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天上天下唯我独尊

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お釈迦様はお生まれになられてすぐ、七歩あるいて右手で天を指し、
左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と仰れた。

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現代社会は「多様性」が重要視されている。人種、宗教、性別、障害
の有無、国籍、価値観など個の持つ特性を尊重し受け入れる方が、環
境に適応し生き残り戦略に優位だとと考えられているからだ。
経営の世界では、ダイバーシティ経営という言葉が一時期流行った
(今も?)。最近では性的指向や大国の少数民族への人権問題などが
話題になる。

日本人は単一民族国家の意識が高いためか、自分と違うものに対して
は不寛容な方向へベクトルが働くように感じる。特にこの2年のコロ
ナ禍では自粛警察やマスク警察など画一性ベクトルが強く表れたので
はないだろうか。

「多様性」が生残り戦略において優位であることは間違いないと考え
る。しかし一方で、それは種としての生残りであり、決して個ではな
い、という冷徹な真理がそこにあるとも思える。

例えば今はLGBTQがマイノリティーであり、そのあげた声が社会に
届き始めその地位が認められつつある。しかしだからと言って、これ
まで差別をしてきた人たちが排除されるわけではない。「多様性」が
広がるといわれなき差別は減るだろうが、LGBTQをどうしても受け入
れられない人達は一定数残り、LGBTQを排除できない理由と同じ理由
でこの人たちも排除できない。

極端な話、人殺しをどうしてもやりたい人がいたとしても、これを排
除することはできない。
「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、や
むをえない」
ニーチェの言葉である。

「多様性」は種としての生残りに賭けるため、自分と違うものも受入
なければいけない。それは自分に害をなすものも排除できない、とい
うことにもつながる。だとしたら「多様性」の中で生きていくに際し
て大切なことは「距離感」と「拠り所」になるのではないだろうか。
自分に害なすものを排除できないとなると距離をもたなければならな
い。自分と違いうものを受け入れるには自分にとっての拠り所がない
と流されてしまう。

「天上天下唯我独尊」
暴走族の特攻服のイメージが強いこの言葉だが、主語を誰にするかで
意味が大きく変わってくる。「周囲が」自分を尊ぶ、となれば随分と
傲慢に感じる。しかし「自分が」自分を尊ぶ、とすれば(ナルシズム
ではなく)、自己認識の第一歩になる。
「多様性」の世界はフラットだ。何が間違いで何が正しいかなどはわ
からない。言い換えれば誰かが誰かを尊ぶことは難しく、自分は誰か
らも尊ばれないことになる。それでは自分は何を拠り所にしていけば
よいのか。

その答えは自分自身である。誰も自分を尊んでくれないなら、自分が
自分自身を尊ぶしかない。自分が自分を尊ぶのだから、地位や名誉、
出自や能力ではなく、唯々自分がこの世に生きている存在だけを尊べ
ばよい。それが「多様性」の世の中を生きるための「拠り所」である。

そんなことを生まれてすぐに仰られるのだから、やはりお釈迦様は尊
いのだろう。

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