イノウーの選択 (17) 足りない自覚
短い秋が過ぎ去り、壁掛けカレンダーが最後のページとなった最初の日の朝、ぼくは茅森課長に会議室に呼ばれた。また、厄介な業務を命じられるのかと身構えてドアをノックしたが、茅森課長の用件は別の話だった。
「勤怠アラートが上がってきたんだがな」茅森課長は紙コップのコーヒーをすすりながら言った。「月の総労働時間が多いな。ほら」
テーブルの上を滑ってきたプリントアウトには、9 月から11 月までに労働時間の簡単な表が載っていた。先月だと所定労働日数、つまり土日祝日を除いた日数が18 日なので、月の労働時間は135 時間となるが、ぼくの実績労働時間は201.5 時間だ。平均すると毎日4 時間弱残業していることになる。土日とかに自宅で作業した分は含まれないから、実際にはもっと多い。
「でも給与テーブルは年俸になってるから、残業時間は関係ないんじゃないですか?」
「残業時間じゃないんだよ」茅森課長は顔をしかめて、プリントアウトを指でトントン叩いた。「労働時間そのものが多いのが問題なんだ。全社を挙げて労働時間と残業時間削減を推進しているのは知ってるだろう。マネジメント職から率先しないと」
正論すぎる指摘に、ぼくは沈黙せざるを得なかった。
「今月は少し抑えられそうか?」
「いや、そういうわけにも......」
「何がそんなに負荷になってるんだ。10 月から2 人もメンバーが増えてるだろう。まあ、一人はあれだとしても、尾日向さんは即戦力人材じゃないか」
その即戦力人材が、プロジェクトチームの作業で可処分工数を削られて、開発チームの戦力としてはほとんど機能していない、という事実を説明するのは、ムダだろうし面倒なのでやめておいた。
「今はHousync ですね」
Housync は、エースホームの紹介制度管理業務をマーズ・エージェンシーに移管するにあたって、houseweb を大幅に改良したアプリケーションの新名称だ。エースホームの現担当者浜口さんの退職が決まっているため、後ろにずらすということができない。
紹介制度管理業務が、マーズ・エージェンシーに移管される、ということは、先月、正式に全社に通知され、現在は来年度の組織改定に向けて、夏目さんを中心に社内で調整が進んでいるらしい。
「ああ、あれか」茅森課長は頷いた。「もう改修自体は、ほぼほぼ終わったんじゃなかったか」
それは周回遅れの情報だ。ぼくはため息を口の中でかみ殺して、説明を始めた。
Housync は、当初、AWS 上に構築して、エースホームとマーズ・エージェンシーの双方からアクセスする構成で見積を取っていたが、先月になって急遽、エースシステムが関連企業向けに提供している<エースクラウド>というXaaS を使用することが決まった。どういう経緯だったのか不明だが、エースシステムが割り込んできたのだ。
それだけなら、単にプラットフォームが変更になった、というだけだったのだが、<エースクラウド>には、数多くのAPI が用意されていて、その中には社員情報を取得するものもあり、エースホーム側の承認にはそれらの情報を使用したい、と申し出があった。元々の仕様では、Housync 内に承認担当者のマスタを用意して、異動などが発生したときには、エースホームでメンテナンスを行ってもらうことになっていた。<エースクラウド>のAPI を使用すれば、その手間が省けるというわけだ。
「その改修に時間がかかっているわけか」
「それだけではないですが、一番大きく時間を割いているのは確かです。まさに今日の午後も、エースシステムでこの件の打ち合わせ予定が入ってますし」
「エースクラウド部分を安川さんに任せることはできないのか」茅森課長は明らかに思いつきで発言した。「エースシステムで運用しているんだから、少しは知識があるんじゃないか?」
つい今し方「あれ」呼ばわりしたことは記憶にないのだろうか。
「もう訊いてみました」ぼくは答えた。「存在自体はもちろん知っていますが、携わったことはないということです。つまり、この件に関してはエースの社員である優位性はないんです」
「ふーん、そうなのか」茅森課長は腕時計にちらりと視線を走らせると、コーヒーを飲み干した。「それでも作業の一部だけでもアサインすることはできんのか?」
「スキル的にまだちょっと難しい気もするんですが......」
二ヵ月の間、根気よく練習を繰り返したのと、持ち前の真面目な性格がプラスに働いたことで、システム開発室に来た当初のような素人っぽさはかなり抜けてきたものの、まだ単独でタスクを任せるには不安な点が多い。
「練習ばかりじゃ早い成長は望めないんじゃないか?」
「それは確かにそうなんですが」
「とりあえず打ち合わせに同行させてみたらどうだ」茅森課長は提案した。「何事も経験だと思うんだがな。イノウーが抱えすぎているタスクの一部でも渡せたら儲けものじゃないか」
ぼくがタスクを抱え込みすぎなのは、自他共に認める事実なので、反省すべき点だ。
「じゃあ頼んでみます」
「それはいかん」思いがけず厳しい表情と口調だった。「少なくともシステム開発室に籍を置いている以上、イノウーは安川さんの上司なんだぞ。同僚や仲間じゃない。頼むんじゃない。命令するんだよ。命令する、ということは責任を持つ、ということだ」
Web アプリケーション開発には素人でも、マーケティング課の課長として、それなりに成果を出してきた人だ。未だに、自分がマネジメント職であることの自覚が足りないぼくとしては、学ぶことも少なくない。ぼくは素直に頭を下げた。
「命令します」
「よろしく」茅森課長は紙コップをくしゃっと丸めながら立ち上がった。「すぐには難しいかもしれんが、イノウー自身の労働時間の件は頭に入れておいてくれよ」
システム開発室に戻ると、ぼくは安川さんに午後の外出の件を告げた。安川さんは頷いた。
「前にも言いましたが、エースクラウドに関しては存在を知っている、というぐらいで、あまり役に立ちそうもないですが」
「何事も経験、ということで」ぼくは茅森課長の言葉をパクった。「そろそろ実業務に軸足を移していってもらいます」
安川さんは再び頷いただけだったが、心なしか目元が緩んだような気がする。やはり練習問題ばかりで、少し心が淀んでいたのかもしれない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「では、揃ったので始めますか」
そう宣言したのは、エースシステム横浜ICTF サービス部の上坂さんだ。若白髪の目立つ40代前半ぐらいの男性で、おそらく標準体重を10kg ほどオーバーしている。ノートPC にタブレット、スマートフォン、スマートウォッチと、電子機器を大量に装備していた。もしかするとかけているメガネも、AI スマートグラスなのかもしれない、と思ったが、初対面の相手の顔をまじまじと観察するわけにもいかない。
隣に座ったエースホームの浜口さんは、小さめのスマートフォンを首から下げているだけだ。キングジムファイルの他に、一昔前に流行ったようなビジネス手帳を置いている。
「よろしくお願いします」
夏目さんが会釈し、ぼくと安川さんも追随した。
上坂さんと安川さんは、面識だけはあるらしく、浜口さんが到着するまでの短い間に、「そっちはどう?」といった類の会話を交わしていた。ただ、特に親しい間柄、というわけではなく、マンションの隣室の住人とエントランスですれ違ったときに、「今日は暑いですね」と言葉を交わすのと同レベルだったようだが。
打ち合わせの最初の30 分ほどは、エースクラウドの設定について、あらかじめこちらから出しておいて質問事項に沿って進行した。質疑応答の形をとっていたが、実際はエースクラウドについて上坂さんがぼくに説いた、というほうが正しかったかもしれない。そもそも、メールで返信をもらえばすむのに、わざわざ打ち合わせを設定したのはエースシステム側だ。エースシステムは失敗を好まない、というが、裏を返せば、自身の成果を強調できる機会を逃すことはないのだろう。
エースクラウドの設定関連は特に問題なく終了し、続いてAPI 関連項目に移った。
「API キーについては」上坂さんが言った。「情報漏洩防止の観点からネット経由では送れないことになっているので、直前に、手渡しで行います。それまではステージング環境のAPI キーを使ってテストしてもらうことになります」
ここで初めてぼくは発言した。
「ステージング環境のAPI で取得できるエースホームさんの社員情報は、最新の状態なんでしょうか?」
「いえ、そうではないですね」上坂さんはタブレットを確認した。「社員、組織のリアルタイムの反映は本番環境だけで、ステージング環境は少し前の状態です」
「具体的にはどれぐらい前なんでしょう」
「さあ、最近はステージング環境を使ってないので、たぶん、4 月とかそのあたりだと思いますけどね。っていうか、それ、何か影響ありますか?」上坂さんは早口で言った。「今回、エースホームさんのごく限られた数人に、承認してもらうだけと聞いています。ですよね? それが最新情報である必要性はないんじゃないですかね。エースホーム側で承認されたという結果だけ返ってくれば」
「もちろんですね」答えたのは夏目さんだった。「すみません、細かいところにこだわる性格でした」
そう言いながらぼくの方を睨んできたので、ぼくは形だけでも謝罪しようと口を開きかけたが、またもや先を越された。意外なことに、今度は安川さんだった。
「いや、ちょっと待ってください」安川さんは臆することなく上坂さんを見つめた。「確かエースホームさん、下期に少し大きな異動がありましたよね」
上坂さんは驚いたように安川さんを見て、次に浜口さんに視線を移した。浜口さんも驚いたように頷いた。
「はい。よくご存じで。事業本部長の一人が病気で長期休職になるので、部長数名の職務分掌が見直しになったんですね。その関係で」
「総務部にも影響があったのではないですか?」
安川さんが訊き、ぼくにもようやく影響範囲が見えてきた。Housync のエースホーム側の承認は、総務部の担当者が行うことになるのだ。
「ああ、はい」浜口さんも飲み込めたようで、何度か頷いた。「そうですね。変わっていますね。あ、そうか。もしかすると、うち側の承認ルートが少し変わるかもです」
浜口さんはビジネス手帳を開くと、ペンで書き込みを始めた。それを見ながら安川さんは、ぼくに言った。
「エースホームさんの総務は、かなり大人数で、職務分掌がよく変わるんです。ひょっとすると、二段階の承認が必要になってくるかもしれません」
「二段階、というと?」
「マーズ→エースホームだけでなくて、マーズ→エースホーム→マーズ→エースホーム、です」
「......」
ぼくは脳裏のスクリーンにシーケンス図を投影した。すでにテストまで終えた承認フローは、エースホームから承認が返ってきた後は、次のステータスに進むことになっている。安川さんの想定が正しければ、その間に別のステップを挟み込まなければならなくなるかもしれない。
「あり得る話ですね」浜口さんも同意した。「今、まだ細かい分掌の変更が続いているので、来期には変わっている可能性は十分にあります」
マジか。ぼくは内心うめきながら、浜口さんに訊いた。
「つまり、一段階になるのか、二段階になるのか、現時点では不明ということでしょうか」
「そうなります」浜口さんは申し訳なさそうに頭を下げた。「ごめんなさい。こっちに影響が及ぶとは考えてませんでした」
「いえ、こちらも確認不足でした」
ということは、承認回数を決めるのではなく、最初からn段階の承認が発生する、という前提にしておいた方が安全だ。これはかなり影響範囲の広い変更が必要になりそうだ。
「大丈夫?」
夏目さんが心配そうに小声で訊いてきた。
「改修が必要ですが、何とかします」ぼくは答えて、上坂さんを見た。「できれば最新の状態でテストしたいので、反映をお願いできますか?」
条件反射的に否定的な言葉を発しそうな顔の上坂さんだったが、安川さんがじっと見つめていることに気付いて、方向転換したようだった。開いた口から出て来たのは、平静な、またはそれを装った言葉だった。
「まあ、そういう事情があるなら、特別に反映することにしましょうか」
「よろしくお願いします」ぼくは頭を下げた。「どれぐらいで反映されると考えていればいいでしょうか」
「いろいろと忙しいので」尊大な口調だった。「まあ、一週間ほど見ておいてもらえますか」
いろいろ忙しいのはこちらも同じだ。改修もすぐにはできない。それにこういう人を急かしても逆効果になりかねない。
「わかりました」
すると安川さんが小さく手を挙げた。
「井上さんはいろいろタスクを抱えていらっしゃるので、よろしければ、一週間後に私の方から上坂さんに、進捗の問い合わせをさせていただきますが、どうでしょう?」
ぼくが、つまり、マーズ・エージェンシーから問い合わせても多忙を口実に後回しにされる作業でも、同じエースシステム社員の安川さんが相手であれば、そうはいかない。そんな言葉にならない思惑が、二人のエースシステム社員の間を飛び交うのが目に見えるようだった。
「それは助かります」
「じゃあ、そういうことで」上坂さんは素っ気なく言うと、タブレットに目を落とした。「次の質問ですが......」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あちこち挨拶していくから、と夏目さんはエースシステムに残ったので、ぼくと安川さんは二人で自社に戻ることになった。エントランスを出て駅の方に向かう途中で、ぼくは安川さんに礼を言った。
「さっきはありがとうございました。受入テストあたりで発覚したら大変なことになるところでした」
「いえ、大したことでは」
「よくエースホームの異動の話なんて知ってましたね」
「関連企業の異動情報は発令時点で通知されるんです」安川さんは教えてくれた。「たいていは読み飛ばすだけなんですが、エースホームは今、井上さんが携わってらっしゃるので、少し記憶していた、というだけです」
何にせよ助かった。ぼくは茅森課長に言われたことを思い出して切り出した。
「いい機会なので、少し実業務にも入ってもらおうと思っているんです。まず、エースホームの案件からですが」
てっきり肯定的な反応が返ってくると期待したのだが、安川さんの返答は遅れた。
「それは、エースシステムやエースホームとの交渉などを担当しろ、ということでしょうか?」
「いえ、まさか」ぼくは驚いて答えた。「ぼくの持っているタスクの一部をやってもらうつもりですが」
「つまり、実装ですか?」
「はい」
「それならぜひ」安川さんは安堵したように笑った。「私は実装フェーズの実地勉強に来ているので。上司からもしっかり勉強してこいと言われています」
「そのつもりですよ」ぼくも笑った。「ああ、さっき、上坂さんとの連絡を引き受けてもらったので、その類の仕事を押しつけようとしていると誤解させてしまったんですかね」
「はい。今後の業務がその方向に偏るなら、ちょっと困ると思いました」
真面目な人だ。これまでの安川さんを見る限り、プログラミングは得意とか好きとは真逆な傾向だった。それなのに、与えられた使命ということで、努力を怠っていない。楽な方に流れる口実など、見つけようと思えばいくらでも見つかるだろうに。
「戻ったら、早速、いくつか見繕って渡します」
「楽しみにしています。もちろん、さきほどの上坂との連絡は、責任を持ってやらせていただきます」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
システム開発室に戻ると、席にいたのはマリだけだった。今日の午後は、生成AI プロジェクトチームの業務はないはずなのに、尾日向さんの姿がない。目顔で問いかけると、マリは手を動かしながら答えた。
「さっき戸室さんが来て、何かの用事で引っ張って行っちゃいました」
ぼくは自席に座ると、PC のロックを解除して、Git のJINKYU リポジトリを確認した。案の定、先週、尾日向さんにアサインしてあったタスクは、まだプッシュされていない。
同じような事は、これまでに何度かあった。幸い、理解の早い尾日向さんは、すぐにリカバリしているので、致命的な遅れは発生していない。ただ、プロジェクトチーム関連の業務は、予想以上に量が多いようで、いきおい、尾日向さんへのアサインを減らさざるを得なかった。その分のしわよせが、ぼくの労働時間を増やしていることは言うまでもない。
これは一度、戸室課長と話をした方がいいかもしれない。戸室課長はチームリーダーなので、このプロジェクトに時間を割くのは当然かもしれないが、いちメンバーでしかない尾日向さんを、まるでサブリーダーのような扱いで使っている。そもそも、尾日向さんは、システム開発室の増えることはあっても減ることのない作業量を減らすために採用したというのに、本来の業務とは別で工数を消費しているのはおかしいではないか。
そんなことを考えながらメールチェックを終えたぼくは、安川さんに気付いて、つい先ほどの約束を思い出した。
「安川さん、すいません。説明するので、こっち来てもらえますか」
比較的、複雑な要素のなさそうなタスクをいくつか選び、安川さんに内容を説明した。フロントを含む画面、PDF 出力ロジック、API 呼び出しの改修、などなど。安川さんは時々質問を挟みながら、真剣に耳を傾けていた。
「ここで案件を選択したとき、ロックかけなければいけないので、selectCustomer() メソッドでトランザクションかけます」
以前なら「トランザクションかける、とは具体的に何をどこに記述すればいいのか」という質問が返ってきたものだが、今では@Transactional アノテーションを付ける、とわかっている。歩みは決して早いとはいえないが、着実に自分のものにしていた。
一通り説明が終わり、安川さんが自席に戻るの同時に、尾日向さんが戻ってきた。ドアの外まで戸室課長が一緒だったらしく、前触れのように話し声が聞こえていた。
「すいません」尾日向さんはぼくに言った。「プロジェクトの件で離席してました」
「聞きました。JINKYU の......」
「はい」尾日向さんは頷きながら着席して、キーを叩いた。「これからすぐやります」
よろしく、と返しておいて、ぼくは一服しようと席を立った。
休憩室でティーサーバーから暖かいお茶をすすっていると、やはり休憩に来たのか、人事の浅海さんと顔を合わせた。
「おつかれさまです」
「どうも」
システム開発室の採用活動が終わった後は接点がなくなったが、廊下ですれ違ったときなど、「新人の方、どうですか?」などと気にして声をかけてくれていた。だから、自販機で紅茶を買った浅海さんが、「そういえば......」と言い出したときも、てっきり同様のテンプレ的な会話の始まりかと思ったのだが、今回は違っていた。
「ちょっと気になることを耳にしたんですが」
「というと?」
浅海さんは人事課だが、JINKYU 改修関連の担当ではないので、ぼくに話があるとしたら、共に採用した尾日向さんのことしかあり得ない。案の定、浅海さんはその固有名詞を口にした。
「尾日向さんのことで」
「彼がどうかしましたか」
続きを話しかけたとき、マーケティング課の女性社員2 名が何やら楽しそうに笑いながら休憩室に入ってきたので、浅海さんは口を閉ざしてしまった。
「いえ、たいしたことでは」浅海さんは飲みかけのドリンクを掴んで立ち上がった。「失礼します」
首を傾げながら、ぼくも緑茶を飲み干して立ち上がった。休憩室を出る頃には、今のちょっとした会話のことはすっかり忘れ、Housync の改修に頭を切り替えていた。再び思い出すことになるのは、もう少し後になってからだった。
(続)