トロイアのカッサンドラ
カッサンドラは「トロイの木馬」で有名な、トロイアの王女である。太陽神アポロンに
見初められ、アポロンの愛人になる代わりに予知の能力を授かった。しかし、先にその
能力を受取ってしまったために、アポロンが心変わりし自分を捨てる未来をみてしまう。
そこでアポロンの愛を拒絶して逃げ出してしまった。アポロンは憤慨したが、神様は一
度言ったことを取り消せない。そこで、アポロンはカッサンドラの予知を誰も信じない
様にする呪いをかけてしまう。
時にトロイアはアカイアとの戦争真っただ中。膠着状態だった戦況に、アカイア軍のオ
デッセウスは一計を案じ、巨大な木馬を作り、その中に兵を潜ませ、トロイアに送り付
ける。当然カッサンドラはその策略に気づき、木馬を城内へ入れない様に警告するが、
アポロンの呪いのため誰も信じない。ついには木馬を城内に入れてしまい、一夜にして
陥落してしまった。
我々は神ではないし、神から能力も授かっていないので未来を知ることはできない。
しかしある程度の事なら、未来で起こることを想定することができる。科学の発展はま
さにその歴史だ。世の中の仕組みが分かれば、現状を把握することで、未来に起こるこ
とを予測することができる。ビジネスの世界も同じである。ところがビジネスの世界で
は、予測したことを上司に伝えても信じてもらえないことが多い。特に悪い事だと、悪
いことだから早めに手を打たないといけないはずなのだが、信じてもらえない。こちら
の人徳の問題、と言われれば返す言葉もないが、こういうのを「正常性バイアス」とい
うらしい。身に迫った危険に対して、それを日常生活の延長ととらえ危険を過小評価し、
逃げ遅れての原因となるというのだ。加えてこの「正常性バイアス」も、人にとって大
事な心の機能らしい。日々の思いもよらない出来事に過剰に反応してしまうと心が疲弊
してしまうため、それを回避するためのメカニズムなんだとか。
もしかすると先の神話で、カッサンドラはアポロンから予知の能力を授かったわけでも、
呪いを受けたわけでもないのかもしれない。ただ少し分析能力がたけていて、アポロン
から捨てられることも、敵軍からの贈り物である木馬が怪しいことも見抜いただけなの
だ。実際ギリシャの神々が浮気性なことも有名だし、敵軍からの贈り物が怪しいことぐ
らい、予知でなくても想像はつく。だとすると、トロイアの人々が木馬を受け入れてし
まったことは「正常性バイアス」だったと言える。戦争は長い間膠着状態であったので、
トロイア側の緊張感が弛緩していたことは充分に考えられる。
アポロンのかけた呪い「誰も予知を信じない」は「正常性バイアス」のメタファーだ。
「正常性バイアス」が人の心のメカニズムである以上、昔からこれが原因の事故は多く
発生していたにちがいない。きっとこの神話は、「正常性バイアス」の寓話なのだろう。