が安定するので、無理な請負案件の受注が減らせる。
そうやって割に合わないデスマ案件を減らしていかないと現場の負担は減らない気がします。
自動化はすべての企業に等しくやってきますので、自動化できない高付加価値の部分を
強みにするような単価の高い仕事へのシフト。
自社の技術者を活かすようなビジネスモデルの転換、という視点で是非。
> Google社の様に勤務の20%は好きな研究にあててよい、というのも理想ですが、請負開発を主体でやっている限り、それも難しいかと…。
20%も割り当てられるかどうかはともかくとして、
ゆくゆくは苦しい請負開発主体のビジネスモデルから脱却したいと思っておられるのであれば、
苦しくてもこういうことをするべきなんだと思います。
一見、鶏と卵的な話のようにも思いますが、起点はトップの意思表示、経営戦略そのものだと思います。
数人のベンチャー企業で、資金もろくにない状態で新しい事業を立ち上げる人たちも
たくさんいる(もちろん死屍累々の先ですけども)わけですから、やってやれないことはないな、と。
山無駄
非現実性AR さん
心配してくれるのはありがたいのですが、どうもIT業界の行き詰まりをみている理由が、まだ理解できておりません。IT技術なのか、商慣習なのか…。
自動運転の前に立ちはだかっているのは「法律」の壁。それは確かでしょう。しかし法律も完全ではなく、何か状況や情勢が変われば、それに合わせて変わってゆくものです。新しい技術を実現化する際に考えないといけないのは、社会のありかた、生活の仕方、論理の問題。これも確か。でも、今の法律が未来のそれらまで網羅して成り立っているわけではありません。往々にして、社会のありかたや生活の仕方が変わって、追従して法律が変わるのです。自動運転が社会のありかたや、生活の仕方、倫理にどの様な影響をもたらすかはしっかり考え設計しないといけませんが、結果、交通事故や死者が減るのであればそれは十分に喜ぶべきことではないのでしょうか。その技術が確立し、社会が受け入れれば法律は変わらざるを得ません。死人が出なければ不幸ではないのかもしれませんが、交通事故で死んだ人は不幸だと思いますよ。
ITは今、他の業界・業種との融合が進んでおります。自動運転はIT業界と自動車業界の融合で、IoTというのは他業界との融合を表した言葉と言えます。この業界、バズワードも多いのでIoTがどこまで信ぴょう性があるかわかりませんが、額面通りうけとるならば、IoTだけでもかなりインパクトのあるトピックだと思いますよ。
山無駄
どうも ある さん。コメントありがとうございます。
>請負だけでなく自社ソフトの開発・販売を2つ目の武器として持つ。 そうすることで経営が安定するので、無理な請負案件の受注が減らせる。
そうなんです。まさに、そう言った話で、いまやっている事は始めたころはブルーオーシャンでも、急速にレッドオーシャン化してゆきます。それは、どの業種でも同じなのでしょうが、この業界は特に急速にすすむため、経営判断が追い付いていないのではないかと思います。実際、請負開発で必要になる技術(スキル)と自社パッケージを持つために必要な技術(スキル)は、かなり異なります。開発スキルという意味では大差ないかもしれませんが、請負開発は自分達の持っている技術(スキル)で仕事を選ぶことができますが、自社システムの開発となると自社にあるかないかは関わらず、必要な技術を準備するしかありません。営業の仕方も請負開発だったら人月の見積で良いのでしょうが、自社パッケージを売るとなると、マーケティングや宣伝も必要になります。
当然、技術やスキルは必要な時に必要なだけというわけにはいかず、年月をかけて培っていかないといけないので、2つの武器を持つためには、1つめが効力を発揮している間に、2つめの武器を用意する必要があります。
仰るように、ベンチャーができている事なので、可能だと思いますし、やらないといけないとは思うのですが、経営者の判断と覚悟ができるかが一番のかだいかな、と思っております。
非現実性AR
2011年頃の研究に「AT車の事故率はMT車の2倍近い」というのがあるそうで。
ここのところの誤発進事故もMTではまず起こらないものばかりです。
「技術『で』社会を変えてやる」なんてのは、もはや弊害の方が大きくなってますよ。
大体「よく吟味」されたことが歴史上一回でもありましたか?
みんな見切り発車で大事故起こして現在に至るまでグダってばかり。
IoTも安全性担保される前にやろうやろうばかりじゃありませんか。
ITだけで完結してる分にはまだ被害も少ないですが、あれは本当に危ないです。
いい加減懲りて学習すべきだと思いますね人類。
そして他分野に進出しようって話しか出てこないあたりが、ITの余地のなさを端的に表していると思います。
山無駄
どうも、非現実性ARさん
たしかに、そういう研究もあり、AT車の御発信が影響しているようですね。ただ、
先にあげた死亡事故はS45年ごろがピークで、今はその1/3になっています。S45は
MT車全盛の時代で、今は90%以上がAT車。AT車の出現で運転が簡易になり、車の
利用者層をかなり広げました。現在でMT車に乗る10%の人はある意味特殊な人です
ので運転技術もAT車の運転者より格段にうまい事が考えられます。だから、どの
時代で比較するかでかなり考え方が変わるのではないでしょうか。例えば、現在では
殆どがAT車で事故を起こしてるのだから、AT車の事故率はMT車の2倍以上あるように
思えますし。S45年と比較すればMT車がAT車に比べて3倍の死亡事故を起こしていた
と言えるのです。
それでも、現在においてはAT車の急発進が問題になっていることも、死亡事故が0に
なっていいない事。事故発生件数はS45年と比べて横ばいであることも事実です。
だから自動運転等の技術開発が行われているのではないでしょうか。例えば2014年
頃に出てきたEyeSightのような技術が普及すれば事故発生件数はかなり減るかもし
れません。これはAT御発進抑制制御も包含しているので、もう何年かすればAT車と
MT車の事故率は変わっているかもしれません。
>「技術『で』社会を変えてやる」なんてのは、もはや弊害の方が大きくなってますよ。
どうなんでしょうね。科学万能主義者のようなことを言うつもりはありませんが、
科学技術でも社会が変わってきたのは確かなのでしょうし、科学技術を積み上げてきた
社会が原始の時代に戻るとも思えません。科学技術は自然の摂理に寄り添うので、
弊害ももたらしますが豊さももたらします。それは科学技術を使う人類の問題であ
るので、豊かさとは何かを含めてその使い方をしっかりと見極めないといけないのです。
>IoTも安全性担保される前にやろうやろうばかりじゃありませんか。
これも少し違うと思います。トヨタが言ったように自動運転の障壁は法律なのです。
障壁が悪い、と言っているわけではありません。自動運転という新しい技術を社会に
持ち込む時には法律の改正という安全担保の議論が必要になっているのです。
そうやって、豊かさと弊害のバランスをとろうとしているのです。
>そして他分野に進出しようって話しか出てこないあたりが、ITの余地のなさを端的に表していると思います。
ITとは、そもそも現実のデータを仮想空間に持ち込んであつかう技術のこと。
だから我々が、現実の世界にいる限り仮想空間で何かを行っても何も意味がありません。
現実の世界から仮想空間に行き、そしてそれを現実の世界にフィードバックさせて
始めてITの意味がでるのです。だから、ITは他分野と繋がり、他分野間をつげるのが
その役割です。だから、他分野に進出(という言葉はニュアンスが違いますが)する
というのは、当たり前であり、余地のなさを表すわけではありません。