私は技術屋だ-便利になるほど、人間は弱くなるのか
私は技術屋だ。
いわゆる、おたくでもある。
技術が好きで、テクノロジーに触れていると時を忘れる。新しい仕組みを知り、それを実際に動かしてみる。思ったとおりに動かなくて、理由を探し、試して、また失敗する。そして、ようやく動く。
その瞬間が好きだ。
なぜ、技術はこんなに面白いのだろう。
一つには、結果が目に見えるからだと思う。
動かなかったものが動く。時間のかかっていた作業が速くなる。複雑だったものが簡単になる。できなかったことが、できるようになる。
やった。作った。動いた。
そこには、確かな手応えがある。
だから私は、技術によって人間のできることが増えていくのを、ずっと面白いと思ってきた。
そして今、AIが急速に私たちの生活や仕事へ入ってきている。
AIは文章を書く。情報を探す。要約する。計画を立てる。プログラムを作る。問題を見つけ、選択肢を示し、ときには私たちの代わりに判断までしてくれる。
これまで時間のかかっていたことが、驚くほど簡単にできる。
技術屋としては、面白くて仕方がない。
けれど、AIにできることが増えるほど、私は別のことも考えるようになった。
AIが多くのことを代わりにしてくれるようになったとき、人間には何が残るのだろう。
これは、「AIに仕事を奪われるのか」という問いとは少し違う。
仕事が残るかどうかではなく、人間のなかに何が残るか、という問いだ。
例えば、AIがいつも答えを示してくれるようになったら、私たちは自分で考えなくなるのだろうか。
AIが危険を見つけ、警告し、次に取るべき行動まで教えてくれるようになったら、私たちは自分で状況を判断する力を失うのだろうか。
分からないことがあれば、AIに聞けばよい。
文章にできなければ、AIに書いてもらえばよい。
決められなければ、AIに選択肢を比べてもらえばよい。
それは、とても便利なことだ。
では、便利になるほど、人間は弱くなるのだろうか。
私は、必ずしもそうではないと思っている。
人間は昔から、道具を使うことで力を広げてきた。自動車を使うからといって、自分の足が不要になったわけではない。計算機を使うからといって、数字の意味を理解しなくてよくなったわけでもない。
道具を使うことと、人間の力を失うことは、同じではない。
問題は、道具を使うかどうかではなく、道具に何を任せ、人間に何を残すかではないだろうか。
AIが答えを出したとき、その答えを使うかどうかを決めるのは誰なのか。
AIの答えが間違っているかもしれないと、立ち止まれるのは誰なのか。
自分だけでは判断できないと気づき、誰かに助けを求めるのは誰なのか。
そして、判断を間違えたとき、その結果に向き合い、立て直し、次に生かすのは誰なのか。
人間にすべての作業を残す必要はない。
機械のほうが速く、正確にできることまで、人間が苦労して続ける必要もないだろう。
けれど、何もかも手放してよいわけでもない。
では、私たちは何を手放し、何を残すべきなのだろう。
もしかすると、残すべきなのは知識の量ではないのかもしれない。
いつも正解できる力でも、何でも一人でできる力でもないのかもしれない。
状況を見て考える力。
自分の判断に理由を持つ力。
分からないことを、分からないと認識する力。
必要なときに、誰かの力を借りる力。
そして、失敗しても戻り、そこから学ぶ力。
今の私には、まだ答えはない。
だから、これから5日間かけて考えてみたい。
技術が人間の能力を増幅し、多くのことを代わりにできる時代に、私たちは人間にどのような力を残さなければならないのか。
AIを使っているあいだだけ、強く見える人間ではなく。
AIの支援が離れたあとにも、自分で立ち、考え、必要なときには助けを求められる人間であるために。
私たちは、何を残すべきなのだろう。
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