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昏君!

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殷(商王朝)の紂王は名君であったが、女媧廟で不敬な詩を読んだため女神の
怒りを買う。女媧は九尾の狐に命じ、妲己の肉体を手に入れ後宮に潜り込ませ
紂王を篭絡させる。妲己に操られながら暴政の限りをつくす紂王に臣下は戸惑
い、大きく二つの意見に分かれる。

 〇君、君たらずとも、臣、臣たれ
  主君に徳がなく主君にとしての道を尽くさなくても、臣下は臣下としての
  忠誠を尽くさなければならない

 〇君、君たらざれば、臣、臣たらず
  主君に徳がなく主君にとしての道を尽くさなければ、臣下は忠誠を尽くす
  べきではない

後者を選んだ臣下は、「昏君(フンチュン)!」と吐き捨てて紂王のもとを去っ
て行き、やがてこのうねりが殷周革命につながって行く。
これは封神演義の冒頭のあらすじである。「演義」は正史ではなく物語なので
封神演義は芝居などでも演じられ、「昏君!」のくだりで聴衆は拍手喝采した
という。
因みに主君が暗君でも、臣下は忠誠を尽くさないといけない、というのは儒教
の思想で、後者は法家である「管子」にでてくる言葉である。日本でも江戸時
代は儒教色が濃かったため、バカ殿に忠誠を尽くした話が美談として多く残っ
ている。

翻って現在はどうであろうか?

そもそも、主君に忠誠を尽くすというシチュエーションはなくなったが所属し
ている会社の経営者が暴君や暗君であったら?
忠誠を尽くす、というまではいかないまでも惰性的に従い続けることが多いの
ではないだろうか。ニュースなどで経営者の不正問題を見聞きする度にそう感
じる。中には「昏君!」と公然と言い放つ部下もいるかもしれない。もしかし
たら周囲から(こっそりと)喝采を受けているかもしれない。しかし、美談と
して残ることは決してない。本当の昏君の前では、臣下はあまりに無力である。

妲己に操られていたとはいえ紂王は、信頼する商容(宰相)や比干(亜相/叔父)
の諫言すら耳に入らず、かつ彼らを殺してまで滅びの道をひた走っていった。
これがまさに昏君の昏君たるゆえんである。諫言でとどまるのであれば、それ
は昏君ではない。だから、管子の言葉「君、君たらざれば、臣、臣たらず」の
方が現実的である。周囲を不幸にしながら、ともに滅びの道を歩む必要はどこ
にもないのだから。

<まとめ>
 ①昏君に忠誠を尽くすべきではない。周りを不幸にしながら、滅びの道を歩
  むことになる
 ②昏君に諫言すると、自らの身を危うくすることを肝に銘じておかないとい
  けない
 ③でも、「昏君!」と口にする勇気は持ちたい。もしかしたら、昏君が我に
  かえるか、他の臣下が君主が昏君であることに気が付くかもしれない

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