ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

イノウーの選択 (21) 絶たれない通信

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 激怒した妻がショットガンをひっつかんで玄関を飛び出そうとするのを、間一髪引き留めることができた。海外ドラマの世界線なら、きっとそんなシチュエーションだったはずだ。
 現実ではマリが手にしていたのは、スマートフォンと電動アシスト自転車のキーだ。ぼくが自宅に戻ってきたのと、ナナミを幼稚園に送ってきたマリが戻ってきたのは、ほぼ同時刻だった。体調不良かと心配して事情を訊いたマリの表情が、不審と驚きを経て、純粋な怒りに転ずるまで3 分も要しなかった。
 いったんリビングに戻り、インスタントコーヒーを一口飲むと、マリは冷静さを取り戻したが、怒りまでが収まったわけではなかった。
 「あのクソじじい」ナナミには聞かせられない言葉を、マリは吐き捨てた。「何をとち狂って。あなたがパワハラ? ふざけやがって。あのじじいのやってることこそパワハラだっての」
 「ちゃんと調べてもらえば、パワハラなんかじゃないってことは、すぐに判明すると思うよ」
 この件で唯一希望が持てるのは、監査室の山本室長が一方的に戸室課長の話を鵜呑みにしていないだろう、という点だ。山本室長はマーズ・エージェンシーの社員ではあるが、確か、メインバンクからの出向で社内政治とは無関係だからだ。
 「なんでそう冷静なの?」
 「そりゃ会社から自宅までの移動時間があったからね」ぼくは説明した。「それより、君はそろそろ出勤の時間だろ」
 「会社なんか行ってられますか、こんな状況で」マリはスマートフォンを手にしながら言った。「今日は風邪を引くことにする。ちょうどインフルも流行ってることだし」
 マリは病欠の連絡をしたようだが、その顔が再び険しくなった。
 「あたしの方にも、システム戦略室への出入り不可が来てた」
 ぼくはリモートワーク用のノートPC を開いてみた。Windows へのログインはできたが、閉域SIM による会社のネットワークへの接続はできなくなっている。茅森課長が指示したのだろう。
 「こういうときだけ仕事が早いな」
 ぼくは役立たずのPC をシャットダウンすると、コーヒーをカップに注いだ。
 「君の方のJINKYU 改修って、どんな状況だっけ」
 「派遣社員の勤怠データ送信の途中」マリはスマートフォンをいじりながら答えた。「派遣会社の登録画面は尾日向さんに任せてあるけど......」
 尾日向さんも休んでいる。安川さんも午後からの出社と言っていたので、システム開発室は無人のはずだ。
 「5 日間作業が中断しても問題ない?」
 「現状では手動でメール送信してる機能の自動化だから、人事の業務が止まるってことはないけど。むしろボスの方がまずいんじゃない? 例のエースホームの」
 ぼくは頷いた。Housync は総合、受入テストの真っ最中で、エースホームの浜口さん、業務を引き継ぐことになるマーケティング課と、日に何度もやりとりが発生している状況だ。今日だって、エースホームとマーズ・エージェンシー間の承認データの送受信を、午前中かけて行う予定だった。この案件には安川さんも携わっているが、個別の作業をアサインしているだけで、全体的なシステム構成までは把握していない。戸室課長は、尾日向さんに引き継ぐ、と得意そうだったが、言うほど簡単な業務ではないはずだ。
 「心配だけど、今は何もできないからな。どうかした?」
 そう訊いたのは、スマートフォンの画面を睨むマリの表情が険悪なままだったからだ。
 「今、裏SNS の方を見てたんだけど」マリは低い声で言った。「イノウーが尾日向さんにパワハラして処分された、ってもう話題になってる」
 「......ちょっと見せて」
 「見ない方がいい。事実誤認に憶測に尾ひれ背びれがついて、あたしのだんな様は、パワハラ野郎のセクハラ野郎ってことになってるから」
 それだけ聞けば十分だった。マリもわざわざ不快な感情を過剰積載する必要もないと気付いたのか、スマートフォンをロックして放り出した。
 「あたしが何か言ってもたぶんムダだよね」
 ぼくは黙って頷いた。家族の発言など、火に燃焼促進剤を投下するようなものだ。
 「ジタバタしても仕方がないか」マリは開き直ったように笑った。「まあ、心配しなくても大丈夫。あたしのボスがそんなことする人じゃないってことは、みんな知ってるだろうから。どうせ、こんなの一時的に騒いでるだけだよ」
 「だといいんだけどね」
 「もっと自分を信じてよ、ボス」マリの手がぼくの背中を叩いた。「社内の信頼をそれなりに得るぐらいの成果は出してきたでしょ、システム開発室はさ」
 「そうなんだろうけど」
 「ま、ここは思いがけず5 日間の冬休みをもらったと思ってのんびりしようよ。どうする? 映画でも行く?」
 そんな気分じゃない、と言うと、マリも面白くなさそうに、そうだね、と答えて立ち上がった。
 「しゃあない。アップルパイで作るかね」
 マリは次のクリスマスの勝負に向けて、菓子作りに磨きをかけている。ぼくは賛成した。少なくとも建設的ではある。
 マリが鼻歌――例のアンパンマン160 歳だ――を歌いながらキッチンに向かうと、ぼくは自分のスマートフォンを開いた。Teams とメールのアカウントはそのままだった。受信ボックスに届いているのは、技術系のメルマガや全社員宛の連絡事項などで、ぼくの出勤停止の件については何もない。ある意味、これは当然のことだ。調査が完了するまで、ぼくのパワハラはまだ疑惑段階で、裏SNS で騒がれているように、処分が決まったわけではないからだ。
 Teams の方は完全に沈黙していた。いつもなら、常にチャットの通知件数が赤く光っている状態なのに、今日は誰からも連絡がない。おそらく、部課長レベルにはぼくの出勤停止情報が共有されていて、そこから一般社員に対して「イノウーに連絡するのを控えろ」などと命令が下りているのだ。Teams のチャット内容は、しかるべき権限を持つ管理者なら自由に参照できるから、あえて危険を冒してまで連絡しようとする社員はいないのだろう。
 まあ、そうだよな、とTeams を閉じて、スマートフォンをロックした。その直後、ブブッとバイブが作動したので、もう一度持ち上げる。顔認証でロックを解除すると、グリーンのドットが光っていた。Gmail の通知だ。アプリを開くと、一通のメールが受信ボックスに届いている。

 [inowooo-dev/houseprog] Update README.md (PR #1)

 「プルリク?」
 GitHub のプルリクだ。このリポジトリは、去年、HOUSEPROG の紙の仕様書をシノッチと一緒に解析していたときに作ったものだ。エースホームのシステム担当者との間で、ソースコードベースのやりとりをすることもあるかもしれない、と考えたのだが、結局、使われることはなかった。その後、特に削除する理由もないので放置していた。
 メールの本文には、README.md を変更した件が記述されている。変更したのは、S......つまりシノッチだ。
 急いでリンクを開くと、空だったREADME.md に文章が追加されていた。

 パワハラの件、聞きました。出勤停止の間はメールでもTeams でも連絡を取ってはいけない、と言われているので、この方法をとりました。社内ではあれこれ言われているようですが、イノウーさんを知る人は、誰もそんなことを信じていないので安心してください。
 さきほどエースホームの浜口さんから、イノウーさんに電話をしたが、誰も出なかったので、どうなっているのか状況が知りたい、と私に連絡がありました。とりあえず、体調不良ということにしてあります。エースホームの方には今回の件は伝わっていない模様。
 私の個人メールアドレスを書いておきます。何か知りたいことがあれば、こっちに連絡ください。返信は少し遅れるかもしれませんが。

 最後にGmail のアドレスが書いてあった。
 どれぐらいスマートフォンを凝視していたのか、ぼくはマリの呼ぶ声で我に返った。
 「ボス、どうかした?」
 ぼくは黙ってスマートフォンの画面を見せた。マリは何度かシノッチからのメッセージを読み返してから、弾けるような笑顔を見せた。
 「ほら、あたしの言ったとおりでしょ」マリは自分のことのように誇らしげだった。「見てる人はちゃんと見てるんだから」
 ぼくは頷くことしかできなかった。視界がにじんでいる。慌てて目をこすって水分を拭った。マリはニヤニヤしていたが、不思議そうに訊いた。
 「でも、どうしてこんな面倒なことをしたのかな」
 ぼくのGitHub のアカウントは、会社のメールアドレスではなく、個人のメールアドレスに紐付いている。元々、持っていたアカウントだ。HOUSEPROG のときに、会社のメールアドレスのアカウントを作成すべきだったのかもしれないが、二重にアカウントを管理するのも面倒だし、混乱しそうなので流用した。一方、シノッチのアカウントは会社のメールアドレスだ。
 「つまり、これなら、シノッチのメールアカウントに送信履歴を残さなくてすむ。GitHub へのアクセス履歴は残るだろうけど、そんなの誰がいちいちチェックするか、って話だよ」
 「ああ、そういうこと。だからシノッチのプライベートなアドレスを書いたんだ。そのまま返信しちゃうと、シノッチのメールに受信履歴が残るから」
 ぼくは早速、Gmail を開いてメールを送信した。

 井上です。メッセージありがとう。
 ぼくの件で、何か動きがあったら、このメールに返信してもらえると助かります。

 返信は20 分後にあった。

 了解です。戸室さんと茅森さんは、何かの打ち合わせでずっと姿が見えないです。社内は表向きはいつもの通りです。うちの課の女子がこっそり教えてくれたところによると、裏SNS では相当盛り上がってるみたいだけどね。

 ぼくはすぐに返信した。

 ありがとう。安川さんが午後に出社したら、このアドレスを渡して、連絡はこっちにくれるように伝えてもらえますか。

 返信はまた20 分後だった。

 伝えます。
 イノウーさん、普段から仕事しすぎなんだから、特別休暇でももらったと思って、たまにはのんびりしてください。

 思わず笑い声を上げてしまった。短く礼を送信してから、ぼくはスマートフォンを置いて伸びをした。
 「ウォーキングがてらイオンまで行ってくる」キッチンで奮闘しているマリに声をかけた。「お昼はバーガーキングでいい?」
 「それだとウォーキングで減らしたカロリー以上を補給することにならない? まあ、たまにはいいか。あたし、アボカドのワッパー。あ、あと、卵と、豚こまか何か買ってきてもらえる?」
 「わかった」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 安川さんからメールが届いたのは、ぼくとマリがバーガーとポテトでお腹を満たした後だった。送信元はエースシステムのドメインだ。

 篠崎さんからこのアドレスを手書きでもらいました。
 先ほど茅森課長から、Housync のメイン担当は尾日向さんに変更するから、ソースや資料の場所を整理しておくように、と言われました。
 また尾日向さんからも連絡があり、明日には出社できるとのことです。
 私は当面、尾日向さんの指示でHousync をテストや改修を進めるように、とのことです。エースホームには、茅森課長から担当者変更について連絡を入れたようですが、私の方からも事情を伏せて、これは一時的なものだと伝えておきます。
 今日の16 時から、今回の件について、調査委員会からヒアリングが予定されています。私は正確に事実だけを述べるつもりです。
 仕掛かり中のタスクについて、いくつか質問があるので、後ほどまとめて送ります。返信はこちらのアドレスにお願いします。

 ぼくは仕事仲間には恵まれているようだ。メール画面を見せると、マリも同意見だった。
 「ちょっと手際が悪いところもあるし、妙な完璧主義はあるけど、信頼はできる人だと思うよ」そう言った後、マリは付け加えた。「エースシステムの人にしては」
 「そういう言い方はよくないよ」
 「これが正直な気持ちだから」マリはテーブルの上に散らばったワックスペーパーをガサガサと片付けながら言った。「ところで、肝心の尾日向さんには、どういうアクションを取るつもり?」
 かなうなら、直接対面して話をしたいところだが、それは許されないだろう。
 「そもそもなんだけど」マリは手を止めて考えながら言った。「今回の、その告発って、本当に尾日向さんが声を上げた結果なのかな」
 そりゃそうだろ、と言いかけて、ぼくも考え込んだ。そう言われてみれば、今朝のヒアリングの場で、主語が尾日向さんの話は全くなかったような気がする。
 「だって尾日向さん、ずっと風邪で休んでたでしょ? なのに、どうしてパワハラの告発ができるの?」
 「休む前にやったのかも」
 「だとしたら日数が経ちすぎてない? セクハラとかパワハラって、すぐに調査が動くものでしょ」
 エースシステムと事業統合してから、良い方向に変わった規定の一つだ。それまで明確な規定がなかったハラスメント対策について、社員規定に明文化される形で初期対応の手順が定義された。ハラスメント対策に慎重なエースシステムのそれに準拠しているはずだ。
 「そういえば」ぼくは宙に視線を漂わせた。「正確な文言までは憶えてないけど、訴えがあったら、即日対応が基本だったような」
 「あたしはまだ会社の共有にアクセスできるから、後で調べてみる。でも、そういうこと」
 「つまり......」ぼくは混乱しながら言った。「尾日向さんが休んでいる間に、誰かが告発した?」
 「可能性だけど」
 「誰かって誰......いや」ぼくは自答した。「戸室課長か茅森課長のどっちかか、両方かだよな」
 でも何のために?
 その疑問を追求する前に、マリのスマートフォンが振動した。マリは画面を覗き込むと、すぐに首を傾げた。
 「どうした?」
 「人事の浅海さんからLINE」マリは画面を注視している。「なんか話があるから、夕方、会社の外で会えないかって」
 「君の仮病、バレバレじゃん」ぼくは笑った。「でも、浅海さんとLINE 交換してるの?」
 「たまに人事・総務に混ざって女子会ランチ行くから」マリは忙しく返信しながら答えた。「Teams じゃできない情報交換もするしね......お」
 「なに?」
 「イノウーさんもよかったら一緒にだって。どうする?」

 (続)

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