不条理なリアル
最近、世界がキナ臭い。大国の為政者といのはかくも横暴なのかと、あらためて思い知らされる。しかし一方で、でもこの状況こそがリアルなんだと妙な納得感もある。
おそらく世の人々は皆、平和を願っている。でも自分の平和がかならずしも他人の平和とは限らない。正義の反対は別の正義、という言葉もある通りで。やはりこれがリアル。
先の選挙で「中道」で結党した野党が大敗した。「中道」とは極端に考えや行動に偏らず、最適な道を探す思考法。それは正しいと思うが、当たり前の話であるようにも思われる。
その「中道」を野党がわざわざ標榜するのは、もしかしたら対峙する与党が極端である、という前提がどこかにあるのかもしれない。もしその前提があったとして、果たして与党は極端なのか。
例えば与党の戦略を考えた場合、そのアドバンテージは政策を実現できる、という点にある。従って、もし仮に選挙の際に野党と同じ政策を掲げれば、野党を無力化できる。望む政策ならば、実現可能性が高い方に投票する確率は高い。
一党独裁のような党ならば極端になることは考えられるが、過半数を割るような弱い与党ならば、このアドバンテージを前提にするしかないので極端にはなりえない。解散、野党結党時、与党はまだ弱かった。
政治学者でも評論家でもないので適当な感覚ではあるが、野党が与党への批判に軸足を置いたことが大敗の原因ではないかと感じている。
世には不条理なリアルがあり、政治はそれに対峙しなえればならない。不条理の前では聖人君子は無力だ。必要なのは不条理を前に強かに振る舞う逞しさではないかと思う。
あえて大げさな言い方をすれば今回の選挙では、理想に殉教するか、リアルを受け入れて足掻くか、の選択を迫られたのかもしれない。「中道」は信条、立ち位置、考え方なので不条理なリアルを前では迫力に欠ける。
民主主義の中では、与党を批判する野党の役割は重要。それは与党が極端にならないため。では批判だけの野党に政権を取らせるか、というと微妙。批判だけでは不条理なリアルに対峙できないから。
批判とは、対象が何処かに向かおうとする力への反対向きの力であるが、逆ベクトルなので本質的には同じである。だから、直線状の議論にしかならず、別の何かを生み出すものではない。
不条理なリアルの前では、何が正解かはわからない。最悪の事態にならないよう、少しでも良い方向に進むよう、様々な施策を適切なタイミングで実施することが唯一の手立てだと思う。
そうであるならば、如何なるタイミングで如何なる施策を実行するか、様々な観点から施策を検討しなければならない。それは精神論ではなく、個人の信条や哲学をも超えてでも、向き合う必要がある。
そんなリアルを前に、「中道」という言葉は精神論に近く、批判に軸足をおいてることを見透かされてしまったのではないだろうか。そんなことを思う。