防災の日に考えた、予測できないものと生きるということ
昨日、ITmedia Security Week 2026 夏に登壇した。
これで、今年の夏の登壇はすべて終わった。しばらくは少しゆっくりと、執筆活動に向き合おうと思う。
昨日は、9月1日。防災の日でもあった。
私の祖母は、関東大震災と東京大空襲を経験している。
以前、祖母に聞いたことがある。
「何がいちばん怖かった?」
祖母は、ためらうことなく答えた。
「関東大震災」
その答えは、いまも心に残っている。
戦争も空襲も、想像を絶するほど恐ろしい経験だったはずだ。それでも祖母にとって、突然大地が揺れ、身の回りの世界が一瞬で変わってしまう地震の恐怖は、それを上回るものだったのだろう。
災害は、突然やってくる。
来ることは分かっていても、いつ、どこで、どれほどの規模で起きるかは分からない。どんなに準備をしていても、私たちの想像を超える事態が起こる。
私は、サイバー攻撃にも似た構造があると考えている。
もちろん、自然災害とサイバー攻撃は同じものではない。
けれども、完全には防ぎきれないこと。突然起こること。混乱を生むこと。そして、被害が人の生活や信頼のなかに長く残ること。事前の備えと訓練が、被害の大きさを左右すること。
その構造には、重なるところがある。
私たちは、地震そのものを止めることはできない。
だから日本では、起きることを前提に備えてきた。避難場所を確認し、防災用品を用意し、訓練を繰り返す。いざというときには声をかけ合い、助け合い、被害のあとには暮らしを立て直していく。
目指してきたのは、災害をゼロにすることではない。
揺れても、壊れきらないこと。
混乱しても、もう一度立ち上がれること。
この日本の防災文化には、これからのサイバーセキュリティを考えるための、大切な知恵がある。
サイバー攻撃は、システムの弱点だけを狙うわけではない。
「今すぐ」
「至急」
「あなただけ」
そんな言葉で、私たちの焦りや恐れ、責任感を刺激する。判断する時間を奪い、確認する前にクリックさせ、誰かに相談する前に行動させようとする。
狙われているのは、技術だけではない。
人間の「判断」そのものなのだ。
だから、必要なのは知識を増やすことだけではない。
危機の瞬間に、
止まる。
確かめる。
相談する。
その小さな動きを、防災訓練のように繰り返し、身体に覚えさせておくことが必要になる。
私は、これを「デジタル避難訓練」と呼んでいる。
防災には、「自助・共助・公助」という考え方がある。
サイバーにおける自助は、まず自分の判断を守ることだ。疲れていないか。焦っていないか。急がされていないか。自分の心の「天気」を知り、曇っている日には一人で大きな判断をしない。
共助は、誰かが失敗したときに責めるのではなく、「知らせてくれてありがとう。一緒に止めよう」と言えることだ。
公助は、困った人が迷わず「助けて」と言える入口を、組織や社会が用意することだ。
これは、単に優しくするという話ではない。
危機を早く知らせ、被害を小さくし、人と組織が回復するための、現実的なセキュリティの設計である。
昨日のITmedia Security Weekでも、私は、人間を中心にサイバーセキュリティを考えることについてお話しした。講演のアーカイブも、今後公開される予定だ。
今回の登壇を終え、これからは少し静かな時間のなかで、この考えをさらに言葉にしていきたいと思う。
私が書こうとしているのは、攻撃を完全になくすための方法ではない。
予測できないことが起きたときにも、人が壊れきらないこと。迷ったときに立ち止まれること。怖くても誰かに助けを求められること。間違えても、支え合いながら立ち直れること。
強さとは、何も起こらないことではない。
どれほど備えていても、私たちの想像を超えることは起こる。
それでも、備えることには意味がある。
訓練することには意味がある。
支え合うことには意味がある。
日本が長い時間をかけて育ててきた防災文化を、デジタルの世界へ。
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