イノウーの選択 (13) 見えない不運
「井上さん、すいません」安川さんが顔を上げた。「どうも、PCが重いようなんですが......」
誰もが心中で「またか」とつぶやいたことだろう。ぼくは席を立つと、安川さんのPC で状態を確認した。
「確かに重いですね」
フォルダをドラッグしようとしても、すぐに動き出さない。キーを叩いても、画面に文字が表示されるまで、わずかなタイムラグがある。ブラウザの表示も遅い。
タスクマネージャーを開いてみると、Antimalware Service Executable というプロセスがCPU を80% 以上占有しているのがわかった。ぼくはTeams でIT システム課の湊くんに連絡した。湊くんがキッティングの担当というわけではないが、声をかけやすいので、何かあるとまず湊くんに相談するのが癖になっている。
『うーん』症状を説明すると、湊くんはうなった。『ごくたまに急に負荷が高くなることはあるんですが、そこまで高いのはちょっと記憶にないですね』
「殺していいかな」
『どうかな......』受話器の向こうで湊くんが首を傾げているのが目に見えるようだ。『一応、セキュリティ担当とキッティング担当に確認してみます』
「わかった。よろしく」
『なるはやで回答します』
キッティングやセットアップの不備が、一定の確率で発生することは避けられないが、こうも一人に集中するというのは、運が悪いとしかいいようがない。同じ日に入社した尾日向さんのPC には何の不具合もないのだから。なぜ自分だけ、と不審に感じていても不思議ではないが、内心はどうあれ、安川さんは黙って待っている。
何分か待っていてください、と伝えると、安川さんは頷いて「飲み物買ってきます」と立ち上がった。隣の席の尾日向さんも「あ、じゃあ、私も」と席を立った。こちらはすでに予定のインストール作業を終えている。
二人が連れ立って出て行くと、マリが短く笑った。
「経験の差、かと思ったんですけど、何というか安川さんの厄日ですね、今日は」
まさしく、安川さんにとって、この日は厄日としかいいようがなかった。
二人の新人が入社して2 日め。予定していた通り、この日は開発環境の構築から始めた。といっても、横に立って手取り足取り指示する、という方法を取るつもりはなかった。インストールするアプリケーションリストを渡し、「何かあったら言ってください」とだけ言ったのだ。
OpenJDK21、OpenJDK25、Eclipse(日本語化)、STS(Spring Tool Suite)、テキストエディタ、TeraTerm Pro、GIMP、Cursor、Anaconda3、Next.js、Apache、Tomcat10、ant。バージョン指定のないものは最新版。
事前にこのリストを見たマリはすぐに首を傾げた。
「これって......あ、もしかすると引っかけ問題?」
「そこまでではないけど。まあ、事前知識のチェックも兼ねてね」
リストを見た二人は、どちらもすぐにopenjdk で検索し、ダウンロードサイトを開いた。何度かリンクをクリックして、21 のダウンロードページにたどり着く。そこまではわずかな時間の差があっただけで同じ思考だったようだ。違いが出たのはその先だった。
尾日向さんは、21 のバイナリをダウンロードする直前でピタリと手を止め、もう一度、リストを眺めると、少し考えてから新しいタブを開いて、eclipse pleiades で検索すると、Pleiades All in One Eclipse ダウンロードのページを開き、迷わずJava のFull Edition を選択してダウンロードを開始した。
安川さんはというと、21 のバイナリファイルをダウンロードし、次に25 のダウンロードページに移動している。リストの順番にインストールしているわけだ。
点数を付けているわけではないので、ぼくは安川さんに声をかけようとしたが、隣の席の尾日向さんに先を越された。すでにEclipse のインストールを開始していた尾日向さんは、同期の画面を見ると、Pleiades All in One Eclipse のFull Edition には、JDK21、JDK25、STS、Tomcat10 が含まれている、ということを伝えた。
「ああ、なるほど」安川さんはPleiades のページを確認して、納得したように頷いた。「勉強になります。スクールでは、Eclipse 環境が用意されていて、自分でインストールする、ということはなかったので。ありがとうございました」
「いえいえ」尾日向さんはにっこり笑った。「そうですか。スクールに」
「はい。プログラミングフェーズはこれまで未経験だったので。尾日向さんはベンダーから転職されたんでしたっけ」
「IT 業界ばかりじゃないですけどね......」
それをきっかけに、二人はインストール作業を進めながら、これまでの職務経歴などを話すようになった。ただ、打ち解けてきた、というより、自分と相手の上下関係を慎重に確認しているような、見えない緊張感のある会話だったが。
1 時間ほど経過した頃、安川さんが手と口を止め、困惑したような顔をあげた。
「すいません。ドライブの容量が足らないようなんですが......」
マリが席を立って、急ぎ足で安川さんの席に行き、マウスを掴んだ。
「あ、ほんとだ。D ドライブが全然空いてないですね」
横から覗き込んだ尾日向さんは、自分のPC を確認してから言った。
「私の方は300GB 以上空いてます」
「安川さんのは」眉をひそめたマリがぼくに言った。「1GB 切ってます」
「そんなばかな」
ぼくも席を立って安川さんの後ろからモニタを見た。エクスプローラーが開いていて、デバイスとドライブの一覧が表示されている。D ドライブの容量は320GB だが、空き容量はKB 単位の表示になっていた。
尾日向さんにインストールを続けるよう言ってから、ぼくは安川さんの席に座ってD ドライブを確認した。うちの会社の標準的なPC の構成は、C ドライブが200GB、D ドライブが320GB だ。C ドライブはWindows やセキュリティ関連ソフトがインストールされていて、あまり余裕がないので、新規アプリケーションなどはD ドライブに追加していくことを推奨されている。安川さんPC のD ドライブはEclipse のフォルダがあるだけで、他には何もない。
「あ、もしかして......」
ぼくはエクスプローラーのフォルダーオプションを開き、隠しファイル、隠しフォルダの表示を有効にしてみた。とたんに、D ドライブのルートに、ドットで始まる名前のフォルダが大量に表示された。適当に一つを選択して容量を調べてみると、4GB 以上だ。
「これが原因だな」ぼくはマリに言った。「湊くんに連絡して、これ、消していいかどうか聞いてみて」
「了解です」
マリが連絡すると、すぐに湊くんから折り返してきた。
『本当にすいません』湊くんは平謝りだった。『以前に何かのミドルウェアをインストールしたときのゴミファイルです』
「消していいんだね?」
『全く問題ありません。同じキッティングなのに、なんで安川さんのだけ違ったのか......』
後日、湊くんから原因の報告があった。IT システム課にも今年度から新人が配属されているが、安川さんのPC はその新人くんが担当したらしい。通常、新卒採用でも中途採用でも、PC は新品を使うのだが、安川さんは期間限定ということで、中古のPC の再利用だった。キッティングの手順も新品とは異なる。新人くんが混乱したのか、先輩の確認が甘かったのか、とにかく必要な手順の一つがスキップされていたことに、今のいままで、誰も気がつかなかった、ということだったらしい。
これは夏目さんあたりが聞いたら激怒する事案だろうが、被害者の安川さんは特に激しい感情を見せることがなかった。後で、IT システム課の柴田課長が謝罪に来たときも、安川さんは頷いただけだった。
とにかくD ドライブの容量が復活し、インストール作業を続行した安川さんだったが、数分後にまた顔を上げた。
「すいません。今度はマウスの動きが......」
すぐにマリが確認した。原因は単純で、ワイヤレスマウスの電池切れだった。マリが総務に走り、電池を交換して事なきを得たが、通常ならあり得ないような不具合の連続に、システム開発室内の空気が少し重くなったようだった。ぼくは根拠のない不安を抱えながら、二人の新人の作業を見守った。
イヤな予感ほどあたる、というわけでもないだろうが、ほどなく安川さんが三度声を上げた。それがPC の動きが重い、という内容だった......
マリが、安川さんの厄日、と言ったのは、たまたま不具合が重なっただけで、本質的なスキルの問題ではない、というフォローだったのだろう。ぼくもその意見には同意する。だが、それでもなお、安川さんに対する漠然とした不安は残った。
デジタルの業界で給料をもらっている身としては、言葉にするのがはばかられるのだが、運のいい人と悪い人、というのは確かに存在する。アサインされる業務、使用するツール、たまたま座った席の日当たり、ネットワークセグメントのトラフィック、上司や同僚の不機嫌、罪のない噂話、鼻風邪、昨夜のオンラインゲームの結果、ストックを切らしたお気に入りのシャンプー......こういった、本人の努力やスキルでは回避しようがない要因の積み重ねが、トラブルとなって具現化する。ぼくは前職で、その実例をいくつも見てきた。
湊くんから回答が入ったのと、二人がペットボトルを手にして戻ってきたのは、ほぼ同時だった。ぼくは湊くんの話を聞いてから、安川さんに言った。
「タスク殺して進めてください」
安川さんは礼を言って、インストール作業に戻った。
室内にいる全員が4 回目を予想したことだろうが、幸い、それ以後は不具合が出ることもなく、安川さんのインストール作業は順調に進んだ。一足先に指定のアプリケーションのインストールを終えている尾日向さんは、Eclipse のテーマやフォントを自分好みにいじっていた。
「へえ」二人の様子を確認したマリが、尾日向さんの画面を見ながら言った。「ダークテーマが好みなんですね」
「トレンドですから。まずいですか?」
「いえいえ、テーマは自由です」
安川さんが全てのインストールを終えたときには、11 時30 分を過ぎていた。本来なら、この後、Eclipse でSpringBoot の新規プロジェクトを作成するところまで進める予定だったが、今から始めると中途半端な時間になってしまう。
「少し早いですが、ランチにしましょうか」ぼくは二人に呼びかけた。「よかったら一緒にどうですか?」
うちの会社では、新入社員の初日は、人事課と役員の誰かとのランチと決まっている。場所はランドマークタワーにある中華料理店の個室で、もちろん会社持ちだ。中途採用の場合は、ケースバイケースだが、たいていは人事課の社員数名と近くの店に行くことが多いようだ。ぼくもそうだったが、あたりさわりのない会話をしたことしか覚えていない。右も左もわからない新卒社員なら、互いに質問をやりとりするだけで時間などあっというまに消費できるだろうが、中途採用だとそうはいかない。ましてや、こちらは、うちの会社から見れば下請けにあたるベンダーに勤務していた身だ。共通の話題を見つける方が難しい。
尾日向さんと安川さんも、そうだったのだとしたら、今日は同じプログラマとして、気楽な会話ができたら、と考えての誘いだった。一応、室長補佐として、ランチ代ぐらいなら部署内親睦費用で申請できる。マリと二人で使ったら、公私混同として差し戻されるだろうが、新人が一緒なら通るだろう。
「ぜひ」尾日向さんは二つ返事だった。「お願いしたいです」
安川さんは、というと、少し困ったような顔で首を横に振った。
「すいません。今日、エースシステムの上司と約束がありまして」
「ああ、そうなんですね」急な誘いだったから仕方がない。「またそのうち。じゃあ、尾日向さん、行きましょうか」
「はい」
尾日向さんは嬉しそうに立ち上がったが、マリが一緒に歩き出したのを、不思議そうに見た。
「なんですか」マリは面白そうに笑った。「私も一緒ですよ?」
「すいません。前の会社だと、女性はよく女性同士でランチに行ってたので、てっきり......」
「私は普段はお弁当で、ここで食べてますよ」
「いいですね」如才なく応じると、尾日向さんはぼくに訊いた。「井上さんは普段も外ですか?」
「いや、ぼくも弁当が多いですよ」
「へー、そうなんですか」
「みなとみらいエリアの飲食店は、観光客価格になってるお店が多いんです」
エレベーターホールに出ると、5、6名の女性社員と出くわした。浅海さんを含む総務、庶務、人事混合チームだ。楽しそうに喋っていたが、尾日向さんを見ると一斉に言葉を切って観察モードに入った。尾日向さんが会釈すると、何人かが、紹介しろ、とでも言いたげに浅海さんを肘でつついた。浅海さんは仕方なさそうに口を開いた。
「システム開発室に中途採用された尾日向さん」浅海さんは事務的な早口で言った。「こっちは......まあ、愉快な仲間たちってことで」
「よろしくお願いします」
尾日向さんが丁寧に挨拶すると、浅海さんの愉快な仲間たちは、一斉に笑い崩れたが、ちょうどそのときエレベーターが到着したので、また口を閉ざした。エレベーターは早めのランチに出動する人たちで半ば以上が埋まっていたので、ぼくは一歩下がって浅海さんたちに譲った。女性たちの中には、自分たちも後の箱に乗ろうと考えたらしく下がりかけたが、浅海さんがさっさと乗り込んでいったので、渋々といった体で後に続いた。面接のとき、戸室さんが口にした「モテるだろう」という予想が、早くも現実のものとなっているようだ。
ドアが閉まると、マリがニヤニヤしながら言った。
「モテモテですね、尾日向さん」
「もの珍しいだけですよ」
そう謙遜した尾日向さんは、どうやら似たようなシチュエーションを何度も経験しているようだった。同性からは嫉妬を買いそうだが、なぜか、そういう感情が浮かんでこないのは不思議だ。
新高島駅周辺は、企業のオフィスビルが数多く立ち並んでいるにもかかわらず、飲食店の数がそれに見合っていない。従ってランチタイムは激戦となる。尾日向さんは、このエリアは全く不案内、ということだったので、ぼくとマリは、尾日向さんにアレルギーや好き嫌いを確認した上で、心当たりを巡回した。
「人、多いですね」尾日向さんは物珍しそうにキョロキョロしている。「これは外食だと競争率高そうです」
結局、ランチの店は新高島駅近くの沖縄料理の店となった。すでに席は埋まりつつあったが、ぼくたちは最後に空いたテーブルになんとか滑り込むことができた。
オーダーしたソーキそばセットが来るまで、マリが会話の主導権を握り、主に周辺の飲食店について、あれこれ情報を提供した。尾日向さんはスマートフォンで検索しながら相づちを打っていたが、テーブルにランチが並んだのをきっかけに話題を変えた。
「安川さんって、エースシステムの人なんですね」
「そうですよ」
「以前にK自動車関連の仕事したときに、エースシステムの名前は、よく耳にしました。向こうは一次請けの大企業ですから、直接関わることはなかったんですけど。なんで、うちに出向しているんですか?」
ぼくが簡単に事情を説明すると、尾日向さんはそばをすすりながら頷いた。
「そうなんですね。なんとなく手際が悪いな、と思っていたんですけど、これまで、インストールとかやったことないなら仕方ないですね」
どう応じたらいいのかわからず黙っていると、尾日向さんはさらに語を継いだ。
「実装フェーズも未経験なんですよね」
「そうらしいですね。スクールには通ったらしいですけど」
無意識のうちに声が冷たくなっていたらしい。尾日向さんは何かに気付いたように明るい口調になった。
「まあ、あれですね。これから勉強していくってことですよね」
「尾日向さん」マリが笑顔で言った。「短い期間ですけど、同期なんですから助けてあげてくださいね」
「私にできることなら」
機を見るに敏、というのか、会話相手の感情を察知するのが得意な人のようだ。どうやら、エースシステムをディスる流れで会話を盛り上げようとしたのだろうが、ぼくが乗ってこなかったので、急いで方向転換した、といったところか。
その後の会話は申し合わせたように、仕事とはかけ離れた話題となった。尾日向さんが口にしたのは、今週末に行われる与党の総裁選だった。初の女性総理誕生かと連日のように報道されているので、いささか食傷気味だったのだが、尾日向さんは興味があるようだった。
時間になったので会計をして店を出た。ランチ代は後で会社に申請する予定なので領収書はしっかりもらった。周囲はやはりランチを終えて会社に戻る途中らしい人でごったがえしている。
「あ」会社の近くに来たとき、マリが小さく声を上げた。「安川さん」
マリの視線を追うと、安川さんがスーツ姿の中年男性と会話しながら歩いている姿が見えた。相手の顔はよくわからない。安川さんが一礼し、男性が頷いて何か言い、二人は別れた。
「約束があるって言っていたエースシステムの人でしょうか」尾日向さんが、誰にともなく訊いた。
ぼくは「でしょうね」と応じて、ビルのエントランスに向かいかけたが、ふと歩幅を緩めて、横浜駅の方へ歩いていった男性に、もう一度視線を向けた。意外に早足で、すでに顔の識別が可能な距離ではない。
「どうかしました?」マリが訊く。
「あ、いや」
一瞬だけ視界に写ったのは、記憶の琴線を刺激する横顔だった。会社関係でないことは確かだ。数人だけしか知らないエースシステムの社員の誰かでもない。ぼくより視力と記憶力のいいマリが何も言わないところを見ると、家族関係の知り合いではない。
「なんでもない。行こうか」
ぼくはエレベーターホールに向かった。午後は忙しくなりそうだ。些細な疑問に脳のリソースを使っている場合ではない。
(続)