元底辺エンジニアが語る、エンジニアとしての生き様、そしてこれからの生き方

生き様155. マナー講師、マナーができてない

»

今週はリーダー論がアツい?

今週のエンジニアライフは、「リーダー論」がアツい様です。
キャリアコンサルタント高橋さん「最近のリーダーシップについて考える」を口切りに、
山無駄さん「無能な上司の作り方」と、
それぞれの視点で、リーダー論が語られています。

白栁も、常に「リーダーとはどう在るものか」と考え、観察しております。
世の中にはいろんなタイプのリーダーが居て、それぞれがそれで良いのでは?
リーダー像に正解はないのではないか?という考えにたどり着いています。

それが顕著に感じられるのは、スーパー戦隊のレッド像でしょう。
時代と共に変わる役割や多様性に、リーダ像の移り変わりを見ることができます。
まだ整理中ですので、この話はまた改めて……。


マナー講師の発信するマナーについて

ここ数年「マナー講師が発信するマナー」が一種のネットミームとなっています。
その要因となる事柄はいろいろとあるみたいですのでここでは触れません。

ですが、世にマナーを強く主張する「マナー講師」自体が、マナーを守ることができていないのではないか?
そんな本末転倒となることを考えていました。

今回は、「マナーの正体」を改めて考えつつ、
「実はマナーがなっていないマナー講師」についてお話してきます。

……と語る白栁は、マナーについてはボロボロの人です。


【マナー】の難しさ・厄介さ

【マナー】の難しい点は、「大体明文化されていない」ということです。
明文化されているれば、それは「ルール」と呼ばれます。
日本語であれば「規則・規約」です。
対して【マナー】は、「習慣・慣例」が相当する日本語です。
つまり、マナーは明文化はされていません。
その内容は「こういうケースではこういう行動がベター」ぐらいの意味合いです。

それが何故か「マナー違反」という強制力を発生させているのです。
その理由の1つは「日本の村社会」という習性の上に成り立っているものでしょう。
「抜け駆け禁止」と言うような、「横並び強制」と言うような。
そうやって守られてきたものもありますから、一概に「悪しき慣習」とも言えません。
しかしながら、「本来持つ意味以上の効力を持ってしまっている」という点。
これについて、もう一度見直す必要がありそうです。


「マナー」=【プロトコル】

【マナー】と同義で使われる言葉に「5W1H」があります。
別の言い方をするなら「時と場合」です。

マナーと一口に言っても、場面ごとに様々なものがあるわけです。

  • ビジネスマナー
  • 冠婚葬祭マナー
  • 観戦マナー
  • 交通マナー
  • 参拝マナー

一例を挙げただけでも、これだけ出てきます。
他にも、コミュニティ毎のマナーがあります。
世の中にある全てのマナーを把握するなんてできないでしょう。

これらのマナーは、闇雲に使えば良い、という訳ではありません。
マナーには、その時々に応じた使い分けが求められます。
「ビジネス」の場に「冠婚葬祭」のマナーを持ち出せば、大変なことになります。
同じ「冠婚葬祭」のマナーでも、キリスト教の葬儀に、創価学会の葬式マナーを持ち込んだら……宗教戦争不可避です。

マナーというのは、一種の【プロトコル】である、と理解できます。
場において「こういう行動をしますよ」という規範の取り決めなのです。
ですから、ビジネスの場においては、ビジネスの場としての取り決めが。
冠婚葬祭の場においては、冠婚葬祭の場としての取り決めが。
……という様に分けられているのです。

それは、プロトコルを決めることで無駄なコストを防ぐ、という意図もあります。
コミュニケーションのコストであったり。祝い金の様な金銭コストであったり。
結婚式のゲストの衣装についても、過度な競争を防いで本来の目的を見失わない為に。
そう捉え直すと、マナーの必要性についても感じて貰えるでしょう。


マナー講師の持ち込むマナーと「マナービジネス」

マナー講師の多くは、別の職業で所作に厳しい訓練を受けてきた経歴の人達です。
その経歴は、ビジネススクールであったり、茶道や華道であったり、フライトアテンダント(CA)であったりします。

そうして最近活躍するマナー講師の多くが行っている事柄が、
「別の場面やコミュニティからのマナーの持ち込み」です。

例えば、世界の様々な国や地域の人に対してサービスを提供するCAは、
多くの地域の人に対して不快にならない様にする所作を身につけています。
それは、客に心地よいサービスを提供すると共に、無用なトラブルを避ける為です。
その中には、平和な日本ではイメージしづらい、銃器に関わるものもあります。

そんな銃器に関わる懸念を与えないマナーを、日本で行ったらどうなるでしょうか?
例えば「懐に手を入れるのは銃を取り出す動作なのでしない」というマナーがあります。
それをビジネスの場で「名刺入れを懐から取り出す」動作に適用したら……。
私たちは、ポケットやカバンから名刺入れを取り出すことになりそうです。
そもそもの「ビジネスの場に武器を持ち込まない」というマナーは消え去りました……。

こうやって、別の場面に違うマナーを持ち込むことで新たな行動規範を作る。
そうすることで、自らを権威化する「マナービジネス」の動きを感じます。

本来であれば、場にそぐわないマナーを持ち込む事が「マナー違反」です。
つまり、「マナービジネス」を行う一部のマナー講師の側が、マナーが全くなっていない、という本末転倒な状態となっているのです。

メディアも、視聴者にショックを与えてお金を稼ぐ習慣から抜けられません。
マナービジネス側も、メディアの発信力は自らの権威化に必要な要素です。
「マナービジネス」とメディアは、とても相性が良い関係となるでしょう。
これが、変なマナーが持て囃されて取り上げられる仕組みです。
結局、そこにあるのはエゴだけ。【マナー】はないのでした。


おまけ:マナーの明文化について

近年、一部のマナーが明文化され始めている点は、注目したい点です。
代表的なのは、神社等の参拝マナーでしょう。

核家族化や都市集中が進み、上の世代から伝えられる地域や生活習慣での風習の継承が途切れています。
近年の「マナービジネス」は、そういう隙間を狙った部分もあります。
その積み上げられるマナーで、敷居の高さ・息苦しさを感じる層もあるのだとか。

これに対してなのか、参拝の敷居を下げる為なのか。
神社側が参拝マナーを明記することで、推奨される参拝の所作を明確にしています。
「書いてないマナーを勝手に持ち込むな」という発信も、度々されています。

行き過ぎたマナーが迷惑となる、という貴重な事例であるとともに、
マナーの明文化が及ぼす影響について、興味深く観察しています。

以上!

Comment(0)

コメント

コメントを投稿する