自分の分からないことを分かるようになる魔法
前回のネタに関連して。
自分が分からないことについて、誰かに聞いて分かるようになる、という実践は実は難しいことなのかもしれない。そんなことを最近思うようになった。「know」ではなく「uderstand」の「解る」の方だ。
知らないことを知るためには調べればよい。しかし、分からないことを分かるためには、知ることに加えて自身の理解が伴う必要がある。
分かるための手段としては文献を調べたり、講義を受けたりといろいろあるだろうが、個人的には詳しい人に訊ねるのが一番の早道ではないかと考えている。文献を調べるには、まずは自分の理解度にあった文献を見つけなければならないし、講義も基本多人数向けのカリキュラムなので、その内容が自分にあっているかがわからない。
そう言った意味で、詳しい人に訊く方法は自分の理解度にあわせることができるので早道だと思ってはいたのだが、意外とこの方法の方が難しいのではないかと最近思えてきた。それは、人に何かを訊くには、その人から必要な情報を引き出す主体が自分にある、という点だと思う。
文献は、自分の知りたいことが書かれた文献を探す主体は自分にあるが、得られる情報は文献からの一方通行である。講義も多人数を対象としている以上、情報は講師からの一方通行だ。情報が相手からの一方通行である場合、自分は受け身でよいのだが、人に話を訊く場合は双方向の情報のやり取りが必要になり、最初に何を理解したいのか、どこが分からないのか、という情報を提供しなければならない。これが難しい。所謂、何を訊いたら良いか分からない、デッドロック状態。
自身、何かわかりたいことがあると、とりあえず関連した書籍を3冊買ってきて分かろうが分らまいが、最後まで目を通すことにしている。3冊読めば、なんとなくわかりたいことの漠然としたイメージは出来上がる。ここからが問題で、なんとなくのイメージはできても、分からない箇所は分からないままであるし、分かったと思っていても本当に正しい理解なのかが分からない。そしてこれらをクリアするには、文献や講習ではままならない。自分のまだ分からない箇所や、間違った理解をしている箇所にピンポイントで解決してくれるコンテンツを見つけるのに膨大な労力が必要となるからだ。
そんな時に、詳しい人に話を訊きたいと思うのだが、改めて考えてみると実は詳しい人と話をする前段で、漠然としたイメージを作る、というタスクが実行されている。所謂仮説検証の最初の仮説をたてる行為。別に書籍を3冊読む必要はないが人に話を訊く際は、仮説が必要である。その仮説に基づいて分からないことを聞く、間違った理解をしている箇所を見つけ出す。この行為が、分からないことを分かるようになるためのプロセスなのではないだろうか。
中には仮説検証をおこなわず、文献や講習などの一方通行の情報だけで分かったことにしている人たちに多く出会う。この人たちは、等しく同じような性質をもつのですぐにわかってしまう。まず、話が仕入れた情報そのままなので抑揚がない。ちょっと違った角度で質問するとフリーズしてしまう。何かに応用できない。根拠が誰それが言ったから、と自分の判断がない。
彼らに分かっているのか?と、質問をするとこれまた等しく分かっている、と返事があるが、これは分かるの定義が違っていて、彼らは知っているを、分かっている、と定義しているのだと勝手に思っている。
実のところ、このようなタイプの人たちと思った以上に多く出会うから、冒頭の問題提議をしてみている。そして分からないことが分からるようにることが難しい理由は、この仮説と検証を繰り返すプロセスを体系的に学べないからではないかとも考えている。恐らく、仮説検証を実践しないタイプも、自分が興味ある分野については無意識にうちに行っているはずだ。しかし、興味のない分野については、意識して仮説検証を繰り返さなければ、分からないことを分かることはできない。
ただ、分からないことを分かるようになるためには、仮説検証を繰り返す必要があるという事は、人間は知っている。そういった意味でもこれは「呪い」ではなく「魔法」の範疇だ。だから難しいかもしれないが、分からないことが分かるようになる魔法、これを修得するかどうかの問題であるともいえる。
コメント
匿名
魔法?
訓練じゃないかなぁ?
山無駄
どうも 名無しさん
もちろん訓練が正しいです。ただ、今回は葬送のフリーレン ネタに便乗しています。