今年感じた多様性
2021 年もあっという間に終わろうとしています。一部の人にはわかる話になりますが、本当であれば年末年始に地球を守って過ごそうと考えていました。ですが残念ながら発売が延期になってしまい、年末年始は別のやることで埋まってしまいました。地球を守ることについてはまだ発売日が未定のままなので、首を長くして待っている次第です。
それはさておき今年1年を振り返ってみると、自分の中で印象に残っているのは「多様性」という言葉でした。言葉自体はここ数年でよく目にする耳にすることが多いのですが、正直に言えばどうにもしっくりこない話題が多かったと感じています。自分のスタンスとしては、多様性は当然にしてあるもので多様性の存在を認めるのは当然のこと、という考え方です。同じものを目にしていても、人が変われば考え方や捉え方も変わって当然と考えていますので、同じ考え方ばかりの方が不自然だと思うのです。
現実の世界では色々な考え方をする人がいます。これは多様性を抜きにしても当然のことなのですが、そう考えない人もまたいます。ここは私の勝手な思い込みですが、正解は常に一つ、と考えているタイプに多い気がします。例えば私は複数人で仕事をすすめるときにメンバーそれぞれのやり方に任せることが多いのですが、マネージャー側ですべてコントロールをすることがよいと考える人もいます。これも、どちらが正しいか間違っているかではなく、その時々の状況により適した方法が異なるものです。メンバーの立場としても、自主的に動くことが得意な人もいれば、指示をもらって動くことを得意とする人もいます。これもどちらが正しいとは言い切れないものです。
多様性に関する記事を見ていくと、多様性は認める必要があるといった論調で書かれることがほとんどで、それ自体はその通りだと感じています。ただ、中には多様性を認めないことはよくないことだ、という趣旨が混じることもあり、こうなると私の中では違和感がついてまわります。多様性をうたっておきながら、多様性を認めないことをよしとしない、この点については一つの考え方だけが正解としてしまっているからです。
日本の中だけを見ていても、様々な考え方をする人がいます。その中には多様性を認める人もいれば、認めない人もいます。これは当然のことです。違和感を感じてしまうのは、こういった話題を扱う場合に用いられる主語が非常に大きなものとなりがちだから、というのがあるかもしれません。世界は、国は、大人は、子供は、男性は、女性は、みんな、というように母数が大きい言葉を主語にしたものほど、違和感を感じさせる一因だと私は考えています。主語が大きい意見を目にした場合、「とはいってもそうじゃない場合も多いよな」、と反対意見を考えてしまうのです。もちろんここは私の性格も大きいところだと思います。
こうした考え方をしているので多様性を認めてはいるのですが、そうはいっても受け入れにくいことも当然あります。この場合は、「私は」、と明示することが必要です。正しいとか間違っているとかどうでもよく、単純に私はその考え方が嫌い。個人の感情や考え方として表明する分には、それほど大きな問題ではないと考えます。このあたりを意識することで、他人と会話するときに余計な問題を起こさせることも減るのはないでしょうか。特定の考え方をする人を嫌うこともそれなりにありますが、ただの1個人が私のことを嫌っている、と考えてみればそこまで大きな問題にはなりにくいです。多くの考え方をする人がいて当然なのですから、私を嫌っている人がいてもそれも当然のことと考えられるからです。
私は全員と仲良くすることは無理だと考えますし、全員が同じ考え方をするのも無理だと考えています。でももしかしたら、全員と仲良くすることができるかもしれませんし、同じ考え方をしていくこともできるかもしれません。そのどちらの考え方も認めるのが多様性の一歩なのではないでしょうか。自分はこう考えるけどもこの人は反対な考え方をする、それを認めていくことで色々な意見が出る環境であってもやりくりできる流れが見つかるのかもしれません。そうなれば非常にありがたいのですが、なかなかそこまではたどり着けていないのでまだまだだなぁ、と感じる一年でした。来年はもう少し頑張っていきたいところです。