マスコミは何と戦っているのだろうか?
マスコミは何と戦っているのだろうか?
某新聞社の、某電力会社やらせメール問題の記事を見ていると、そう感じてしまう。ほぼ毎日、この関係の記事が掲載されている。災害ではないのだから、そんなに毎日変化があるとは思えない。なのに毎日、記事になる(災害記事でも、こんなに毎日記事にならないのではないか?)。
例えば、第三者委員会が言ったこと、電力会社が言ったこと、国が言った事のみを並べ、電力会社が知事をかばっており反省がない、という論調。事実はどうなのか、という取材はなく。第三者(知事を入れて第四者)の発言だけで、なぜ決めつけることができるのだろうか。
ひどい時には電力会社社長の「そんなに悪いことか?」という社内発言だけで、記事になる。
事実を事実として中立的に伝えるのが報道の役割だと思っていたが、どうもこの新聞社は意思をもって、何かと戦っているように感じてしまう。
1つ1つの記事は、事実なのであろう。
しかし、その事実を記事にするかの判断。どれくらいの紙面を割くかの判断。取り上げる頻度、大きさ、紙面での場所、は新聞社の判断になる。そこに新聞社の何らかの意思が入ってしまう。まさに「全体は部分の総和ではない。全体は全体の意思を持つ」というやつだ。この新聞社だけではなく、どのマスコミ各社もそうなのだろう。政治家の失言報道などをみていても、そう感じる。
実のところ、マスコミが意思を持つことが悪いことだとは思わない。多くの記事を取捨選択し、限られた新聞紙面やテレビの時間を毎日埋めなければならない今の仕組は、何らかの物差し(意思)がなければ成り立たない仕組みだからだ。
Googleの検索アルゴリズムのように、コンピュータが自動でやっていますから中立です、というわけにはいかないであろう。
怖いのは、マスコミは意思を持たず事実を公平に伝えているという思い込みの中、いつのまにかマスコミの戦いに巻き込まれているかもしれない、ということだ。
Googleの検索アルゴリズムは公開されておらず、それが中立なのかどうかは実は誰もわからないということを考えると、中立な報道というのは幻想だと思っていた方が無難なのかもしれない。
だとしたらいっそ、マスコミも意思をもって何と戦っているかを明言にしてしまえばよいのではないか。その方が、あるものをないと思いこませようとする報道より、よほど公平なのではないだろうか。