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システムを考える

前回は、システムを考えるうえで重要なことは目的を明確にすることと理を見つけることだと論じた。今回は、そのなかで理の見つけ方について考えてみたいと思う。

そもそも「理(ことわり)」とは事物の法則性のことで、世の中の物事はこの法則に従って移ろいで行く。物の理を定めた学問は物理学であり、この法則を無視することを無理という。逆に法則に従っていることを合理といい、この法則を知ることを理解という。

科学は観測で自然界の法則を見つける学問である。科学で発見された自然のシステムを理といったりする。一方で工学は人工物のシステムをつくる学問だ。だから自然の理の上に、システムを考えなければならない。しかも、特に情報システムなどでは、ユーザの感情や組織の力学、経営の判断など自然の理以外の理も関係するので余計に複雑になる。

そんなややこしい業界で長年過ごしている所為か、何だか物の見方が捻くれてきたような気がしている。その為であろうか、周囲が面倒臭がっている感じがひしひしと伝わる。では、捻くれた物の見方というのはどういう見方かというと、これは最近気づいたのだが、全ての物事をシステムを通して見てしまうからではないかと。

システムを通して物事をみる、とはどういうことかというと、見ている事象がどういうシステムになっているか、という事を常に考えてしまう習性。システムを考える際には、その目的と構成要素が則ている理を考えることが重要、というのは先のテーマで論じた通り。それが高じてしまうと、仕事ではなくても目の前にある物事のシステムはどうなっているのかと何かとついつい考えてしまう。そんな習性というか症状だ。

偶に、この仕事の建付けは、という物の言い方をする人を見かけるが、まさにそれで、その事象の建付けがなんであるかというのが気になって仕方がない。加えて対象がシステムとして機能していない、無理があったりすると気になって仕方がない。大きなお世話なんだが。

冒頭で理の見つけ方を考える、と書いたが、その答えは、理が何であるか、ということを常に考えて続ける、ということに他ならない。作るべきシステムを考えることを設計と言ったりするが、設計とは理を見つけて真理を探す旅なのだと思う。
ただ、その旅は絶対に周囲からウザがられる、という副作用をもたらすことも忘れてはいけないと申し添えておく。

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