ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

イノウーの選択 (20) 届かない言葉

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 「♫あんぱんまん ひゃくろくじゅっさい どくしんむしょく~」
 娘が楽しそうに歌う謎の替え歌を聴きながら、ぼくは昨日の夕食の残りのカレーを口に運んだ。
 「なんで160 歳なんだ?」
 「こういう謎歌に」マリがナナミの口に、ちぎった食パンを押し込んだ。「意味を求めてもムダよ」
 「どこで生み出されるのかね、こういう歌は」
 「さあ」マリは時間を気にしながら、自分もカレーをかき込んだ。「どっかの巨大秘密組織が、秘密裏に作った暗号が流出したとか? あ、今日は早く出るんだっけ」
 「うん」ぼくは食べ終えた皿をキッチンに運んで、カレーの残滓を水で流した。「朝イチで人事から呼び出し」
 昨日の夕方、早めに帰宅したぼくが夕食の準備をしていると、Teams の通知がスマートフォンのドットを点滅させた。開いてみると、茅森課長からで、明日の朝一番で人事課に呼ばれているので会議室に行くこと、と連絡が入っていた。
 了解の返事を送った後、ぼくはあれこれと理由を想像してみたが、さっぱり見当がつかない。JINKYU 関係の改修はずっと続いているが、退社後に連絡してくるような緊急の案件はない。茅森課長に理由を訊いてみようとも思ったが、すでに退社したらしく、Teams のステータスは退席中になっていた。茅森課長は会社を出た後、Teams で連絡が取れたためしがない人だ。緊急連絡先として電話番号は知っているが、電話をかけるほどの用件とは思えなかった。どうせ、明日になればわかることだ、と考えたぼくは、目の前の重要案件である、ジャガイモとニンジンと鶏肉に注意を戻したのだった。大人向けの辛口と、子ども向けの甘口の二種類を作る必要があり、設計と実装には神経を使うのだ。
 「何だろうね。もう来期の異動は決まってるし」
 「見当もつかない」ぼくはリステリンで軽く口をゆすぎ、ランチボックスとサーモスを持ってリビングに戻った。「例の裏SNS で何か言ってない?」
 「昨日から見てるけど何もない」
 「そっか」ぼくはスマートフォンやノートPC をカバンに放り込んだ。「じゃ、行ってくる」
 「いってらっしゃい。お迎え、よろしく」
 「ぱぱ、ばいばい!」
 甲高い声に手を振って、ぼくは急ぎ足で玄関に向かった。背後では、また謎の替え歌が再開していた。
 電車の中でTeams を確認した。尾日向さんは一昨日から風邪で休んでいるが、今日も休みます、と連絡が入っていた。インフルエンザではないが、まだ体調が万全ではないらしい。お大事に、と返信しておいた。安川さんからはエースシステムに用事があり、午後の出社になる、という連絡。茅森課長からは今朝の予定を再確認する連絡。それぞれに了解のリアクションを済ませると、Amazon のアプリを開いて、たこ焼き器を検索した。近いうちに、木名瀬さん親子と一緒に、たこ焼きパーティをしよう、という話があるからだ。安価な電気式がいいのか、火力の強いカセットガス式がいいのか、と検討していると、あっという間に横浜駅についてしまった。
 9 時10分前にシステム開発室に入ると、珍しく、茅森課長が自席に座っていた。ぼくの顔を見た途端に立ち上がったところを見ると、待っていたようだ。
 「行くぞ」
 「え」ぼくは戸惑いながら訊いた。「ちょっとメールだけ確認していいですか?」
 「ダメだ。早く行くぞ。カバンも持ってこい」
 ぼくはPC の電源ボタンに伸ばした手を引っ込めると、ドアを押さえている茅森課長の横を通って廊下に出た。茅森課長は急ぎ足で会議室の方に歩き出し、ぼくも続いた。
 「今日は何の件ですか?」
 ぼくは訊いたが、得られたのはあっけない返事だけだった。
 「行けばわかる」
 会議室に入ったぼくの目に入ったのは予想通り戸室課長だった。予想通りでなかったのは、大石部長と山本室長が同席していることだ。大石部長はシステム開発室が属する経営管理部の、山本室長は監査室の、それぞれトップだ。監査室はうちの会社の法務関連業務が集中している部署だ。これが、開発業務の打ち合わせなどではない、と悟ったのはこのときだ。
 「そこに座って」茅森課長が椅子の一つを指した。
 ぼくは戸室課長に対面する席に座ったが、茅森課長はぼくの隣ではなく、戸室課長の横に座った。
 「では始めよう」戸室課長が口を開いた。「イノウー......いや、井上くん。今日は訊きたいことがあって来てもらった。山本さんに同席してもらっているのは、法的に正しい手順を踏むためだ」
 法的に。日常生活であまり口にすることのない言葉だ。
 「なぜ呼ばれたのかわかるか?」
 戸室課長の問いに、とっさに脳裏をよぎったのは、個人情報漏洩だった。JINKYU には、マーズ・エージェンシーの全社員の個人情報が格納されていて、ぼくは改修をしている立場上、全データにアクセスする権限を持っている。
 社内リソースの社外への持ち出しは、様々な対策が施されている。USB メモリなどのストレージを接続することは許可されていないとできないし、各種クラウドストレージへのアクセスも登録したサービス以外は不可だ。だが、多少の知識と意欲があれば、抜け道はある。セキュリティ関連の知識をたいして持っていないぼくでさえ、いくつか思いつく。やろうと思えば、それほどハードルは高くない。
 もちろん、ぼくが意図的にJINKYU のデータを流出させたことはない。意識の奥底にハイド氏が潜んでいるのでない限り。だが、何かの設定ミスやうっかりで、意図せずに流出させてしまった、という可能性はゼロとは言えない。
 「ありません」ぼくはとりあえず答えた。「なんで呼ばれたのか教えていただけますか?」
 ぼくはいろんなシチュエーションを想定して身構えたが、戸室課長の口から出たのは、およそ技術的な問題とは無関係な言葉だった。
 「君にはパワーハラスメントの疑いがかかっている」戸室課長はぼくを睨み付けた。「心当たりがあるんじゃないか?」
 しばらくの間、ぼくは呆気にとられて戸室課長の顔を眺めていた。
 「パ、パワハラですか?」
 「そうだ。心当たりは?」
 「な、ないです」ぼくはどもりながら答えた。「パワハラなんて......いったい誰になんですか」
 戸室課長は答える前に、山本室長の顔を見た。相手が頷くと、憎々しげな表情で言った。
 「一人しかいないだろうが」
 システム開発室のメンバーが4 人しかいない今、ぼくがパワハラを行える相手は限定される。一人はぼくの配偶者だし、もう一人はエースシステム社員だ。
 「尾日向さんのことですか」
 「あたりまえだ」
 「尾日向さんがそう言ったんですか?」
 「その質問には答えられませんよ」そう言ったのは山本室長だった。「通報者の保護に関わることですから」
 少なくとも山本室長は、公平な第三者的な立場で参加しているようだ。
 「ぼくが何をしたって言うんですか?」
 戸室課長は置いてあったタブレットを手に取った。
 「入社直後、君はネットを遮断した状態で、研修をやらせたそうだな」
 「ああ、はい。それが何か?」
 「なんでそんなことをしたんだね」
 「尾日向さんのスキルを正確に知るためです。AI に書かせたコードでは、尾日向さんがどこまで理解しているのかが判別できないので」
 「そのとき彼が、こんなこと意味があるのか、と質問したら、この程度のこともできないのか、と言ったそうだな」
 数ヶ月前の出来事を正確に記憶しているのは難しいが、当時の状況を可能な限り思い出した。確か、あのときは、尾日向さんの主張に対して、マリが応じていたんだった。それが歪んだ形で伝聞されたのだろうか。
 ここでマリの名前を出していいものかどうか悩んでいると、山本室長が助け船を出してくれた。
 「井上くんが直接言ったわけではなくても、尾日向さんにそういう意味の言葉を投げた、というのは事実ですか?」
 「正確な文言は思い出せませんが、事実です」
 「彼を侮辱する意図があったということか?」
 戸室課長が訊いた。ぼくは半ば呆れながら首を横に振った。
 「そんな意図はありません。こちらの想定と、実際のスキルに相違があったというだけのことです」
 「そもそも、ネットを遮断して研修をやらせる、ということ自体が不当な研修方法だったとは思わないのかね」
 「思いません」
 「君自身、同じ状況に置かれたら、何の意味があるのか、と怒りをぶつけるのでは?」
 「ちゃんと意図を説明してもらえば、そんなことにはなりません」ぼくはうんざりしながら答えた。「ぼくは、尾日向さんに意図を説明しました」
 戸室課長はまだ何か言いたそうだったが、山本室長が次に進め、と合図したらしい。この件について、それ以上の追及を断念したようだ。
 「先月の成果発表会のとき、質疑応答の時間で、君は質問したな」
 「しましたが」
 「ガイドラインの欠点をあげつらう内容だったな」
 なんでそうなる。そう言いたかったが、戸室課長の意図が読めなかったので、「それは捉え方次第だと思いますが」と答えるにとどめた。
 「あんな大勢の前で、欠点を指摘したのは、彼の成果にケチをつける意図があったのではないのか?」
 言いがかりにもほどがある。
 「そんなはずはないでしょう」
 「君は彼の上司だろうが」戸室課長は当たり前の事を言った。「賞賛してしかるべきところを、わざわざ逆のことを言ったわけだ。どうしてそんなことを言ったんだ?」
 「上司は部下を必ず褒めなければならないんですか?」
 「そんなことは言っていないだろうが」戸室課長は声を荒げた。「事実上、全社員の前で言う必要はなかったんじゃないのか、ということだ。部下を叱るときは、人前でやるな、というのは管理職の常識だろう。君だって管理職研修でやったはずだ」
 そもそも大竹社長が指名しなければ、あの場で発言するつもりはなかったのだが、そのことを指摘するのはやめておいた。
 「是非はともかくとして、それがどうしてパワハラになるんですか?」
 「君が大勢の前で自分の作ったシステムの欠点を指摘されたら、どう思うのか想像してみたらどうだ。傷つくとは思わないのか」
 「意味のある指摘なら、そんなことはありませんね」ぼくは肩をすくめた。「礼を言って、修正内容を考えるだけです」
 「ハラスメントはされたことよりされた人、という言葉を知らんのか。君がそう思うからといって、全員が同じ考えとは限らないだろうが。大勢の前で不備を指摘されるのは個人的な侮辱だと受け取る人もいるんだ」
 1 対4 で詰問されているこの状況だって、人によっては侮辱だと受け取るかもしれない。そんなことを言い出したら、キリがないではないか。
 「先週も同じようなことがあったらしいな」戸室課長は続けた。「AI に書かせたコーディングに、あれこれケチをつけたと聞いているが」
 思わず茅森課長の方を見た。あのとき、茅森課長は室内にいて、一部始終を見聞きしていた。
 「業務上の指摘ですよ」
 「そうかもしれんが」茅森課長は自信なさそうに言った。「私が聞いていた限りでは、尾日向さんが上げたコードでも、動作はするんだろう?」
 「それは、まあそうですが」ぼくは認めた。「ただ、動けばいいってもんでもないので。将来的にメンテナンスしやすいかどうかも重要です」
 「その、しやすいというのは」戸室課長が噛みついた。「結局、君がしやすい、というだけのことだろうが。尾日向さんにしてみれば、彼のコーディングの方がメンテナンスしやすいのかもしれんじゃないか」
 「そうかもしれませんが、システム開発室でのルールというものもあるので」
 「そのルールとやらを、彼に説明したのかね」
 「説明ですか......」
 システム開発室には、厳密なコーディング規則というものはない。規則を決めてしまうと、それに固執して、より効率的な手法を研究していく意欲が失われていくからだ。ただ、そうは言っても、変数の意味を無視して、a1、a2 などと命名されても困るので、最低限こうしてほしい、という希望は折に触れて尾日向さんと安川さんには伝えてある。変数は完全英語表記でcount → cnt のような文字数を減らすためだけの省略はしない、といったことだ。
 「常識的なコーディングについては説明してますが」
 「そら、それだよ」戸室課長は勝ち誇ったように声を上げた。「常識的って言うが、それは結局、君の中の常識なんじゃないのか?」
 「それは......」
 「尾日向さんは生成AI でコーディングしたんだろう。これから、その方法がどんどん増えていく。ガイドラインもできたことだしな。君のいう常識は、AI 時代じゃ逆に非常識になるかもしれない。そういうことを考えてるのか? 考えてないだろう。君は単に優秀な彼に嫉妬して、自分の古いやり方を強引に押しつけているだけだ。違うか?」
 「戸室さん、それぐらいで」山本室長が穏やかな口調で制した。「ここはコーディング論を論じる場ではないですよ」
 「失礼しました」戸室課長は、ぼくにではなく、山本室長に謝罪した。「尾日向さんと一緒に生成AI ガイドライン作成に携わった身として、言わずにはいられなかったので」
 戸室課長としては、自分の功績もアピールしたかったのかもしれないが、山本室長は興味なさそうに頷いただけで、ぼくの方を見た。
 「さて、井上さん。今日は事実確認のために来てもらったので、結論を出すのは、つまり、実際にハラスメントがあったのかなかったのか、を決定するのは、他にもいろいろ調査を行ってから、ということになります」
 ぼくは安堵のため息をつきそうになったが、山本室長の話はまだ終わっていなかった。
 「ただし、社内規程により、ハラスメントの訴えがあった場合、調査が終わるまで、対象となる社員同士を接触させないようにすることが求められます。この後、ただちに社内に調査委員会を設置し、各種調査を行うことになりますが、結果が出るのに少し時間がかかるでしょう」
 山本室長は大石部長の方を見た。
 「とりあえずの対応として、井上さんを5 日間の勤務停止とするよう勧告します。これはあくまでも被害者との接触を避けるための措置であり、処罰ではありません。確認したところ、井上さんは未消化の有給休暇が大量に残っているようなので、それを消化してもらうという形にしてはどうでしょう」
 大石部長は寸時も躊躇うことなく頷いた。
 「勧告を受け入れます」
 その言葉を聞いて、ぼくは、この結論が最初から決まっていたことを悟った。
 「井上さんの自宅には、リモート勤務用のPC がありますね」 山本室長は茅森課長に確認した。「では、ただちにSIM の無効化処置を行ってください。また、井上さんの奥さんは、営業四課所属ではありますが、システム開発室の業務も日常的に行っていると聞いています。井上さんの有休休暇期間、システム開発室への出入りを禁止することも合わせて勧告します」
 「わかりました」茅森課長もすぐに頷いた。「ID カードのアクセス権限を変更します」
 「では、これで終わります」山本室長は宣言した。「井上さん、今日はこのまま帰宅してください」
 「ちょっと待ってください」ぼくは青くなりながら言った。「今やってる業務の方はどうなるんですか」
 「心配いらんよ」答えたのは戸室課長だった。「尾日向さんに引き継ぐ。案外、君がやるよりレベルが高いものができるかもしれんぞ」
 ぼくは自分の上司を見たが、茅森課長は顔を背けて頷いただけだった。それ以上、抗弁する気力を失って、ぼくは会議室を後にした。

 (続)

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