第737回 前提構造理論(OST)のススメ16・補足5 反証不可能性の内包
こんにちは、キャリアコンサルタント高橋です。
OSTのススメも16回めになりました。気づけばこのシリーズは3月からスタートしていますので、そろそろ4カ月になろうとしています。。。
今回はOSTの内容というより特徴についてで、反証不可能性の内包に関するお話です。
■反証不可能性(Unfalsifiability)とは
反証不可能性(Unfalsifiability)とは20世紀の科学哲学者カール・ポパー(Karl Raimund Popper)によって提唱された考え方です。Wikipediaに「反証可能性(falsifiability)」についての記述がありますので、引用します。
反証可能性(はんしょうかのうせい、英: falsifiability)またはテスト可能性、批判可能性とは、「誤りをチェックできるということ」であり、「科学的理論は自らが誤っていることを確認するテストを考案し、実行することができる」という科学哲学の用語である。(Wikipediaより引用)
端的に言うと、反証不可能性というのは「ある主張や理論が、どんな証拠を突きつけられても絶対に論破できない(間違っていると証明できない)状態」のことです。
これって、すごい事じゃないかと思われるかもしれませんが、実はそうでもなかったりします。
例えば、反証可能性の立場で「もしこういうデータが出たら、私の理論は間違いです」と宣言したとします。具体的に言えば「すべてのカラスは黒い」という考え方です。
これは、観察や実験によって黒くないカラスが存在することが明確になった段階で、この考え方が正しいか間違っているかを判断することができますよね。これって科学的に説明ができる土壌に乗っていると言えます。
一方で、反証不可能性の立場で「どんな現象が起きても『それも理論の通りだ』と説明できてしまい、間違いという状態が存在しない構造になっている」と宣言したとします。これも具体的に言えば「私たちの周りには誰にも感知できない、透明で音も立てない妖精がいる」と考えたとします。
これって、その妖精を物理的に検知することができませんよね。だとすると、いることといないことの証拠を誰も提示することができません。どれだけ観察や実験をしても「妖精ってそういう存在なのだから」と言えてしまいますよね。
こうなってしまうと、どのような状況においても考えが成り立ってしまうため、科学的に説明できる土壌に乗っているとは言えないことになります。
こうしたことから、ポパーは「どんなことが起きても説明できてしまう理論(反証不可能性)は、現実の世界について何も語っていないのと同じだ」と考えるようになり、これが現代科学における一つの基準となっています。
■反証不可能性は間違った理論なのか?
だとすると、反証可能性に則った考え方や理論は間違っているのかという問題が出てきます。実はそうでもありません。世の中には反証不可能性に則った考え方は結構たくさんあります。
分かりやすい例で言えば信仰なんかがそうです。信仰というのは神や仏という存在を信じる所からスタートすると思うのですが、これって完全に反証不可能性ですよね。でも、ちゃんとそこに根付いています。
他には、これらはポパーが反証不可能性を指摘した有名な例ですが、心理学におけるフロイトの精神分析やアドラーやマルクスの理論も反証不可能性です。
後、公理系の考え方なんかもここに入ってきます。例えば、数学なんかがそうです。「数字は0~9で表現される」という考え方が正しいかどうかなんて、誰にも証明することができませんよね。これって0~9の数字を使って「数学」という概念を表現するという公理(ルール)みたいなものだからです。
このように、私たちの身の回りにあるたくさんの概念や考え方には反証不可能性を内包しているモノはたくさんあります。
■OSTはどうか?
ここから今回の本題に入っていくんですが、OSTはどうなのかって話です。
OSTは元々、私が考案した様々な考え方やツール、理論を一つにまとめ上げる所からスタートしてます。そのため、最初は「統合理論」という複数の理論をまとめ上げた立場を取っていました。そのため、この段階では反証不可能性がある理論としていたんです。
しかし、理論の統廃合などを行っていくと、CARという原則に辿り着きます。そこから前提構造という存在を明らかにしていくことで、CARは「原理理論」の立場を取るようになりました。原理部の説明ではこのように表現しています。
原理部は前提構造理論の中心にある概念で、CARという不変の原則について扱っています。
CARとは
C...Cognition(認知)
A...Action(行動)
R...Result(結果)のことで、
認知が行動を生み、
行動が結果を生じ、
結果が認知を更新するという循環を表しています。
(中略)
そして、この事柄(内的事柄・外的事柄)は本来善悪や判断といった主観を伴いません。つまり、事柄というのは客観的事実を表します。一方、CAR自体は私たちの主観です。
本来CARという循環は私たちの主観で回っていますが、そのCARが回るためには客観である事柄を介在させる必要があります。
しかし、本来主観と客観は直接は繋がっていません。これを「主観と客観の非連続性(Discontinuity)」と呼びます。
ここで前提構造(Operating Structure:OS)という存在が出てきます。
この前提構造という存在が主観と客観の間に入ることで、主観であるCARが客観である事柄を取り込み、CARが循環すると考えます。
この「CARが回り続ける」ということ、これが反証不可能性なんです。要するに、こういう状態になった時にCARが回らないと説明することができないんです。
また、現場で介入が機能しない(人が変わらない、失敗する)状態が起きたとしても、OSTはそれをすべて「前提構造の欠損」として理論内部で構造的に説明することができてしまいます。これも、反証不可能性を表す特徴です。
■OSTの立ち位置
OSTにおける反証不可能性は、理論の根本的な性質でもあるため、もう少し深掘りします。
この反証不可能性は、OSTがどのような立場で構築されているかに深く結びついています。具体的には3つの構造的な理由から、反証不可能性は理論の欠陥ではなく「必然的な仕様」として機能するようにしています。
1.「実証理論」ではなく「原理理論」である
一般的な科学や応用理論は「Aという施策をすればBという結果が出る」といった仮説を立てて検証する「実証理論」です。そのため、結果が出なければ「仮説(理論)が間違っていた」と反証されます。しかし、OSTは仮説検証を目的とした理論ではありません。
OSTは「なぜその認知・行動・結果が生じるのか」という事象が成立する条件を記述する「原理理論」です。仮説を検証するのではなく、起きている現象を記述するための枠組みであるため、そもそも反証される対象を持たないんです。
2.失敗の構造化
通常の理論では、介入が機能しなかった場合、「本人の能力が足りなかった」「環境が悪かった」といった理論外部の変数のせいにして理論を守ろうとします。しかしOSTの枠組みでは、介入が機能しない(人が変わらない、成果が出ない)状態すらも、外部に原因や理由を求めていません。
すべて「C3・AS・OAのいずれかの前提構造に欠損が起きている」として、完全に理論内部の語彙だけで構造的に説明・デバッグできるようになっています。いかなる失敗や不作動も「理論の破綻」ではなく「欠損の発生」として理論内に回収されるため、反証が成立しないようになっています。
3.「完全に閉じた公理系(基盤)」としての価値
これらを通じて、OSTは認知・行動・結果のすべてを包括する「Operating Structure(OS)」として、他の理論に一切依存せず、OSTの概念のみで体系が完全に閉じている状態を作り出しています。
この閉じた体系ゆえに生まれる反証不可能性を、私は理論における欠点(弱点)として捉えているのではなく、理論を表現する上での必然的な仕様と考えています。
OSTは「正しいかどうか」を疑う仮説ではなく、いかなる事象が起きても矛盾なく読み解き、次に更新するための条件を整える「観測・介入の絶対的な基盤(公理)」の立場を取っています。
このように、OSTにおける反証不可能性とは「どんなイレギュラーや失敗が起きても、理論が壊れることなく、すべてを自らの構造論の内で説明し、解決の糸口(更新条件)を見つけ出せる」という、OSTという枠組みの中で自己完結する理論となっています。それが故に、あえて反証不可能性を内包しています。
■理論の本質
正直に言いますと、この反証不可能性についてはかなり多くの時間悩みました。現代科学における反証不可能性は異端扱いされること、そのためにOSTという考え方が正しく伝わらないのではないかということからです。
そのため、私も結構時間をかけてOSTが反証可能性に言及できるモノかどうかチャレンジしてみました。しかし、考えを進めれば進めるほど、反証不可能性に話が進んでしまうんです。
そんな中で、世の中の理論の本質って何なんだろうと考えるようになりました。数多ある理論を生み出した提唱者たちは何を考えたのだろうと。そうして私も一つの結論を出しました。それは、
理論は人を幸せにするモノ
という考え方です。多くの提唱者たちは自分の時間を削り、その人なりの理論を構築します。そのエネルギーはきっと人を幸せにするというベクトルに向かっていたのではないかと思ったんです。
実は私は一度OSTをつくり上げる過程で放棄したことがありました。それは、まだOSTが原理部、構造部しかなかった頃なんですが、これらの内容はあくまで人がどうあるかという状態をCARや前提構造で表現したに過ぎないんです。だから、人がどのような状態になっているかをCARや前提構造で説明することはできても、変えることはできないってことが分かったんです。その時に、こんなことを考えました。
そんな理論、何の役に立つのか?
目の前に困っている人がいて、その人はこういう状態だと定義づけることができたとして、それを変えられないなら、その理論に何の意味があるんだろうと思いました。そこの答えが導き出せないまま袋小路に入ってしまいました。そうして、一度、この理論を破棄しようと思いました。
しかし、その後、介入という考え方に行き着きます。原理と構造が分かることで、これらに介入することでCARや前提構造のアプローチを変えられるんじゃないかと。そうすることで、失敗に苦しんでいる人、変わらないことで辛い思いをしている人を支援することができるんじゃないかと考えました。そこから生まれたのが介入部の考え(統合型CAR介入プロセス、CUP、TVD、REPなど)でした。だから、これは過去にも書いていますが、介入部というのは本論としては扱っていません。
こうした経過を踏む中で、反証可能性だろうが不可能性だろうがどっちでもいいわって考えに行き着きました。大切なことはそこではなく、OSTという考えが人の役に立つか立たないか、人を幸せにするかしないか、理論の本質ってその1点なんだと思えるようになりました。
ということで、今回はOSTが反証不可能性を内包した公理系の理論であり、なぜそのような立場を取ったのかというお話でした。