正解のないUIの思想
私は最近の業務である特定のシチュエーションで利用するようなアプリを作成しているのもあり、ユーザーインターフェースやユーザーエクスペリエンスといった、直接ユーザーがふれる部分について試行錯誤している日々が続いています。状況は違えど、似たような体験をしてきたこともあるので、全く想像がつかないわけではないのですがそれでもインターフェースを考えるということは非常に難しい作業です。
iOSにはじまり、現在UIやUXというとどうしてもそちら側の内容ばかりが目につくので、方向性としてもタブレットやスマートフォン的なものを考えてしまいがちなのですが、現場で作業されている方に意見を伺うと、ほぼ間違いなくそのようなユーザーインターフェースが敬遠されるのは想像に難くありません。例えばコンビニエンスストアでよく見かける発注業務などに利用されるタブレット端末ですが、そこにスワイプして画面切り替えといったスマートフォン的な思想を持ち込んだところで使い出のよいアプリができるとは、よくよく考えれば気づくことだと思います。
こうしたUIやUXの話題を出すと、結構な高確率で反面教師的に扱われるのが俗にいう業務アプリの設計思想ではないでしょうか。
個人的な考えとしては、これまでの業務アプリのインターフェース設計というものは、あまり利用者のことを考えて作られたものではなく、まだまだ改良の余地が残されていると思っています。よくあるものとして、項目を画面に多く詰め込みできるだけ遷移を行わない思想で設計されたインターフェースがあります。このような画面は見たことのある、または作成したことのある方の数は非常に多いでしょう。私も含めてそれなりな年齢に達しているのであれば、なおさら「業務アプリはそういったものだ」という教えに染まってきていることがあっても全く不思議ではありません。
もちろん業務アプリの主目的として、「業務を遂行する効率を上げる」という点も含まれているので単純に「いかにも業務アプリ」しているものが悪い、ということは言えません。業務上、またはそれを利用するユーザー層を考慮した結果、そのような思想のユーザーインターフェースが適することは多々あります。
ですが時代は進み今では多くの方法が世の中に溢れています。過去において考えた方法というのは、今改めて考えてみることで違う方法を採用できることは、ほぼ全ての分野にて言えることではないでしょうか。いつまでも同じ方法が適していると言い切れるのは、実際には極々僅かな領域に限ったことなのではないでしょうか。
実際に利用する人をイメージして設計を行うのは、今も昔も変わりありません。どのような場所で、どのような人が、どのような状態でアプリを利用するのか、そのような前提条件となるものを調査し、あるいは想像力をはたらかせ、業務を遂行するに適したユーザーインターフェースを設計する必要があります。想像力、という言葉が出てきたように作成する必要のあるインターフェースにおいて、常に十分な知識や経験がある中で設計できることの方が稀ですので、どうしても想像をはたらかせなければいけない場面がでてきてしまいます。そしてこれがインターフェースを考えることを、非常に難しくしている要素のひとつなのではないでしょうか。
最初に書いたとおり、今の世の中はUIやUXに対しての多くの情報が出ています。ですが、それでもまだ実際に自分たちが作成するアプリで用いることに適したインターフェースを作り出すことは非常に難易度が高いです。それは多くの情報で得た知識だけでは良いインターフェースにたどり着くには不足しており、状況や利用者といった物凄く幅が広く多種多様な個別の要素が絡んでしまうために、一筋縄ではいかないからなのだと考えます。
ではどうすれば適したインターフェースを考えられるようになるか、と言われると……。
これが正解、というものは存在していないと私は思っていますが、そこに近づくためには必要な事柄があると感じています。それは多くの物を見る必要がある、ということです。そしてその目にしたものや感じたものこそが、より正解に近づきやすくするための必要条件なのではないでしょうか。変に独自性を狙ったところで良いものができることは殆どありません。今まで見てきたものの良いところを、これはいいと感じたポイントを、数多く組み合わせていくことこそが私たちエンジニアがよりよいインターフェースを考えるためには必要なのではないでしょうか。
同じものを見てきていても、そこから新たに作り出すものはそれこそ人それぞれです。また似たような経験を積んできていたとしても、同様に出来上がるものには設計者の性格や個性が表れます。例え既存の物を組み合わせて作り上げたとしても、それはその人の考えが表れるものです。それが良い結果を生むかどうかは別として、まずは組み上げてみることが大切で、後はそれを何度も繰り返していくことがよりよいものを作り出すために必要な行為なのだと私は思います。
非常に独創的なものや予想もつかないものというのは、誰でも思いつけるものではありません。無理をしてその方向を突き詰めることは、果たして誰かにプラスになることがあるのでしょうか。変に今風にすることだけが良いこととは思えません。全てを捨てるのではなく、改良できるところを改良していくことも、今よりも更に良いものを作り出すためには必要なのだと思います。