あえて言いたい。「無知の知」は罪ではないが、「無知の不知」は罪であると。
別に訴える予定があるわけではない(訴えてやりたいことは多々ある)が、細川義洋氏の
「訴えてやる!」の前に読む IT訴訟 徹底解説(53):ユーザーの「無知」は罪なのか?
を読んだ。そこであえて言いたい。「無知の知」は罪ではないが、「無知の不知」は罪で
あると。これはユーザ側に限った事ではなくベンダー側も、である。
我々ベンダー側としても細川氏の主張、「ユーザーが義務を果たすためには、ベンダーの
協力や指導が必要であり、それを十分に行わないベンダーは義務を怠ったと見なされる」
に異を唱えるつもりはない。しかし、しかしである。ベンダーも全能ではない。ユーザの
抱える課題をベンダーが解決できるとは限らないのだ。
この業界も長くなるといろいろなユーザと出会ってきた。多くのプロジェクトを経験した
し、まあそれなりの失敗も経験した。
何をもって「無知」というかは議論の余地はあるが、経験則でいうと殆どのユーザは無知
である。まれに「彼は詳しい」というユーザに出会うが、それはパソコンの設定ができる、
というような話であり、システムに対して理解があるわけではない。情報処理出身のシス
テム担当者と出会う事もあるが、今ある社内システムの知識があるだけで、新しいシステ
ムに詳しいわけではない。
ユーザが無知でも、うまくいくプロジェクトも失敗するするプロジェクトもあるので、ユ
ーザの「無知」に罪があるわけではない。詳しいユーザがいた方がうまくいくかというと、
そうでもない。システム専門の部署があり、専門の担当者がいる会社でも失敗するプロジ
ェクトはある。
成功の可否は意外とシンプルで、ユーザとベンダーが一緒に問題解決に取り組めたか、で
ある。ユーザ側の問題であろうと、ベンダー側の問題であろうと発生した問題を双方自分
の問題ととらえ、解決に尽力できるプロジェクトは間違いなく成功する。
「ユーザはお客様なので、発生した問題は全てベンダーが解決しなければならない」
「システムはユーザのためのものだから、ユーザとベンダーが共に問題解決につとめるの
は当たり前である」
両方の考え方があることは知っている。しかし、
・プロジェクトにおいては、ユーザしか解決できない問題、ベンダーしか解決できない
問題、ユーザとベンダー共に解決できない問題が発生する
・プロジェクト成功の可否は、発生した問題をどれだけ解決したかで決まる
この2点は真理である。
もしも、自分では解決できないが自分で解決しないといけない問題があるという事を知っ
ていたら、人はきっと謙虚になれる。誰かに教えを乞う事ができるし、誰かの知恵を借り
ることができる。しかし、その事を知らなければ、人は必ず傲慢になる。問題解決の責任
を誰かに押し付け、解決できなければその責任を糾弾する。
プロジェクトが暗礁に乗り上げ訴訟問題になった時点で、ユーザとベンダーとの間に問題
解決をする共同体である関係性が構築できていないことは、想像に難しくない。そして、
勝訴するにしろ敗訴するにしろ、延々と精神衛生上悪く非生産的なやり取りを繰り返す作
業は、ユーザ側もベンダー側も、誰もハッピーにならない。
だから、繰り返す。
「無知の知」は罪ではないが、「無知の不知」は罪であると。
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コメント
MTA
あえて言いたい。「無知の知」を誤用していると
「無知の知」には、元々ネガティブ要素ではありませんので、”「天使」には罪はないが、「悪魔」には罪がある”と当たり前の事を言っているだけで、違和感を感じてしまいました。
単に”「無知」は罪ではないが、「無知の不知」は罪である”の方が良いと思います。
山無駄
どうも MTAさん。
それはそうなのですが、もともとが引用コラムタイトル「ユーザの無知は罪なのか?」
のアンサーとして出発しています。ユーザにしろベンダーにしろ、「無知」であること
自体はこの業界、よくあることなので、それで罪=プロジェクト失敗の原因になるかど
うかは判断できません。問題は「無知」であることに自覚があり知恵を出し合う事がで
きるか、「無知」であることに無自覚であり問題系決を丸投げするかで、プロジェクト
の成否が大きく変わる、という事が趣旨になります。そういった意味では、「無知の知」
の大切さを言えば「無知の不知」を問う必要はないのですが、無自覚の罪に気づきをあ
たえるため、繰り返しとネガティブな言葉を強調してみました。