第517回 理想の傾聴を考える
こんにちは、キャリアコンサルタント高橋です。
久しぶりの傾聴ネタです。私は傾聴を15年以上実践していますが、それでも未だに傾聴のことが分かっていないと感じることの方が多いです。勿論、技術的な部分ではできることも多いとは思いますが、それは傾聴の一つの側面しか表しておらず、それだけで傾聴ができているとは言えないと考えています。理想となる傾聴とは何なのか、今回はそんなお話です。
■傾聴ができない理由
過去にこのコラムで傾聴ネタは結構アップさせてもらっていますが、直近で言えばこの辺の話を書きました。
今、読み返してみると、どちらも傾聴の難しさについて自叙伝的反応に絡めて書いています。私だけではないと思いますが、傾聴時に自叙伝的反応をしてしまい、それが傾聴を阻害している例は良く見受けられます。私が考えるその理由は過去のコラムに書いていますが、一部引用します。
しかし、私がやっていたのはあくまでスキルとしての傾聴であり、何のために傾聴を行うのか?という根本的な部分が欠落していたように思います。
なぜ傾聴を行うのか?
それは「まず理解に徹し」たいからです。
そして、この時は以下のように続けています。
その当時の私は「まず自分のことを理解してもらった上で相手のことを理解してあげる」みたいなパラダイムを持っていたように思います。こんなパラダイムでどれだけ傾聴を実践したとしても自叙伝的反応がなくなることはないので、うまくいくはずはありませんよね。。。
これは確かにそうなのですが、今は少し違う感覚を持っています。それは、相手のために「まず理解に徹し」ようとすること自体、傾聴を阻害することになっているような気がするのです。
■私が持つ理想的な傾聴のイメージ
それは、理解に徹しようとする欲自体、自分のためにやっていることのように感じるからです。いうなれば「傾聴をするという欲」です。傾聴をしようとしているんだからそれはいいんじゃないの? と思うかもしれません。しかし、「傾聴をしようとする欲」と傾聴の本質である相手を「受容・共感する」こととは似て非なるモノのような感じがするのです。
何というのか...、私がイメージする傾聴というのは、おばあちゃんが孫の話をニコニコしながら聴いている、そして孫は一生懸命おばあちゃんに自分の話を聴かせている、そんな状態なのです。その時のおばあちゃんの心情は「傾聴しようという欲」はなく、孫の話を心の底から聴きたい、受け止めたいという純粋な気持ちな気がするのです。
今の私は職業柄、傾聴という言葉が身体に染みついてしまっていますが、この「傾聴」という言葉があることで「傾聴はこうあらねばならない」のように自分自身を縛っているような気がするのです。
理想的な傾聴というのは、「傾聴」という言葉から離れた、本当に相手のことを慮りすべてを受け容れる、そういう心の状態だと感じます。そして、そのような心の状態をつくり出せるようにすることをトレーニングすることが、本当は傾聴においては最も大事なのかもしれません。そうしなければ、技術だけが先行する傾聴が出来上がってしまうような感じがしてしまいます。
■理想の傾聴を模索する
では、どうすればその状態を創り出すことができるのか? 正直そこはまだちゃんとわかっていませんが、一つはっきりしているのはそれは技術的な事ではなく、心の感度を上げていくようなことだと思っています。今私にできることは自分の感じる傾聴のイメージを具現化できるように日々試行錯誤するしかありません。その試行錯誤の中から自分の理想とする傾聴の形を模索していこうと思います。
時間はかかるかもしれませんが、その形ができてきたら、またこの場で紹介させていただきますね。