生き様010. 僕がエンジニアカウンセラーになった理由 ~キャリアの軌跡「東京編」~
祝連載10回!!
ちょっと前の回でもお話した通り、新人の鬼門とされる「10回の連載」を迎えました。
某週間少年誌でも「10週打ち切り」などという言葉があることを考えてみても、10回というのは一つの区切りとなるのでしょう。
まだまだこのコラムはネタ切れを起こしていません!
これからも毎週、僕の体験を通した考え方を提供していきたいと思います。※1
ということで、今回から3回は、僕の今までの経歴を振り返りながら
「こんな事やって、こんな事考えて生きてきたんだ」
というのをお伝えしようと思います。
普通に自分語りをしても面白くないので、ちょっとだけ趣向を凝らしてみます。
- 「プログラム学習編」「新社会人編」「東京編」の3つに分ける
- 時系列の逆順「東京編」→「新社会人編」→「プログラム学習編」で公開
※ただし、各記事の中では、基本的に時系列順とする- キャリア的な視点で振り返る
前回のあらすじ
高卒から6年弱勤めた会社を辞めて、東京に遊びに出た…
が、居住地が筑波に!?
職業訓練や日雇いのバイトを通して働く中で、白柳は確信を深める。
「俺は、コンピュータシステムを作る人間なんだ!」
そうして、東京のSIerに就職が決まった白柳は、SESで働き始める。
自分のスタイルを見つける
僕が東京で初めて参加したプロジェクトは、販売系の大規模開発の常駐案件でした。
メンバーがどれぐらい居たのか僕には分かりません。100~200の間ぐらいでしょうか?
でも、かなり広いフロアの1つがそのプロジェクトに割り当てられていた事は確かです。
幾つかのサブシステムに別れたそのシステムは、サブシステム毎に違う会社に割り振られていました。
僕はそのサブシステム「在庫管理」のチームの一員として、主に「販売管理」チームとの連携部分の処理を担当する事になりました。
…なりました、と言っても、実はプロジェクトは終盤。
なのにシステムは上手く動いていない。つまり、大絶賛炎上中な訳です。
僕が担当になった理由は「分かる人間が居ない+手の開いてる+そこそこできる」だったから…
そりゃそうですよ、他システム連携とかいうめんどくさい所、誰も担当したくないデスヨネー(遠い目
おまけにドキュメントも「鋭意製作中!」の状況。
ではどうするか。
もう、物理的に聞きに行くしかないんですよ。
「販売管理」の島とは、フロアの隅と隅。配置を呪いながらも足繁く通う当時の僕。
分からない事があれば、分かる人を探してフロアを歩き回る日々。
そういう中で自分のスタイルを見出しました。
それは「足で稼ぐ」です。
- 一人で抱え込まない
- 分かる人を探して聞き出す
- Face to Face のコミュニケーションを努める
現場では途中参加の新参者でしたから。
分からない事も多いですし、信用度も低いのは当たり前。
それなら、直接顔を合わせてコミュニケーションを取り、分からないことを素直にぶつける。
決して知ったかぶりや、勝手な自己判断はしない。
過去に自分が犯した失敗を反省した結果の行動でもありました。
この時期、とある事件で人間不信というか、自分自身の判断への信頼が瓦解していたことも関係しているのですが…。
今現在でも、僕はこのスタイルで仕事をしています。
メール or チャット < 電話 < 会って話す
「今の自分であれば、プログラマとしてやっていける!」
そう確信を深めた出来事でした。
折れた心
その後幾つかのプロジェクトを経て、ある日突然「会社に行きたくない」という衝動に襲われる様になってしまいました。
ぶっちゃけ、鬱です。
最初にその症状が出た理由を今分析すると
- 対人ストレス:マネージャーと反りが合わなかった
- 仕事ストレス:やりたい事とやっていい事の開きが大きかった
でしょう。
仕事は望んでいた「ユーザーに近い位置」でした。
しかし、PMの方針が「ユーザーのオーダーに答える。こちらから提案して仕事を増やすことはしない」でした。
この当時の僕の目標は「人とシステムの間に橋を渡せる開発者であること」でした。
ユーザーの為に、と提案しても「余分なことをするな」と却下される。
この繰り返しが、当時の僕にはとても大きいダメージとして、蓄積されていったのです。
そしてある日突然、職場に行くことが出来なくなってしまいました。
家を出て電車に乗っていても、途中で行けなくなってしまうのです。
その後現場を変わっても、この発作は幾度か襲ってきました。
それでも大抵は午前中、ちょっと酷くて1日休めば収まります。
しかし、もう一度大きな発作が起き、全く出社出来ない状態になってしまいました。
その結果、仕事を失う事になったのです。
時代はリーマンショック直後。
プログラマの雇用も少なく、求人として出てくる仕事の給料も安くなっていた時代。
当時、派遣契約で仕事をしていましたが、業務規模縮小の為の人員整理で契約が更新されなかったことも…
この不安定さが、不調なメンタルに更に追い打ちを掛ける、
とても悪循環な状態でした。
キャリア的には、下降期です。
そんな状態が上向くのは、2011年2月頃からでした。
ツテのツテで正社員になり、ゲーム開発会社で働くことが決まったのです。
人の縁の大切さを大きく感じた出来事でもあります。
- 学生時代の夢だったゲーム開発の仕事
- 朝が遅いので「仕事行きたくない」発作へもゆっくり対応できる
この2点が、この時期の僕にはとても効果的でした。
入って早々、東日本大震災とそれに伴う計画停電の影響は少し受けたのですが…
このタイミングで正社員になれていなかったら、その後どうなっていたか。
ちょっと想像したくないですね。
「このままだと死ぬぞ」
医者からこの言葉を言われた事がある人は、どれぐらい居るでしょう?
ある日、体調が悪く病院に掛かった時に、井上正大似の医者から実際に言われた言葉です。
僕が体調不良慣れし過ぎていて、自分の状態を甘く判断していたから言われた言葉なんですけどね。
その後、1年半に渡り、一歩間違ったら死んでた、という状態を片手以上両手未満の回数経験する事になります。
この一連の流れが、僕のキャリアの転機になっている、という事だけは間違い有りません。
34歳の6月。
多少のトラブルはありつつも仕事は順調。
老犬ではありますしたが新しく家族も増え、絶好調な時に、ソレは起こりました。
健康診断の人間ドッグの年齢が35歳以上から30歳以上へ引き下げられた結果、人生初のバリウム等色々な体験をしました。
その中で、腎臓に瘤が見つかります。
大きな病院を紹介され初期の腎臓癌(ステージⅠ)。部分摘出を受けました。
事前にトラブルはありましたが、手術自体に問題はなく、無事に終わりました。
ですが、その後術後後遺症に悩まされ、長期休職からの退職を選ぶことになりました。
この後、体調が落ち着いた頃に受けた扁桃腺摘出の手術でも術後が大変なことになりました。
どうやら、僕は手術との相性が良くないんだろうな、と感じています。
キャリアコンサルティングとの出会い
人生で何度か目の無職になった僕は、再び職業訓練を受けることにしました。
数年前に受けようと思ってタイミングが合わなかった[簿記]の勉強を、今度こそしよう!と考えた訳です。
職業訓練に関する情報を集めていた時、「キャリアに関する講習」を見つけました。
前職を辞める少し前「目標管理シート」というものを渡され「キャリア面談」という物をやった事がありました。
その時は、違和感しかありませんでした。
何かがおかしい、と。
では、その「何か」とは何なのか?
それが知りたくて、「キャリアに関する講習」受講することに決めました。
そこで「キャリアコンサルティング」の基本を学びました。
何度か紹介している「傾聴」に関する技術も、ここで習得しました。
そして、それらの学びはとても大切なものになった、と言えます。
他人のキャリアに触れた経験も、とても大きい、と言えるのですが
それ以上に、キャリアの掘り起こしや振り返りの実践の中で、新しいキャリア目標を見つけることが出来ました。
それが「エンジニアカウンセラー」です。
エンジニアカウンセラーへ
新しい目標を見つけましたが、いきなりは何も出来ません。
そもそも、その当時は「働くエンジニアのサポートをしたい」という気持ちだけで、肩書もありませんでした。
それでも「エンジニアをサポートする仕事」を求めて就職活動をしていました。
なんとか面接までは行けるのですが、その先が決まりません。
そこで考え方を変えてみました。
- 今は、エンジニアとして今まで培った技術をもう一度現場で見直そう
- キャリアコンサルティングを通して学んだ、傾聴や対人スキルの有効性を開発現場で実践しよう
そう考えを変えてみると、ある会社へすんなりと就職が決まりました。
その後、約3年の時間が経った頃に「独立するなら今だ」というタイミングを得ます。
当初の予定とは大きく変わってますが、2019年9月に独立し、今に至るのです。
※1:そう、白柳の体験を通して得た考え方の提供が目的でした。ココ最近はすっかり忘れていた気がします…