天上天下唯我独尊
4月8日は花祭り。お釈迦様の誕生日です。
お釈迦様は、お産まれになられてすぐ7歩歩かれて右手で天を差し、左手で地を差し「天上天下唯我独尊(この世の中で我一人が尊い)」と仰られたと言います。
その意味の解釈については所説はあるようですが、このインパクトある言葉は一昔前のヤンキー達に気に入られ、彼らの背中を飾る言葉になったことは知っての通りです。
でも個人的には敢えて、「この世の中で私を尊敬するのは、私自身ただ一人である」という意味に捉えてはどうかと思っています。ニュアンスとしては、自分を尊敬している人が、最低限一人、自分がいる。もしくは、最低限、自分は自分自身を尊敬しなければならない。簡単にいってしまうと自分を大切にしろ、というような意味です。
「尊い」とは「崇高で近寄りがたい」「きわめて価値が高い」「高徳である」という意味の形容詞でが、同じような意味に「貴い」の字を当てることもあります。ニュアンスからすると「尊い」が主観的であるのに対して、「貴い」は客観的です。
最近はやりのオタク文化で使われる「とうとい(たっとい)」、自分にとって価値が高い、という意味で使われますので主観的な「尊い」。だれが見ても身分が高い人たちは貴族と呼ばれ「貴い」が使われています。
お釈迦様の時代、といより仏典が中国に伝わって漢訳された際でしょうから三蔵法師の時代から、その様なニュアンスの違いがあったかは分かりませんが、現代的には「尊い」という主観的なニュアンスをもってることからして、「自分にとって」という解釈した自説はあながち間違っていないんじゃないかな。
主観的唯我独尊説(自説に名前を付けてみた)では、自分のなかで自分が崇高で価値が高い、としています。それは、最初からそうなのではなく、そうなりなさい、そうありなさい、ということだと思うのです。この点は大切で、他者からの評価は評価する側の都合もあるで、他者にとって自分が尊い存在かどうかはあまり気にする必要はありません。
しかし、自分の中では評価する自身と評価される自身の利害は一致しているので、自分にとって自身が尊い存在であるとおもえることは大切なので。けれども自身の評価は甘くなるのもまた事実なので、最初から尊いのではなく、そうなる、そうあろうとする、という前提が不可欠なのです。
自分自身から尊敬される。自分自身を尊敬できる人になる。天上天下唯我独尊とは、そんなお釈迦様の教えではないかと思っている今日この頃です。
(お詫び)
本稿は4月8日投稿しようと書き始めたのですが、間に合いませんでした。