イノウーの選択 (12) 慣れない立ち位置
「安川リョウジです。短い間ですが、よろしくお願いします」
無色透明の声で挨拶したのは、エースシステムからの出向者、安川さんだ。背は高くないが、体格はがっしりしている。数日前に届いたわずかな人事情報によれば、29 才、独身、都筑区在住である。
フレームレス眼鏡をかけた顔には何の表情も浮かんでいない。少なくとも、愛想良くしよう、という意思がないことだけは確かだが、その理由が、この場に立っていることに対する不満なのか、新しい職場の初日だという緊張感なのか、それとも虫歯が痛むだけなのか、今の段階では判断ができない。
「まあ、そういうわけだから」アテンドしてきた夏目さんが、にこやかに話した。「よろしく頼むわね。丁重にね」
最後の言葉は、ぼくに向けられた小声だったが、耳ざとくそれを聞きつけた安川さんは、太い眉を上げた。
「そのような気遣いは無用です」安川さんはぼくに向かって言った。「上司からは、しっかり勉強してこい、と言われています。お客様のように扱われるのでは困ります。ここにいる間は、雑用でも何でも命令してもらってかまいません」
言葉に詰まる、という夏目さんにしては珍しい光景が数秒続いた。確かにそうですね、と答えた声には戸惑いが含まれていた。
愛想笑いを浮かべた茅森課長が、美辞麗句たっぷりの歓迎の言葉を述べている間、夏目さんはぼくを隅の方に引っ張っていって囁いた。
「ああは言ったけど、本当に雑用なんかやらせないでよ」
「うちの仕事に雑用なんかありません」ぼくは応じた。「普段通りのプログラマとしての仕事をやってもらいます」
それができればですけどね、と心の中で付け加えたぼくの顔を、夏目さんは疑り深い目で見た。何か言いたそうだったが、余計な口出しをするとやぶ蛇になるとでも考えたのか、小さく頷くと出ていった。
入れ替わるように、戸室課長と浅海さんが入ってきた。後ろには尾日向さんが続いている。役目を終えたらしい浅海さんが一礼して出て行くと、戸室課長は尾日向さんに自己紹介を促した。
「尾日向です」安川さん比6 倍ぐらいの笑顔で尾日向さんは元気よく挨拶した。「今日からよろしくお願いします」
ぼくたちは小さく拍手した後、順に自己紹介した。といっても、ぼくはすでに顔を合わせているので、名前を口にしただけだ。初対面となるマリは、もう少し詳しく挨拶した。
「笠掛です。本来の所属は営業四課ですが、ほぼシステム開発室にいると思います。主にフロント関係の作成や保守を担当しています。あと、子供のお迎えがあるので、基本的に16 時退社となります。よろしくお願いします」
尾日向さんは「よろしくお願いします」と無難に答えただけで、すぐに興味を安川さんに移した。
「はじめまして」尾日向さんは友好的に話しかけた。「短い期間ですが同期ですね。よろしく」
「どうも」安川さんは短く答えた。「こちらこそ」
「では」戸室課長が咳払いした。「9 時半から各種オリエンテーションを始めるから、また迎えに来ます」
「じゃあ、笠掛くん」茅森課長はマリに命じた。「ログインとか教えてあげて」
「はーい」マリは二人に合図した。「お二人とも、こちらにどうぞ」
マリは二人をそれぞれのデスクに座らせた。席は隣同士だ。Windows のログインなどを指示している。尾日向さんはメモを取っていたが、安川さんは記憶力に自信があるのか耳を傾けているだけだ。
茅森課長がぼくを手招きした。
「今日は終日オリエンテーションで定時退社になるが」小声で心配そうに訊いてきた。「明日からは何をやらせるのか決めてあるのか?」
「とりあえず二人のPC はキッティング済状態ですから、Eclipse やらの開発ツールをインストールするところから始めようと思っています」
うちの会社でキッティング済というのは、セキュリティソフト、Office 関連製品、ブラウザ二種類など、社会人が仕事でPC を使う際の最低限のセットアップを指す。当然、開発ツールなどはインストールされていない。
「それぐらい事前に済ませておけばいいのに」
「いえ、それも勉強の一環なんで」
JDK に始まって、Eclipse、テキストエディタ、TeraTerm Pro、GIMP、Anaconda3、Next.js、Apache、Tomcat、ant をダウンロード、インストール、動作確認まで行うだけで、午前中いっぱいぐらいはかかるだろう。
「その後は?」
「簡単な練習問題やってもらいます」
「練習問題?」茅森課長は意外そうな顔をした。「業務とか説明するんじゃないのか」
「それはしますが、もう少し時間経ってからですね」
プログラマとして相手を知るには、コードを書いてもらって見るのが手っ取り早い。
「今はネットで検索するなり、AI に質問するなり、プログラムを書く手段はいくらでもあるんだろう? それなのに、コード見るなんて意味があるのか?」
「まあ、そこは少し考えてることがあって」
「ふーん、まあ任せるが。それはそうと」茅森課長は声をひそめた。「生成AI の方は?」
「まだ手つかずですが」
「できるだけ早めに頼むぞ。上からもせっつかれてるんだ」
それだけが理由ではあるまい。以前、戸室課長がやらかした件は、表面上は収束してはいるものの、生成AI 利用に対する大きな抑制因子として、社内に見えない霧のように漂い続けている。ガイドラインを公式ルールとして発表できれば、その霧を吹き払う風となるだろう。それ自体は決して悪いことではない。ただし......
「尾日向さんに任せるのか?」
「それもまだ決めていません」
「やらせてみたらどうかと思うがな。そういうの、得意そうじゃないか、彼は」
きっと茅森課長の頭の中には、「中途採用した尾日向さんに、生成AI 使用ガイドライン作りを任せてみたところ、あっというまに素晴らしい成果物を作ってみせた」というストーリーができあがっていて、それを現実化させたいのだろう。加えてガイドラインを作成した部署は、今後の生成AI 利用に対して大きな発言権を持つ。茅森課長の頭の中には、この状況を最大限に利用したキャリアパスが鮮やかに描かれているに違いない。
「得意かどうかを見極めるためにも、まず練習問題をやってもらいます」
早く結果を出してほしいが無理強いすることはできない。課長の立場から命令することもできるが、そうなると責任も引き受けることになる。茅森課長の脳裏を飛び交っているのは、そんな思いだろう。茅森課長は仕方なさそうに頷いた。
「わかった。じゃあ、それで進めるように」
茅森課長が出て行った後、ぼくは自分の仕事に戻りながら、二人の新人を横目で見た。システム開発室の共有フォルダについて説明しているマリの言葉を聞きながら、実際にフォルダを触っているようだ。「このrivendell というフォルダはなんですか?」などと能動的に質問しているのは尾日向さんで、安川さんはほとんど口を開かずにモニタを見つめている。アクティブソナーとパッシブソナーという軍事用語が頭に浮かんだ。
マリも久しぶりに誰かに教える立場になって、はりきっているようだった。表情が生き生きしている。考えてみれば、コロナ禍にシステム開発室に異動になって以来、後輩という存在が登場したのは初めてだ。上下左右の人間関係は適度な間隔で撹拌しないと、次第に淀んでくる。
一通り説明が終わった頃、浅海さんが入ってきて、オリエンテーションの時間になったことを告げた。これから二人の新人が過ごす時間は、ぼく自身の経験から正確にわかる。。社員証やID カード用の写真撮影、何種類もの書類への署名捺印、グループウェアの説明、各部署への顔見せなど、一日がかりだ。
「今日は終わったらそのまま退社になるので」浅海さんが説明した。「カバンとかは持ってきてくださいね」
二人が出て行くと、ぼくはマリに訊いた。
「で、どういう印象だった?」
「尾日向さんは前向きでとにかく手を出してみるタイプ、ってとこですね」マリは自席に座りながら言った。「安川さんは真逆で、じっくり考えてから慎重に一歩踏み出す性格ですね。エースシステムの社員だからなのか、元々そういう人なのかはわからないっすけど」
「見たまんまだね」ぼくは笑った。「どっちがいいとか悪いとかってことはないけど。あ、そういえば、SNS チェックは?」
4 月になると、新入社員が学生生活の延長で、SNS に社内情報をアップしてしまう、というニュースが話題になり、マーズエージェンシーも、今年から対策に乗り出している。入社前後にX やFacebook、インスタグラム、TikTokなどメジャーなSNS をチェックするのだ。これは本来は人事課の業務だが、今回の二人は中途採用であり、システム開発室所属なので、戸室課長からサポートの要請があった。チェックで技術用語がヒット場合、外に出てはまずい内容かどうか、人事課では厳密に判断できないからだ。
もちろん本人にアカウント情報を聞くことはできないので、名前、会社名、部署名などを組み合わせて、各種SNS の横断検索を定期的にする程度だ。今日のオリエンテーションで、SNS 利用規約や、セキュリティガイドなどの説明はあるが、それでもなおかつ「会社とプライベートは別の世界線」と決めつけて、今日の研修ではこんなことをやった、などと、スクリーンショット付きで全世界に公開する人は一定数存在するのだ。
エースシステムでは、内定時に、数種類の誓約書にサインさせられ、違反した場合の法的措置も含めて数時間の研修を受けた後、テストまで受けさせられるそうだ。また、外部の専門業者によるOSINT(公開情報調査)も実施されている。なので、エースシステム社員である安川さんについては、それほど心配されていなかった。
法務課が心配していたのは尾日向さんだ。社交的な性格なので、SNS での発信回数も多いのではないか、と考えたからだ。ぼく自身はX とインスタグラムのアカウントはあるが、どっちも休眠状態なので、SNS チェックはマリに任せていた。
「今のところ」マリはPC を操作しながら答えた。「特に危ない投稿はないです。尾日向さんらしいX のアカウントは、今日から新しい会社での仕事開始だ、みたいなのがあっただけで」
「まあ二人とも新卒ってわけじゃないからね」
「GitHub の方は、もう少し経ってからですね」
GitHub のチェックは、システム開発室独自のチェックだ。プロジェクトを丸ごとpublic リポジトリにアップして世界中に公開した、という事例も耳にするので、業務を任せるようになったら定期的にチェックする予定だった。API キーやパスフレーズなど公開されては困る情報も扱うことになるからだ。
「面倒っすね」マリは嘆息した。「いっそ、遮断しちゃえばいいのに」
「使わせない、という方が面倒だからな」
ネットストレージサービスは、プロキシでアクセスが遮断されていて、業務で必要な場合は、IT システム課に申請して許可をもらわなければならない。GitHub もストレージサービスに分類されるが、システム開発室の場合はOSS のバージョンアップや仕様確認などで、日常的に使用するので、尾日向さんと安川さんの二人については、事前に許可を取ってある。でないと、ダウンロードが必要な場合に、いちいち、ぼくかマリが代行しなければならなくなるからだ。
「これも仕事ってことっすね」マリはタブレットを持って立ち上がった。「じゃ、あたしは営業四課の方に顔出してきますね。下期のミーティングなんで」
「いってらー」
「それ、死語っすよ」
笑い声とともにマリが出て行くと、ぼくはがらんとなった室内を見回した。明日からは、ここで4 人が仕事をすることになるのだ。ぼくにとっては初めての部下、ということになる。マリの場合は部下というより同僚だったから。ランチとか一緒に行った方がいいのか、飲みニケーションはもう時代じゃないのか、趣味の話なんかはした方がいいのか、など、仕事以外の事柄で迷いが多い。テレワークが続いてくれていたらよかったのに、と思わずにいられなかった。
(続)