ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

イノウーの選択 (24) 共有されない喜び

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 「私ですか?」尾日向さんは戸室課長に訊いた。「私、ハウスオペレーションに異動になる、ということでしょうか?」
 「そうなんだ」戸室課長は満面の笑みを浮かべた。「最初は主任だが、十分な実績を残せば、来期は課長代理への昇進もありうる。何しろ、うちにとっても重要な業務だからな」
 「課長代理ですか」尾日向さんはぼくの方をちらりと見た。「井上さんと同等になる、ということですね」
 「そういうことだ。将来はソリューション推進部の主力メンバーとして、どんどん外に出てもらう予定なんだ。エースグループ様の各関連企業とうちとの架け橋としてな。なんと言っても......」
 「あの、すいません」尾日向さんは遮った。「その話、もう決定事項なんでしょうか? 私、何の内示も受けていないのですが」
 「課長代理への昇進は、通常通りの評価審査があるが、なに、心配はいらんよ。まずはハウスオペレーション課で実績を積めば、来期には自動的に......」
 「いえ、そういうことではないんです」
 またしても尾日向さんに遮られ、戸室課長は言葉を切った。そこではじめて、自身が感じている歓喜に、当の尾日向さんが全く同調していないことに気付いたようだ。
 「なんだ、どうした?」
 「まあ、ちょっと待ちなさい」夏目さんが割り込んだ。「まだ確定もしていないのに、この場で、エースホーム様がいらっしゃる場で話す話ではないでしょう」
 「はあ、そうですね」
 「申し訳ございません」夏目さんはエースホーム側に向けて頭を下げた。「こちらの体制につきましては、箱はこの通りで決定なのですが、中の人員につきましては、また改めてご連絡さしあげます」
 「わかりました」桃園さんは頷いた。「お待ちしています」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 その後の打ち合わせは、いくつかの調整事項の確認で終わった。夏目さんは、ぼくたちに残っているようにと言い置いて、マーケティング課の二人を引き連れてエースホームの方々をエレベータホールまで送りに行った。
 すぐに一人で戻ってきた夏目さんは、立ったままで戸室課長にかみついた。
 「戸室さん、何を考えているんですか」怒気を隠そうともしていない口調だ。「まだ本人に話もしていないのに、社外の人にべらべらと喋るなんて。あなた、人事課の課長でしょう」
 「エースホームさんが来期からの体制について不安視されていたようなので......」
 「だからって......」
 「そんなに悪いことですかね」戸室さんは不服そうに反論した。「あちらさんだって、早く体制がわかった方が安心するってもんでしょう」
 「あの」尾日向さんが手を挙げた。「よろしいですか?」
 「何?」夏目さんが椅子に腰を下ろしながら顔を向けた。「さっき戸室さんが言ったのは、まだ決定事項ってわけじゃないから......」
 「そのことですが、私の希望をお話ししてもよろしいでしょうか」
 夏目さんと戸室課長は、それぞれの表情で尾日向さんを見つめた。戸室課長が頷いた。
 「事が後先になったが、そういう話が進んでいるのは事実だ。明日にでも、君に話をする予定だったんだ。異論はないかね?」
 それは修辞疑問だったのだろうが、尾日向さんの返事は予想外のものだった。
 「まだ決定でないのであれば、お断りしたいのですが」
 「はあ?」戸室課長は思わず立ち上がった。「断る?」
 「はい」
 「ど、どうして、こ、こんないい話を」噛みまくりながら、戸室課長は尾日向さんをまじまじと見つめた。「君は先のないシステム開発室なんぞで、セコセコとプログラミングなんかやってる人材じゃない。もっと表舞台で活躍すべきだ。もし、入社年次のことを気にしているんなら、そんなものは......」
 「何か誤解なさっているようですが」尾日向さんはゆっくり首を横に振った。「私が社内システムの開発業務よりも、その、表舞台ですか? そちらを望んでいるように見えたのでしょうか。もし、私がそう誤解されるような言動や行動を見せたのであれば、申し訳ありません」
 「なんだと? つまり君は、現状維持を希望する、というのかね。たかが社内システムの開発業務だぞ? 単なる便利屋にすぎんのだぞ? そんなところがいいと言うのか?」
 さんざんな言われようだ。ぼくが腹を立てなかったと言えばウソになるが、それよりも、戸室課長と尾日向さんのやりとりの方が気になっていた。
 「私がこの会社の採用募集に応募したのは、まさに、その社内システムの開発業務が募集要項にあったからです。私は開発がやりたくて、この会社に入社しました。それなのに営業的なことをやる、というのはちょっと違う気がするんですが」
 手塩にかけて育ててきて、東大現役合格間違いなし、と太鼓判を押された一人息子に、急に動画クリエイターになる、と宣言された。戸室課長の顔に浮かんでいるのは、そんな驚愕の表情だった。
 「開発がやりたくて、だと?」絞り出すような声が戸室課長の口から漏れた。「開発? うちじゃ下流工程の部署だ。社内システムをいろいろ触っちゃいるが、しょせんは替えの効く部署だ。何かあったら、真っ先に廃止の候補になるような部署だ。そんなところの何がいいんだ?」
 ぼくとしてはJINKYU の改修をはじめとして、それなりに会社に貢献し、成果も出してきたつもりだった。だが、マーズ・エージェンシーはIT 企業ではあるが、実装を行う会社ではなく、それを下請けに出す会社だ。全員、とはいわないが、大部分の社員の意識は戸室さんに近いのかもしれない。
 「何、と言われても困りますが」
 感情の赴くままに吐き出している戸室課長の言葉に比べて、尾日向さんは冷静そのものだった。少し考えるような仕草をしたが、すぐに答えた。
 「たぶん、私は何かを作る、ということが好きなんだと思います。もちろん、広い意味では、ソリューションやマーケティングでも、何かを作っていると言えるのかもしれません。でも、私は自分が直接携わって、目の前で新しいものが生まれていくことの方に惹かれるんです、きっと」
 ぼくはこれまでの尾日向さんが仕事に向き合う姿を思い起こし、その自己分析は正しい、と思った。
 「実は、前職でも、上司から同じような打診をされたことがあります」
 「営業分野ですか?」ぼくは思わず訊いた。
 「はい」尾日向さんは親指を自分の顔に向けた。「何しろ、このツラですからね。外受けがいいとか思われたんでしょう」
 ぼくと夏目さんは笑ったが、戸室課長は苦い顔のままだった。
 「そういう仕事ができない、というわけではないんです」尾日向さんは、どこか寂しそうな表情で続けた。「人と話すのは苦ではないし、初対面の相手とでも打ち解ける自信はあります。マネージャとして部下の管理も手を抜く気はありません。ただ、なんというか、そこにエネルギーを全振りする気にはなれないんです」
 「信じられん」戸室さんは吐き捨てた。「キャリアパスとしてプログラマを選ぶ、というのか。うちの会社じゃ、そんなもの路線バスの運転手みたいなものだぞ。決まったコースを行ったり来たり。そんな未来のない将来を選ぶ奴がいるとはな。それしかできん奴は、それでもいいだろうさ。そういう仕事をする奴だっていなきゃ回っていかないからな。だけどな、君はそういう人種じゃないだろうが。今、自分で言っていただろう。管理職だってできると。君はもっと上を目指すべきだと会社として判断したんだ。異例の主任昇進だって、君の実力と将来を鑑みた結果だ。それがわからんか」
 「そうでしょうか」あくまでも冷静さを崩さず、尾日向さんはゆっくりと答えた。「私の考えは少し違うんです」
 「どう違うと言うんだ」
 「管理は、やりたい人にやってもらえばいい、というのが私の考えです。得手不得手はあるでしょうが、普通に年次を重ねた会社員なら、自分の経験を土台にしてマネージャの仕事をすることは可能だと思うんです」
 戸室さんが何か言おうとしたが、尾日向さんはかぶせるように続けた。
 「でもプログラミングのような専門職は、命令されたからといってやれるようなものではないんじゃないでしょうか。しっかりと勉強して、実務経験を積まなければ通用しません。そうですよね、井上さん」
 急に意見を求められて驚いたが、ぼくは頷いた。
 「尾日向さんの言うとおりだと思いますね」
 「たかがプログラマだろう」戸室課長は鼻を鳴らした。「言われた通りのことをやってるだけだ」
 「いまどきのWeb アプリケーションは、言語だけ知ってればできる、というようなものじゃないですよ。HTTP やフレームワーク、セキュリティの知識も必要だし。JINKYU のような既存システムの改修には業務知識も必要になってきます。経験もない人間が、明日からプログラマやれ、と言われてやれるような職種ではないんです」
 「昔の話だろう、それは。今はAI がある。コーディングはAI に任せてエンジニアは指示だけしてればいい。そんな時代になりつつある、いや、もうなってるんじゃないのか」
 「それはご自分の経験からのお話ですか?」
 ぼくの皮肉に戸室課長は顔を真っ赤にして黙り込んだ。以前、「やらかした」件は、まだ戸室課長の中では、不快な良性腫瘍のように居座ったままなのだろう。
 「もちろん」尾日向さんが言った。「正式な辞令、ということであれば従います。ですが、まだ調整段階ということでしたので、私の希望を述べさせてもらいました」
 しばらくの間、戸室課長はうつむいたまま言葉を発しなかった。尾日向さんを新部署の実質的なリーダーに据えて表舞台に立たせ、自分は彼を指揮する管理者として君臨する。尾日向さんへのアクセスは、全てに自分を経由しなければならない。尾日向さんがあげる功績の何割かは自分あっての結果だと社内に認識させる。そんな院政にも似た体制を確立する。それが今、尾日向さん本人によって打ち砕かれたのだ。
 ぼくは諦念に近い怒りと、それ以上の哀れみで戸室課長を見た。以前、コロナ禍の真っ最中、ワクチンの職域接種の対象を決めるための会議にリモートで出席したときのことを思い出した。ぼくの提案に対して出席者から異論が噴出する中、戸室課長はぼくのことを誠実な人間だ、と擁護してくれた。そこにあったのが、聖者のような無私の心だけではなかったのかもしれないが、それでも嬉しかったことは確かだ。
 今の戸室課長は、自分の定年までの居場所を安定的に確保する、そのことだけを第一原理にして行動しているように見える。これまで、サードアイ時代も含めて、プログラマを、自分の利益のためだけに利用しようとする人間を多く見てきた。どうせお前たちにはコミュニケーション能力が欠けているんだから、俺が有効に活用してやる。そんな見当違いな恩着せがましい言葉を平然と口にする人さえいたのだ。戸室課長はIT システム課にもいたのだから、そうではない、と考えていたのだが、どうやら誤解だったようだ。
 やがて戸室課長は顔を上げて、尾日向さんを睨んだ。
 「君には人の恩に報いようという最低限の礼儀さえないんだな。AI ガイドライン作成で君を抜擢してやったというのに。他のメンバーを無能な奴ばかりで固めたのも、君を輝かせるためだったってこともわかってないんだろうな」
 伊牟田さんが入っていたのはそういう理由だったのか、とぼくは口に出したら失礼になることを思った。そういえば他のメンバーも、一線級の人材とはいえない人ばかりだった。
 戸室課長の言葉を聞いた尾日向さんは、声を上げた笑った。
 「私が頼んだことではないですね」
 「君は......」
 「それに」尾日向さんは、もはや戸室課長を遮ることを楽しんでいるようだった。「私がそれを知ったら感謝するとでも思われたのでしょうか? むしろ、私に対して失礼なことをしている、とはお考えにならなかったんでしょうか?」
 言葉に詰まった戸室課長に、尾日向さんは容赦なく追い打ちをかけた。
 「思わなかったんでしょうね。なにしろ、私の実力を必要以上に目立たせるためにいろいろやってくれたようですから。安川さんのPC の件とか」
 戸室課長の顔色が変わった。
 夏目さんには何のことだかわからなかったようだが、ぼくはすぐにわかった。尾日向さんと安川さんがシステム開発室に配属されたときに行った開発環境構築の件だ。あのとき、なぜか、安川さんのPC だけ不具合が連発した。よくある、といえばよくある原因だったので、単純なキッティング作業のミスだと思い込んでいた。確かに意図的に設定することは可能だが、そんなことをしても誰も得をしないから、これまで疑いもしなかった。刑事や探偵に転職するのは無理だ。
 「それ、本当ですか」ぼくは戸室課長に訊いた。「安川さんの環境だけ仕込んだんですか?」
 「何の話?」
 夏目さんが怪訝そうな顔で訊いた。ぼくは研修初日にあった出来事を簡単に説明した。戸室課長はIT システム課にいたから、その気になれば自分でもやれただろうし、何らかの貸しがある社員にやらせることだってできただろう。
 「戸室さん」説明を聞いた夏目さんは戸室課長に向き直った「事実なんですか?」
 「知りませんよ、そんなこと」
 戸室さんは否定したが、尾日向さんは容赦しなかった。
 「私、不思議に思って、後でキッティングの担当者に確認したんですよ。戸室課長には固く口止めされていたようですけど」
 「よく聞き出せましたね」
 ぼくが言うと、尾日向さんはにっこり笑った。
 「担当の方、女性だったんで」
 「ああ」ぼくは苦笑した。「そういうこと」
 しばらくの間、誰も口を開こうとしなかった。みな、それぞれの思惑を整理しているようだった。ぼく自身、この短い時間で詰め込まれた新情報を、どう咀嚼すべきか戸惑っている。
 この空気を打ち破ったのは夏目さんだった。
 「状況は理解しました」夏目さんは立ち上がった。「この件は一度、私に預からせてください。しかるべき結論が出るまで、今、ここで話したことは内密にすること。心配ご無用。うやむやにするなんてことはしない。一両日中に何らかの結論を出すことを約束します。尾日向さん、イノウー、戸室さん、いいですか?」
 ぼくと尾日向さんはすぐに頷いたが、戸室課長は最後に名前を呼ばれたことが気に入らなかったかのように顔をそむけた。夏目さんが重ねて確認すると、渋々のように首肯したが。
 「では、これで」
 会議室を出ようとする夏目さんに、ぼくは声をかけた。
 「ここって、まだ使えますか?」
 「え?」夏目さんは時計を見た。「まだ大丈夫だけど?」
 「じゃ、もう少し使わせてください」ぼくは尾日向さんに顔を向けた。「ちょっと残ってもらえますか?」
 尾日向さんは頷いて、浮かせかけた腰を下ろした。夏目さんは興味深そうな表情でぼくたちを見たが、多忙な自分を思い出したのか、足早に出て行った。暗い表情のまま戸室課長もその後に続いた。嫌がらせだったのか、それどころではなかったのか、ドアは開けたままだった。ぼくは立ち上がってドアを閉めると、尾日向さんと向かい合う席に座った。
 「何を仰りたいのかはだいたいわかります」ぼくが口を開く前に、尾日向さんの方から切り出した。「私の、社内の人間関係のウワサについてですよね」

 (続)

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