自分なりの規矩を意識する
孔子センセイは仰られた。
「七十にして心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こ)えず」
矩とは指金(直角定規)。転じて正しい基準や規範のこと。七十歳になって自分のやりたいことをやっても、正しい基準を逸脱することはなくなった、くらいの意味。
また、千利休センセイも仰っている。
「規矩作法 守り尽くして破るとも離るるとても本を忘るな」
規とはコンパス、矩は指金。転じてこれも正しい基準や規範。これに作法という動作が加わって、規矩作法とは正しい基準にそった動作。所謂、型。日本の茶道や武道など芸道修行の在り方で、まずは型を徹底的に守って、次にその型を破り違う事をやってみて、そして離れる。離れるとは、自分なりの型を生み出すようなニュアンス。自分の型をつくっても、その本(質)である正しい基準は受け継がれなければならない。
自身が正しい基準や規範と融合しているので、心の欲する所に従えども、矩を踰えないという孔子センセイの境地に通じるものがあるのではないだろうか。
人は日々時々刻々と重大なことから些末なことまで様々な決断をしている。例えば、重要な経営判断、大きな買い物、お昼のランチメニューなど。そして、その決断が少なからず将来の状況を左右する。
少し極端ではあるが、今日悩んだ末に決断したランチの海鮮丼で食あたりを起こし、明日の重要なプレゼンに影響を及ぼすことだってありうる。
殆どのことは偶発によって左右されるだろうが、近々重要なイベントがあるのであれば、あえて生ものではないランチメニューを選択する、という決断もあったはずなのだ。
日常の些細なことでこんなことを言ってしまうと気疲れして仕方ないのだが、しかし仕事の現場では事の大小含めて一つ一つの判断が、ことのほか将来の状況の良し悪しに直結する確率が高いよう感じる。偶発的要素が全くないとは言わないが、特にトラブル関係については、その人がある時点でとった判断に起因することが多い。
野村カントクも仰っている。
「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」
言い換えるならば、
「正常に不思議の正常あり。トラブルに不思議のトラブルなし」
たまたま上手くいっていた、という不思議な正常はある。
周囲を見渡すと、何故その方法を選んだ?と、絶対にトラブルにつながるような行動をとっている人がいる。わざわざ地雷を選んで踏んで歩いているように。そして、たまたまトラブルにならなかったことはあるのが、やはり結構な割合でトラブルを引き起こす。しかもそのトラブルは友達を連れてやってくる。
傾向として、このようなタイプは能動的に行動することは少なく、殆どの場合において受動的な行動しかとらない。トラブルを起こしたくない、よりよい方向に進めたい、というのは意思の問題だから自分のとる行動を決める際にはそれなりの判断・決断が必要になる。そんな意思がないから、受動的な行動しかとらず、結果トラブルを引き起こす。
逆にいうと、トラブルをおこさない、よりよい方向に進めるためには、日々時々刻々と重大なことから些末なことまで様々な判断・決断が必要になるということ。これはとてもしんどいことだから、型を身につけなければならない。
最初は先輩や上司、メンター、ハイパフォーマ―などのやり方をまねることから始まるのかもしれない。それを実践で試してみて、また違うやり方をやってみて、結果が成功だったか、失敗だったかをフィードバックする。その経験を積み重ねることで、自分なりのやり方が確立する。
未来がよりましな状況になっている為の判断を日々時々刻々とやってゆく為には、その時にそのひとつひとつを考えていては身がもたない。だから、自分なりの判断基準をもって、条件反射的に判断できるようにする。
これが、心の欲する所に従えども矩を踰えず、という境地なのではないだろうか。
もしかすると、自分がここにコラムを書く意義は、その訓練なのかもしれない。