イノウーの選択 (5) 異なる文化
玄関のドアを開くと同時に、二種類の叫び声が届いた。ぼくは急いで身体を滑り込ませ、ドアを閉じた。幸い、このマンションは比較的築浅で、防音性能がしっかりしている。
ドタドタドタ、とフローリングを踏み抜きそうな勢いで突進してきたのは3 才の娘、ナナミだ。なぜか上半身のTシャツがパスタソースらしき液体にまみれている。
「パパ!」
抱きつこうとする娘を、ぼくはかろうじて押しとどめ、洗濯後一日しか履いてないズボンを守った。
「ただいま!」ナナミは笑顔で叫ぶように言った。
「それはパパのセリフだってば」よく見ると、口の周りも赤とオレンジで彩られている。「ごはんだったの?」
「ナナミ!」怒り狂ったマリが急ぎ足でやってくると、手にしたタオルで娘の口元を拭った。「口にものを入れたまま走り出さないって約束したでしょう!」
ナナミはフンと言いたそうに顔を背けると、助けを求めるようにぼくを見た。甘やかしてはいけないとわかってはいるものの、ぼくは注意深く娘の頭を撫でた。
「どうしたの? パパに言ってごらん」
「あのね、ナナがごはん食べてたらママが怒りんぼになった」
「違うでしょ」マリは容赦なく娘の身体を回転させて、自分に向き合わせた。「パスタを手づかみで食べたからだよね」
「ナナ、フォーク使ったよ」
「最初の一回だけね。すぐポイしたでしょう。あなたはオオカミに育てられた子どもじゃないんだから、フォークを使ってちょうだい」
「や!」
ナナミは一瞬の隙をついてマリの手から抜け出すと、奇声をあげながらリビングに駆け戻っていった。マリが慌てて追いかけていく。
「ぎゃー」マリの悲鳴が聞こえた「ベトベトの手で壁に触るなあ!」
やれやれ、とため息をついて、ぼくは洗面所に入った。シャツを洗濯機に放り込み、コロナ禍ですっかり習慣となった手洗いとうがいを済ませる。寝室に向かい、カバンからノートPC を出してデスクに置き、コンセントにつないだ。ルームウェアに着替える間にも、リビングからはマリとナナミが言い争う声が断続的に聞こえていた。
スマートフォンでメールとチャットをチェックしてから、こちらもType-C ケーブルにつなぐ。最近ではシステム開発室への依頼が増えたため、各部署からの連絡が頻繁に入るようになっている。放置しておくと蓄積する一方だ。
リビングに入ると、二人の女性はなんとか休戦で合意したらしく、途中だった夕食を再開していた。ナナミはフォークを握ってはいるものの、隙あらば手指に切り替えようと虎視眈々としているようだ。マリが立ち上がろうとしたのを手で制して、ぼくはキッチンに向かった。
「ナナミ、ちゃんとフォークで食べなよ」ぼくはパスタソースを電子レンジに突っ込みながら付け加えた。「見てるからね」
「パパ、見ないで!」ナナミは皿を隠すように背を向けた。
ぼくは笑いながら、マリが用意しておいてくれた夕食をトレイに並べた。メニューはパスタと、ツナサラダ、鶏肉と根菜のスープ、ほうれん草の胡麻よごしだ。
結婚した当時、夕食はスーパーの惣菜を並べるだけか、外食で済ませることが多かった。夫婦揃って仕事が忙しかったことが主な理由だったが、第二の理由は二人とも料理がそれほど得意とは言えなかったためだ。いや、今にして思えば、理由の主従は逆だったのかもしれないが。
どちらも食にうるさい方ではなかったので、しばらくは大過なく暮らしていたのだが、ナナミが生まれると、さすがにこの状態では家計的にも栄養学的にもよろしくない、と認識することになった。最初に言い出したのはマリだが、どうやら木名瀬さんがそれとなく忠告してくれたらしい。
幸い、ぼくたちはネット社会と生成AI が存在する時代に生きている。離乳食から懐石料理まで、レシピを入手できないものはない。ぼくとマリは多忙な育児と仕事の合間を縫って、少しずつ料理のレパートリーを増やしていった。
何度か話し合いを重ねた結果、平日は二人のどちらかが、夕食を作ることになった。何曜日が誰、と決めてしまうと、突発的な残業の発生時に対応できなくなるため、柔軟に調整しあっている。マリは時短勤務なので、どうしてもマリが当番の日が多くなってしまうが、ぼくもできる限り埋め合わせをするようにしていた。
もちろんどちらも専業主婦・専業主夫ではない。主菜、副菜、汁物を完璧に揃えるのは最初から断念しているし、互いに、相手が作った食事に不平不満は言わない、という協定も結び、文書化した。手を抜けるところではいさぎよく抜こう、というのも暗黙のルールだ。
たとえば今日の担当はマリだが、パスタソースはカルディのセールで買った瓶詰め、スープの根菜とツナサラダの野菜は、イオンのカット野菜パックを使っている。それでもパスタソースにはニンジンとパセリのみじん切りがプラスされているし、スープも濃い味が苦手なナナミのことを考えた塩加減になっていた。
「木名瀬さん、どうだった?」ナナミから目を離さず、マリが訊いた。
「なかなか難しいけど、何とかしてくれるとは言ってくれたよ」
「そうなんだ」マリはタオルでナナミの口の周りを拭いた。「でも木名瀬さんのとこだけに頼るわけじゃないんでしょう?」
「まあね。人事は人事で、付き合いのあるところにオーダーかけるって言ってたから」
「あたしも、IT 業界に就職した友だちとかに訊いてみたんだけど、どこもかしこも人手不足だってのは確かみたいね。これも少子化の影響?」
「さあ、それは知らんけど。木名瀬さんはK自動車の経営が影響してるって言ってたな」
ぼくが木名瀬さんから聞いた話をかいつまんで話すと、マリは「ふーん」と応じた。
「そういうのなんて言うんだっけ、ほら、風が吹くと......風呂屋が繁盛?」
「風が吹けば桶屋が儲かる」
「そうそう、それ」マリがペロッと舌を出すと、すぐにナナミが真似した。「要するにあれよね、コロナが流行るとホットケーキミックスがなくなったってやつ」
「そういうこともあったねえ。テレワークが増えるとかね」
一時期はマーズ・エージェンシーでも、可能な社員はフルリモート勤務が認められていたが、昨年度より出社回帰が始まった。特に管理職の人間は、よほどの事情がない限り、テレワークが認められなくなり、ぼくの勤務形態も今年度からは基本的に出社と変わっている。
「ああ、それで思い出した」マリは言った。「明日はテレワークで午前勤務にするから、お迎えあたしが行くよ」
「何かあったっけ」ぼくは壁掛けカレンダーに目を向けた。
「リトミック教室の説明会があるから、チカちゃんママと一緒に行こうかなって」
「わかった」ぼくは答えた。「チカちゃんって、パパがIT 業界の子だっけ?」
「それはユウキくんパパ」マリが笑いながら訂正した。「チカちゃんパパは確か旅行会社だったかな」
「ユウキくん?」ナナミが友だちの名前に反応した。「ユウキくん、もう、じでんしゃ乗れるんだよ。ナナミもじでんしゃ乗りたい」
「じてんしゃ、ね」マリがカップに麦茶を注ぎながら言った。「ナナミはキックボードあるじゃん」
「ナナミもじでんしゃがいい」
「ユウキくんは年長さんでしょ。ナナミは来年、年中になったら考えるね」
「来年って、明日の明日? 明日の明日の明日の明日?」
「もっと先。食べて」
「ナナミ、ユウキくんが大好きなんだ」ナナミがショッキングなセリフを笑顔で口にした。「でも、ユウキくんはアサヒが大好きなんだって」
「アサヒ先生でしょ」マリが怖い顔を向けた。「呼び捨てはいけません」
「だって、みんなアサヒって言ってるよ」
「それでもダメ。食べて」
ナナミはようやく夕食に注意を戻した。それを見届けたマリは、ふと思いついたように訊いた。
「面接ってパパも参加するの?」
「採用面接? うん、二次面接から参加するよ」
「あたしは参加できないよね」
「君が? うーん、どうかな。なんで? 参加したいの?」
「フロント関連の質問した方がよくない?」
「フロント関連か......」
「うん。フロントとバックエンドの人って、なんて言うか、文化が違うじゃん」
「文化ねえ」
「え、なに?」マリは笑った。「フロントエンジニアは、あたしがいれば十分だって?」
「じゅうぶん!」ナナミが乗った。「じゅうぶん!」
「それもあるけど」ぼくはあえて否定せずに答えた。「社内システムなんだから、基本的にそこまでフロントは重視されないしね。SPA じゃないと困るってわけでもないし。今回はJava の経験者の方を採用したいんだよ」
「つまりバックエンドってことね」
「そう。フロントは必須じゃなくて、歓迎条件ってこと」ぼくは人事の浅海さんから聞いた言葉を拝借した。
「あたしとしては、あたしが稼働できなくなったときのために、フロントができる人もいてくれると安心なんだけど、まあ、今回はしょうがないすかね。あ、こら」
ナナミが食事を放棄してさ迷い始めたので、マリは慌てて立ち上がった。ぼくは自分の食事を続けたが、ふとまだナナミが単語以上の言葉を発しなかった頃にした話を思い出し、フォークを持つ手を止めた。
この子は何が得意になるのかな、とマリが言い出したのをキッカケに、何を教えられるか、という話になった。マリは小さい頃、短い期間だったがピアノ教室に通っていたことがあるから、ピアノを教えてあげたい、と言った後、面白そうな顔でぼくを見た。
「パパは?」
「うーん」ぼくは眠るナナミの顔を眺めながら言った。「プログラミングかな」
「へえ、意外」
「そんなに意外?」ぼくは答えた。「小学校に入れば、普通にプログラミングの授業あるよ。幼児向けの教室だってある」
「いや、そうじゃなくて。てっきり、ホビットとか旧支配者とか、そっち系の道を教育したいのかと」
「......」
「とにかくいろいろやらせてあげたいな」マリも飽きずに娘の寝顔を眺めていた。「正直、今は、仕事よりそっちを優先したい気分」
冗談めかしてはいたが、今後、ナナミの成長に比例して、マリが仕事に割ける時間は減っていくと予想させられるような口調だった。お受験こそ考えていないものの、体験格差を感じさせたくはない、というのが二人の共通の認識だ。小学校に上がれば手が離れるのかもしれないが、それまでは心と身体の両面で多くの体験をさせてやりたい。語学、芸術、水泳や体操、ダンス、キャンプや旅行......
何をやるにせよ、その手配の大部分は、マリがすることになるだろう。マリの性格からしても、自分のキャリアを積むことより、誰かのサポートをする方が得意のようだし、力を発揮する分野でもある。
となると、システム開発室におけるフロントエンジニアの稼働率は確かに下がることになる。以前のぼくの思考なら「知ったことか、そんなの上が考えることだ」だっただろうが、今では「室長補佐」という立場だ。その職責には、社内に提供するアプリケーションのクオリティ維持、が確かに含まれる。「知ったことか」では済まされない。
ナナミを引きずるようにマリが戻ってきた。ナナミは「やめて」とか「はなして」とか喚いているが、マリは意に介さず、アンパンマンの椅子に座らせた。
「もうごちそうさま?」マリが幼児用のスープカップを指した。「ジャガイモ残ってるよ」
「おいもきらい」
「柔らかくしたんだけどな」マリは嘆いて、ぼくの顔を見た。「パパ、何か言ってやって」
「ジャガイモおいしいよ」ぼくは自分のスープのジャガイモを口に運んでみせた。「ほら」
「きらい」
「そんなことじゃ火星に一人取り残されたときに生きていけないよ」
「きらい!」ナナミは力強く主張した。
大人二人はやれやれ、と肩をすくめた。いきなり皿ごと床に放り投げられた頃から比べれば、好き嫌いをはっきり言ってくれるだけ進歩したと言える。マリは「じゃあ、ママが食べちゃうからね」と最後の一押しをしてみたが、ナナミはそっぽを向いただけだった。
おつかれ、と声をかけた後、ぼくは言った。
「確かに、フロントの技術力もあるに越したことはないな」
「え?」
「君も参加できないか、ダメ元で人事に話してみるよ」
「どうしたの急に」
「室長補佐としての責任感に目覚めた」
「素晴らしいわ」マリはにっこり笑った。「ついでに、お風呂にも目覚めてくれると嬉しい」
ぼくは苦笑した。一人暮らしのときは、冬でもシャワーで済ませることが多く、湯船にお湯を張るのはせいぜい週に一回だった。逆にマリは基本的に毎日湯船に浸かりたいタイプだ。お風呂掃除は寝るのが遅いぼくの担当だが、独身時代のクセで、シャワーを浴びてそのまま出てしまうことが多々ある。昨日もそうだったので、マリにカビが生えやすくなるから、ちゃんとお湯を抜いて洗って換気しておいて、と釘を刺されたのだった。
「今日はちゃんと洗っておくから」
「いえ、明日はテレワークだから洗濯しようと思ってる。だから今日のところは、お湯を残しておいてほしいの」
「ああ、そうなんだ。わかった」
「わかった!」ナナミが真似した。
「あたしが言ったのは、たまにはナナミと一緒にお風呂入ってくれると助かるんだけど、という意味ね」
それは風呂掃除以上に苦手な分野だ。
「あー、今日はちょっと」ぼくは逃げた。「まだ仕事残ってるし。そのうちね」
「そのうち、なんて言ってると、一緒に入ってくれなくなるよ。今のうちだよ、一緒に入れるのは」
「今日は本当に仕事をしないと」
「例の夏目さんの?」
「そう。採用の件で人事に圧力かけて......口利いてもらったからな」
「まあいいわ。ナナミ、今日もママと入ろうか」
「やだ」ナナミは首を横に振った。「きょうはパパと入る」
「あれ。こう言っておりますが?」
「ごちそうさま」ぼくはフォークと皿を持って立ち上がった。「ごめんね。パパはちょっとお仕事残ってるから。またね」
ナナミが「えー」とか「やだ」とか喚いたが、マリは「だって。はい、お茶飲んで。ハミガキするよ。お口の中、ムシばい菌で一杯だよ」とまともに取り合わなかった。「ハミガキしない!」との抵抗も無視して、用意してあった歯ブラシを握らせた。
このような場合、以前のぼくなら「わかった。じゃあ後でいいよ」とほだされてしまっていた。その行動は、マリを初めとする周囲の女性陣から「それはおいしいところだけ取ってる」と非難されたため、考えを改めざるを得なかった。「パパは泣けば言う事を聞いてくれる」と学習してしまうのもよくない。今では、一度決めたことは、相当の理由がない限り撤回しないことになっている。
「文化が違う、か」
システム開発室と人事課も、かなり文化が異なる部署だ。人事課には、これまで培ってきた採用プロセスがあるが、システム開発室が求めるものに必ずしも一致しているとは限らない。ぼくが面接に参加することさえ渋い顔をした戸室課長が、マリの参加を認めてくれるだろうか。不安を抱えながら、ぼくは食器を洗う作業に取りかかった。
(続)