地方エンジニアが感じる地方・中小企業での悩み

人が人を育てられるか

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 人が誰かを育てることはできない、と最近思えるようになりました。

 これを書いているのは8月の終わりごろでして、社内講習会としては再来週にて7回目に辿りつくところです。ネタ的には基本編というような形で、経験の浅い社員を対象にしていたのも手伝ってか、ある程度以上のキャリアを持つ方はなかなかに悩ましい参加率となりました(0回というのも多数)。メインターゲットとしている人達は、業務時間中というのと一応役職についている身分からの話というのもあってか、都合がつく限りは参加してもらっていますので状態としてそれほど悪くはないのですが。

 そんなとき、Twitterでつぶやきを眺めていると、編集者の方から「心が折れそうな方は是非!」というコメント付きで次の記事(社内勉強会と「勉強会エコシステム」のススメ - @IT自分戦略研究所)が紹介されていたので、

「これはビンゴだなぁ」

と即座に読ませてもらいました。

 記事中では、わたしよりもさらに厳しく打ちのめされたことなども書かれており、非常に参考になる点が多かったと思います。「メタ勉強会」という方法などは、わたしも近いうちに画策してみようと思わせるところです。

 ただ残念ながら、今のわたしが勤める会社に「みんなで作る」という風潮はまだありません。それ以前の状態、自主的に動こうとする「環境作り」といいますか、まだ種蒔きな状態なのです。もっといえば、幹事的な人というのも周りにはいません。

 今はまだわたしが1人で(ある意味独断と偏見で)社内勉強会を行っている状態です。話したいことをしゃべる、以前のエントリでも書きました。わたしが「まだ」そう思えているので続けています。

 そのような状況ですので、参加者からのリアクションやレスポンスというのは、かなり悪いといわざるを得ません。こちらから「どういった部分をやった方がいい?」とか「このあたりもう少し掘り進めようか?」と投げかけてみても、反応が返ってくることはほとんどありません(過去に1~2個あった程度なのです)。

 投げかける内容が悪いのか、投げかけ方が悪いのか。わたしの中では「参加者」を理由として考えたくないところがありますので、手を変え品を変え、もう少しやり方は変えていく必要があるなぁ、と思っています。

 また勉強会とは異なりますが、人に物を教える場として、新人教育もあるかと思います。わたしも何度か教師役に抜擢され、その時の新入社員相手に教育を行っていました。今勤めている企業が少人数で、なおかつ.NETやデータベースなどをまとめて扱える人間が不足しているというのが主だった理由で、当時は中途入社2年目あたりだというのに、その他プロパーな人材ではなく、わたしが教える状態というのが長く続いていました……というか、今でも続いています。それ自体はどうこう言うつもりもありませんが、社内ではどちらかと言わなくても改革側なわたしを採用するあたり、色々なところに波風立ちまくりです。

 話はそれましたが、このように「誰かに対してしゃべる」ことを続けていると、ふと思うことがあります。

 それは、自分が誰かに対してしゃべる時は「育てよう」という気持ちを少ないながらにしても持っていますが、実際に自分が何かを教えて育つことはあるのだろうか? という疑問です。

 いくら回数を増やそうと、話す内容を多岐にわたらせようと、その人が成長するかどうかは「その人」次第です。話す側の意思や情熱が、必ずしも受け手側に伝わるとは限りません。話し手が「話を聞いて少しでも育ってくれ」と思おうと、聞き手にその意思がなければあまり効果を生み出すことはないのです。

 話し手が人の教育を意識することは、話し手側のエゴのように思えるのです。変な話、どれほど素晴らしい内容を話したとしても、聞き手にその意思がなければ何も残るものはありません。

 では勉強会や講習会などはつきつめると意味をなさないか、といわれれば、それは「違う」と思います。人を育てるというよりも、他人に何かしらの影響を与えるという点だけにおいても、開催することに意義があるかと思います。その影響が「自分も喋ってみよう」とまで昇華していなくても一向に構わないのです。「また聞いてみよう」、そのように思ってくれただけでも、十分に他人または会社の中に影響を与えたといえるでしょう。

 わたしの中でイメージする理想的なスタイルというのは、「各人が自主的に」参加してくれる勉強会・講習会です。自主的に参加してもらえる状態になるということは、各々が「聞きたい」「話したい」という意思を持ってくれていることにつながると思います。

 現状わたしがたまたま講師役を演じているだけの話ですので、「人に教える」という上からの目線ではなく「喋りたいことをしゃべる」程度の同じ目線で行うことが、恐らくは好ましい結果へとつながるのではないか、そのように思えます。

 誰かを育てることは、自分1人の気持ちだけではどうにもならないものだと思います。

 かといって勝手に育つわけでもありません。全体から見れば勝手に育つ方が少数派だと思われます。ここ最近の風潮もあってか、今は物凄く受身姿勢な人というのも珍しくはありません。あまりにも受身で自ら何かをやってみようという姿勢が見えないからダメだ、こう思われている方も多いことでしょう。

 実はそのどちらも同じ、表裏一体なのです。勉強会や講習会などでは、受ける側よりも話す側の方が自主的に動いているだけで、それ以上のさしたる違いはありません。テーマが変わり立場が変われば、同じように受身になることも十二分にあるのです。「いかに興味を持ってもらうか」、そこがきっとポイントなのでしょう。

 そう考えると「人を育てる」ということは、どこか間違った考え方なのかもしれない、そのように思えてくるのです。「興味を持たせる」ことはできるかもしれないが、「育てる」ことはひょっとすると誰にもできないのかもしれませんね。

Comment(28)

コメント

nightRaven

こんにちは。nightRavenと申します。

たいへん興味深いエントリで、ひきこまれるように読んでしまいました。
「人を教える」というのは非常に難しいことですよね。

一般論にはなりますが、「教えることで一番勉強になるのは教える側」というのがあります。
教えることで技術的にも深みがでると思いますし、相手に興味をもってもらうテクニック、話術等、学べることは多いと思います。
勉強会という場において、教える側の姿勢がいいかげんであることはあまりありませんが、「学ぶ」ということは教える側、教えられる側双方が「学ぼう」とする姿勢がないとなんの意味もないですよね。
Ahfさんも大変なご苦労をされていることでしょうね。(あまり教える側にたつことがないので、真の意味でのご苦労は理解できないと思いますが...)

ただ、こういったことは勉強会に限らず、いろんなことに言えることだと思います。
ネット上でもよくありますよね。
自分の中のなにかを伝える側、受け取る側、双方の姿勢が「何かを得ようとする」ものでない限り、教えるとか教えられるとか、なんの意味もないものになるのかもしれません。

嗚呼、なんか抽象的でわかりにくい文章ですみません。すごくいいエントリだったのに...うまく言葉にできないのが残念です...orz

#最後に
#前回のエントリでは結果的に場を荒らしてしまったことをお詫びいたします。

これからのご活躍を楽しみにしています。

Ahf

nightRavenさんコメントありがとうございます。

教える側が一番勉強になる、というのは全くその通りだと思います。
勉強会については今回や以前のエントリでも書きましたが、
やってみると得るものは多いと思います。

ですがご指摘にある通り、双方の姿勢によってはあまり意味を成さないというのが一番の問題点だと私も考えますので、ここについて色々と考え、手段を講じていく必要があると思います。

まぁそうは言っても私もどうやっていけばいいのかは、まだまだ暗中模索ですが。


それと前回のエントリについては全く気にしておりません(w
あれだけのコメントが付く事もありませんので、意見の書き方などいい勉強になりました。

ラフィン

こんにちは

 自分の関心が高いものに対して努力して得られた結果の満足度が高ければ、人は努力を惜しまないですから、そういう状態を目指すのもよいと思います。
 そうした場合は最初にするのは参加者に「勉強した結果得られる満足をイメージさせる」ことでしょうか。具体的には「勉強してよかったこと」の意見交換会を最初にやってみるのも良いかもしれません。他の人の成功の中から自分が勉強する意義が見つけ出せればしめたものです。

にゃん太郎

Ahfさん、おはようございます。

 おっしゃる事は非常によく分かります。

 ・・・って言うか私の次の次の次のコラム(次のコラムは公開待ちですが)で予定し
ているネタとやや被ってます(苦笑)まぁ、私もそうですがそれなりに経験すると
考える事は同じなのかも知れません。

 私の場合、ちょっと違った考えがあるのですが、それはまたコラムで書きますの
で良かったら読んでみて意見など頂けたら幸いです。

 宣伝みたいなコメントですいません。

インドリ

「教える」に限らず、会話は両者が聞くつもりがないと成り立たないものですよね。
私は「教える」とは一生ものだと考えております。
人生経験が無いものをいくら教えようとしても無理です。
例えば、設計原則やプログラミング思想などを言っても5年ぐらい経験しないと分からない事などいくらでもありますし、「人間は考える葦である」などの名言は一生かかっても真の意味が理解できるかどうか・・・といった事なんて山ほどあります。
ですからそんなことは気にせずに、自分が言えることだけを語ればいいと思います。
ただ、昨今は答えを言えという人が多くなったと感じます。
私の基本方針は「気付くまで待つ」なのですが、途中結果を飛ばして兎に角答えを教えろという人に多く遭いました。
かといっていきなり答えを言っても「分からない」とか「話しが飛んでいる」というから困ったものです・・・

セロ

Ahfさん、おはようございます。
昔、どこかで聞いた教師の言葉ですが
「先生の一番の目的は、生徒にその科目に対して興味を持ってもらうことだ。
 興味を持ってもらうことに成功したら、先生の役割は80%終わっている。」
ってのがありました。

「人を育てる」ってのは行動ではなく、結果のことかなぁなんて考えてます。
「新人を育てよう」等することではなくて、新人に対してよりよい道を指し示したりして、
のちにふと気がついたときに「俺はあの人に育ててもらったんだ。」なんて思ってもらうことというか。
#すいません。自分の中で意見としてしっかりまとまってない部分です。

「教えてやるぜ!」よりは「一緒に考えようぜ!」の方が同調しやすいよな~と。
#散発的なコメントになってますね。失礼しました。

記事を読んでいただいて、ありがとうございます。

興味深いコメントで、共感致しました。
社内勉強会について、もっと議論できる場を作りたいですね。

組長

こんにちは。コラムニストの組長と申します。

誠に僭越ながら、まだまだ「教えられる側」に近い立場としてコメント致します。

自分は、勝手に育つタイプだと上司に言われたことがあるのですが、やはりそれでも、「教えて下さる側」が上手に「教えられる側」をリードして興味を持たせるというのは非常に大事だと思います。私のように勝手に育つタイプの人であっても、やはり興味がなければ勝手に勉強するとか、育つとかしにくいと思います。「仕事だから」という義務感だけではちょっと辛いです・・・(私だけ?)。初めて勉強会に出た時の「すごーい!」とか、「おもしろーい!」という、初期衝動は今も忘れてません。

ド素人の私を育てて下さったのは、以前のお客様先の上司にあたる方なのですが、私は「**さんに育てていただいた!」と非常に恩義を感じております。が、実際は上手に興味を持たせていただき、「勝手に育つ為のコツ」をさり気なく叩き込まれたことが大きかったような気がします。後は、分からなくなって迷宮入りしそうな手前でフォローが入ったり。

自分が教える側に回るのはいつになるか分かりませんが(笑)、そういう立場になったら是非参考にしたいと思います。

nightRaven

Ahfさん、丁寧な返答をありがとうございました。
あれからいろいろ考えたのですが...。

理想としては、育てる側だけでなく、育つ側が自発的に場(勉強会など)を求めるようになることなのかなぁ...と。
そして、そんな場を作りやすい環境があることが大切なんだなぁ...と思います。
#「場」は「機会」と置き換えても良いかも

結局のところ、教える側ってのは相手が育つための材料を提供するしかないわけで。
実際に育つかどうかは本人次第です。
ただ、相手が育つためにどんだけ良い栄養を与える(教える)かは育てる側の腕次第。
そして、勉強会などを作りやすくする環境を作るのも育てる側の腕次第なのかもしれませんね。

Ahfさん、興味深く読ませて頂きました。

私も前職で社内講師的なことをやった経験があるのですが、
教える側の気持ちも大切ですが、
教えられる側の気持ちも大切だと思います。

後のアンケートなどで「上司に言われたから講習に参加した」があると、
正直、成長が見込めないかなーなんて感じてました。

同時に、その気にさせられない自分の力量にも肩を落としましたが、、、

大変面白かったです。

oumi

今回も良いネタですね。

>「育てる」ことはひょっとすると誰にもできないのかもしれませんね。
その通りだと思います。
ですので出来る事は、「歌を聴いてもらう」ということと同じなのではないかと思います。
教えるではなくて、ただ言いた事を言うだけでもなくて、伝えたい気持ちを込めるっていう事。かな。
「一期一会」などにも近い物なのでしょうきっと。

ビガー

ビガーです。

社員教育ですか、社員だった頃に2年目あたりから新人君たちにいろいろと教えていましたが、勉強会という形ではありませんでした。私の場合は、日々の業務で、彼らを下に付けてもらうようにしていました(その方が少しは仕事の役に立つので)。

業務で育てる方が、コスト的にも彼らの成長的にもいいんじゃないんですかね。まぁ、組織の事情などもいろいろあると思いますけど。

Ahf

みなさんコメントありがとうございます。

>ラフィンさん

「勉強してよかったこと」の意見交換会、いいですね。そういった場面で参加してもらってる人達が興味をどんどん持ってもらえるようになると、良い連鎖反応が起こせそうです。

>にゃん太郎さん

ネタがかぶるのは結構私もあります(笑
にゃん太郎さんのコラム、楽しみに待たせていただきます。

>インドリさん

答えを聞く、求める人が多くなったのは私も感じます。
今の時代の流れなのでしょうが、ググって見つけて終わり、という人も多いのも不安に感じます。考える、というのが減ったなぁ、と。

>セロさん

自分が関わった人が、後々に「俺はあの人に育ててもらったんだ」と
思ってくれたなら、それはとても嬉しい事ですね。
それとコメント中の「先生の一番の目的は~」というくだりが、今になってとても共感できます。多分若い頃は理解できなかったかもしれませんが(笑

>papandaさん

こちらこそ大変ためになる記事をありがとうございました。
社内勉強会については是非とも議論できる場が欲しいですね。地域性も関連するのでなかなか難しい事ですが、きっと同じように思われる方というのも多いと思います。

>組長さん

アラサーコラム楽しく拝見させてもらっています。
組長さんの上司につかれた方はかなりすごい人ですね。私もその方のように、相手に興味を持たせられるように精進したいですねぇ。そこに気づかれている組長さんでしたら、かなり上手に指導できそうな気がしますよ。

>nightRavenさん

理想として言われている、自発的に求める状態、そして環境は私も目指すところです。そうなるためには私ももっと努力が必要と感じています。まだまだですからねぇ。

>240さん

「上司に言われたから参加した」という解答はかなりヘコみますよね。
もう少し考えてくれ、というか何というか・・・(笑
私も自分の力量、相手に興味を持たせられなかった事については毎回反省ばかりです。

>oumiさん

教えるではなく伝えたい気持ちを言葉に込める、いい言葉ですね。
歌を聴いて貰うという例えも大変わかりやすくイメージしやすいです。
次はその歌=言葉に、どれだけ相手を捉えるものを盛り込めるか、自分の気持ちを盛り込めるか、というところですね。

>ビガーさん

私も業務、現場で育った人間ですのでコスト的なメリットは理解しています。
ただそれでは後に続くような、自分達でどうにかしていこうとするようなタイプの人材には育たないと思うのです。CEDEC2009で富野由悠季さんが講演されているのですが、道具を使うだけの人材になってしまうような、そんな危惧を覚えます。

ビガー

ビガーです。

>CEDEC2009で富野由悠季さんが講演されているのですが、道具を使うだけの人材になってしまうような、そんな危惧を覚えます。

なるほど、そこまで社員のことを考えられているのですね。幼稚園児を扱うような感覚ですか。。世界が違うようなのでコメントを控えます。

Jitta

こんにちは。

明鏡国語辞典より
育つ:人が、教え導かれ、みずから学んで精神的・技術的に成長する。
育てる:教え導いて、そのような人を作り出す。育て上げる。
学ぶ:見習って知識・知恵・技術などを身につける。
 教えを受けて知識や技術を習得する。勉強する。
 経験を通して貴重な知恵を得る。
 ◆まねをする意の古語「まねぶ」から出た語。
教える:相手が知らない知識・技術・教訓などを告げ知らせる。特に、それが身につくように告げ知らせる。
導く:ある方向(特に、正しい方向)へ進むように手引きをする。指導する。

 「育てる」には、「そのような」というゴール、目標が必要なようです。「社内勉強会を開いてみた」「開催できるか社内勉強会」も、読みましたが、「ゴールが明確になっているのだろうか?」という疑問を感じました。何処へ連れて行ってよいのか分からなければ、開催者の迷いはそのまま受講者の「何処へ連れて行かれるか分からない」という不安になるでしょう。(まぁ、企業の運営も同じで、だからこそ中長期の目標を立て、それを実現するための短期目標が立てられるのでしょうけど)
 「開催できるか~」に「会社としてどの方向へ向かうべきか」と書かれていますが、「社内勉強会を開いてみた」にはその向かうべき方向について書かれていなかったので、疑問を投げてみます。会社としてのゴールは決まっていますか?

 私はわんくま同盟の勉強会で何回かしゃべる機会をいただいています。その前に、ある教会で、小学生~成人までいくつかのクラスで教義を教える機会をいただいていました。その経験の中で感じたのが、しゃべってもらうには経験が必要、ということです。何回か数をこなし、「しゃべってもいいんだ」とか、「しゃべらなきゃいけないんだ」と思ってもらわないと、しゃべってくれないようです。
 その為には、尋ねる機会を何度も用意しておくとよいと思います。私の場合、複数の答えがある質問を用意して、その中からいくつかの答えが上がれば次に行く、というようにしました。こうすると、ひとつの答えだけでは進みませんので、多くの人に答える機会を与えられます。なかなか期待する答えが上がらずに焦ったり、反対にすぐに出てしまって焦ったりしました。
 あとは、「驚く」ということでしょうか。予想済みの答えであっても、「ああ、なるほど、そういう考え方もありますね」と反応すると、割り込む事への抵抗感が無くなってきます。「そんなことは分かっている」「そんな事はあり得ない」などと返すと、返事をすることがつまらなくなってきます。掲示板やブログでの意見も同じですけどね。

 そして、そういう講師の態度から、まねんで育つのではないでしょうか。考える人が少ないというのは、考えることをまねさせるひとが少ない、ということなのかもしれませんね。

Soda

教え方が悪い場合には、「わからない」などの疑問があがりますよね。
その手のリアクションは、話を聞いている証拠だと思います。
それが無いということは、そもそも興味がないってことだと思うんですよ。

それだけ必要だと思われていないってことじゃないかなぁ?
つまり、今現在困っていないんだと(^^;
参加者がメリットを感じていない限り、変化しないんじゃないかなぁ。

>かといって勝手に育つわけでもありません

うーん、育つというか、学ぶことに必要性を感じるかどうかって感じかなぁ。
経験により、必要なものがわかり、独学でたりるのか、誰かから教わらないといけないのかが判断できるようになると思うのですよ。
「教わりたい!」って思う人に対して教えるのがいいわけですよねぇ。
その逆で、そう思ってない人に「教えなくっちゃ!」と思うのは、エゴかもしれないです。
教えるってことは、わかってもらうってのが目的ですからね。
自分が知ってることを説明するだけじゃ自己満足だと思われても仕方が無いでしょうし・・・
相手に理解させて、初めて教えたことになると考えると、難しいですね。

Ahf

Jittaさんコメントありがとうございます。

 会社としてのゴール、残念ながら今の勤務先では明確な目標・方向付けがされていません。社内人材の空洞化や高年齢化などを背景に、「どうにかしなければならない」と思っているだけの状態です。
 現在私が社内勉強会などを進めているのは、思っているだけで実際の指針を打ち出せていない現状に対して、待っているだけではどうにもならないという気持ちも影響しています。ここは私のエゴですけど。

実際に勉強会をされている方の実例が大変参考になります。「驚く」というアクションが場にいい影響を与えること、複数選択肢を用意することなどすぐにでも取り入れてみたいと思います。

Ahf

Sodaさんコメントありがとうございます。

そもそも興味がない、学ぶことが必要と思えていない、本質を突かれるご指摘で身にしみます。恐らくこのあたりは、今の私の勤務先で仕事を行わせているその方法自体も関連しているのだと思います。

千尋の谷に突き落とす、ではないですが厳しい環境を一度体験させると変わってくれるかな?とは思いますが、昨今の状況を見ると「厳しい環境にする→退職」のコンボを決められてしまい躊躇してしまいますね。難しいです。

三年寝太郎

ある時点よりも進歩した状態に移行する意味を持つポピュラーな熟語に
学習 / 教育 / 成長
があります。
他にもありますが、取敢えずこの3つに絞って、
それぞれを分解して主体的(or能動的)な表現と受動的な表現として並べてみると

学ぶ、学ばせる
習う、習わせる
教わる、教える
育つ、育てる
成る、成らせる
長ける、長けさせる

になるかと思います。(他にも表現の仕方があるかもしれませんが。)
上記の右側は全部能動的な表現ですが、左側は違いがあると思います。

学ぶ→能動的な過程
習う→自立的(教わる+α)
育つ→能動的な過程
教わる→受動的な過程
成る→受動的+能動的であれば到達できる結果
長ける→受動的+能動的、且つ自律的であれば到達できる結果

そして、上6つの中で一人の人間の努力と感性だけでは成立し辛いと思われるのが、

「習う」と「教わる」。

習うと教わるの違いは微妙ですが、習うの方が教わる対象の型がはっきりしている気がします。
上で、習う→能動的 としなかったのは、獲得するための必要な情報が純粋に他者からのインプットで、
自分なりの解釈限定されることが多い気がしたから。
「習う」はある意味、型にはめること。躾に近いか・・・
したがって、ある期間、型を教わることでその後は型に合うように自立的に取り組めるのが「習う」。
もちろん途中で修正も入るのでしょうが。。。
教わった後でそれを練って得て熟すまでの過程を習うというのではないかなと。
練習、習熟、習得という熟語からは、当事者以外の誰かが常に介入している必要を必ずしも感じさせなし。

手取り足取り「教える」や「指導する」は判りますし、
受け手なら、手取り足取り「教わる」でも良いでしょうが、
手取り足取り習うだと、ちょっと違う気がする。

伝える相手がいて、なるべく長い時間かかわっていなければならないのは、
「教える」だけのように思います。

教わるは、習うよりも、対象がもっと複雑だったり対象とする範囲が広い事に関して、
誰かから伝えてもらうこと。
習うより、情報量が多く、対象が絞り難い。
故に、教える側の都合によっては、一方通行で、インプットに偏ってしまいがち。
教わったことを、自身が学習につなげられるかどうかで、伸び方が激しく異なる。
そんな気がします。(勝手にそう思ってるだけですが。)

それと、長けるに ・・・且つ自律的 と付け加えたのは、
何かに成るだけなら運だけでも成れる人はいる。
自を律する意思が無ければ長けるには足りない気がしたので。

と、いろいろ書いてみましたが、いいたい事がうまく表現できてない・・・
すみません。

三年寝太郎

上で「育つ」を能動的な過程と表現しているように、本来は育つ側に主体的な意識や行動が必要だと思うので、「育てる」はあまり正確な表現ではないとお思いますす。
育つ環境を作る、育ち方(進歩の仕方)を教える、ということでしょうか。
あえて「育てる」というなら、やはり型にはめることを言うのかもしれませんね。
しかし、一つの目的に向かって進む集団であれば、それも必要なことでしょう。
例えばサービス業であれば、社員教育をしないで社員の質を維持できるなら、クレームなど来ないでしょう。
例えばソフト会社であれば、社員教育なしで質の高いソフトを提供できるなら、デスマはありえない。
どれも聞いたこともありませんが。
資本主義的な観点から見ると、特に、低コストで使える未熟な人を一定の戦力にするためには、奴隷を使うのが一番良いのかもしれません。しかしそれでは社会的な非難は免れませんから、働く人を育てる、がなければ経営効率を上げるのは無理だと思います。
会社が人を育てる必要があるのは、生産コストを下げるため。生存競争という背景があるから。
社会が人を育てる必要があるのは、社会全体のコストを下げるため。
もちろん、社会にも競争要因ではあると思いますが、犯罪者が溢れて地域内の安全保障に税金を沢山つぎ込むのでは成熟した社会とはいえないでしょう。
日本は、健康についての教育が足りなさ過ぎて、医療も保険も恐ろしいことになってますが。

あるレベルでの全体最適を重視するなら、基本的には型にはめるための「育てる」「教育する」が手っ取り早い様に思います。

ただ、個のレベル、あるいは小さな集団のレベルで見れば、
「教育」は
教えて育てる
だけではなく、
誰かに教えることで育つ
育つことで教える(育つ子に教わる)
育ち方を教える
教える力を育てる
等々
いろんな解釈があっていい言葉だと思います。
上記のような解釈であれば、双方向でちゃんと交流があるということなので私はその方が好きです。

最近は、IT(Information Technology)から、ICT(Informaton and Communication Technology)へと、
Communicattionが付け加えられて、重要視されていることがわかります。

一方通行な、無味乾燥な、情報や技術(教育)では、人は育たないし、社会も経済も発展しない。
Communication。互いに想いも熱も伝え合い、影響しあってこそ、人類は成長し、文明は進化する。
だれかがそういう意味で付けたのかもしれないと、ふと思いました。
結局、言いたかったのはこれだけだったかもww

まいど長くてすみません。

三年寝太郎

最後に、人が人を育てられるのか?について、
一つの解といえるかもしれないと思った記事をひとつ。ID取得が必要ですが、よろしければ参考にどうぞ。
興味深い内容でした。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090908/204201/

「事前指導 > 事後指導の原則」の意味は、これまで漠然と感じてたことが言葉出言い表されていて、基本的な考え方が同じだったので、つぼにはまりました。

それと、「真剣」「本気」が人を育てて、「遠慮」「無視」が人を殺す
は、その通りですね。以外に言いようが無い。
自分の中にエネルギーを引きこもらせている人に人を育てる力があるわけないよなーと。奪うことは出来ても与えることが出来ないのだから。
感情も想いもエネルギー。水と一緒で、それを滞留させると澱んで腐っていく。
そう思います。

Ahf

三年寝太郎さんコメントありがとうございます。
日経~の方はこれから読んでみますね。ありがとうございます。

全体最適を重視するならば言われるように「枠にはめてしまう」のが一番良いのですよね、企業としては。ただこれだと、どうしても将来を考えるといつまでたっても状況が改善されない不安がつきまとうのがネックかと思います。

枠にはめてしまうの「枠」を誰が作るか、というところなんですよね。
生産性の向上は業務である以上必須の検討課題なのですが、そこだけつきつめていくのもなぁ・・・と私も日々悶々としています。

IT→ICTの変遷はとてもよく分かる気がします。
広い意味でのコミュニケーション、どこの会社でも色々考えていかないといけないでしょうね。

三年寝太郎

こんばんは

>枠にはめてしまうの「枠」を誰が作るか、というところなんですよね。

自分自身であることが最も望ましいのでしょう。
そして、常識や周囲との調和が前提であるほうが好ましい。
ただ、それもなかなか難しいです。
他者が設定するとなると、最適を目指す全体はどのレベルなのか?が大事だと思います。

読める、読めないで語られる空気と同じで、
部内を全体とするか、社内を全体とするか、社会を全体とするか、、、
どこを意識しているかだと思います。

>生産性の向上は業務である以上必須の検討課題なのですが、そこだけつきつめていくのもなぁ・・・と私も日々悶々としています。

「企業活動に必要な人・金・土地・物、すべては本来、公のもの、つまり企業が社会から預かっているものであり、よって企業自体も社会のもの、つまり公器である」
松下幸之助さんの言葉です。
企業が社会の公器として存在するものであれば、利益の還元は社会に対して行われるのが当然の流れ。
働く人が人として成長できる環境であることは、企業の社会に対する義務でしょうし、働く人が社会に仇成す事無く、それぞれの人生を生きてそれぞれに社会に貢献できるのが理想でしょう。

生産性を上げ利益を出して、株主に還元するのが経営者の役割と考える人も多いようですが、それは、社会に対しての還元が出来ている前提があってのことで、株主は潤っても、働く人が疲弊し心がすさんだり、成長できずに自信を失ったり、仕事そのものを失わせる様では、社会に対して責任は果たせていない。そう考える方が自然だと思います。

生産性の低い人をはずしてしまうというのも一つの方法です。が、それで残った人たちも結局能力差はあるわけですから、さらに厳しい状況になるとそこからまたはずす対象を探す。
それを繰り返すと、生産性は上がるでしょうが、一人が抜けただけで立ち行かなくなるような状況になりやすい組織になるし、そうなると、そこで働く一人一人が協力し合うような空気も生まれません。
生き残りに必死になるような環境では、かえって生産性は上がり難くなるでしょう。
生産性の向上に意識が偏りすぎると、ある程度のレベルまでは良い方に結果が現れても、ある時点からは悪循環が始まることが多い。ちょうど良い所を探すのは難しいですね。

「人を育てる」のは目的ではなくて何かを達成するための準備、つまり手段ですから、まずは目的をはっきりさせる必要があるでしょうね。
目的が曖昧だと、何を強化するのか、どのレベルを目指すのかといった目標も立てられませんし。

ですが、例えば、Communicationの向上で職場の風通しを良くして、誰がどういった知識や経験(といったInformation)を持っているかの存在を明らかにするのが目的としてあってもいいと思うので、勉強会という交流の場を作っているだけでも価値はあると思います。

その場合の生産性の向上はかなり後にならないと見えませんし、何が要因でどれだけ向上したのかもわかりにくいので評価のしようも無いのですが、評価されないからやらないというのはなしで行きたいですね。
いずれ死ぬんだから飯食わないって言うのと大差は無いのでw

Ahf

三年寝太郎さんコメントありがとうございます。

目的、非常に大事ですよね。理想としては
「企業としての目標」「集団(部・課など)の目標)」「個の目標」
それぞれがはっきりとした形で意識できていればいいのですが・・・。

まだしばらくは私の個人的な意思で続けていくことになりそうです。

Ahf

Jittaさんありがとうございます。
Blog側にコメントを投稿させてもらいました。

それとトラックバックも頂いたのですが、どうやら現在エンジニアライフ側で受け付けたトラックバックを表示する様にはなっていないのが残念です・・・。

ばしくし

講習会ですかぁ。多分、あまり意味ないですね。参加者にしたら、ふ~んっていう程度かな?
勉強会というのは、プロジェクターにパワポを映すgdgd系のやつですか?だとしたら、これもほとんど意味がない。

実戦形式の共同作業でやらないと、何も身につきませんよ。
テクニカルスキルなんかは特に。

開発系なら、業務とは別に適当なパイロットサービスを作ることにして
いつに何をする。で、何をやるどうなる・・・って実際に、一緒に手を動かす。計画を立てるところから、マネジメント的な予実管理も含めて一緒にやること。
オブジェクト指向で作るとこうなる。適切にクラス・メソッドを分けるためには、構造化設計の発想がいるね。よく見てみると、クラス設計ってDBのテーブル設計に似てね?なんて言いながら、「じゃあ、あっちの機能実装するときに使ってみてよ」とかね。フロントエンドのHTML,CSS,JSON,Ajaxから、アプリケーションのdispatch、バックエンドのSQLまで全体を意識すること。
当然、頭で考えたことは逐一口に出して、こういう意図でこういう設計・コーディングをするっていう風に、常に意識を共有する。

インフラ系なら、Webサーバ、RDBサーバ、NoSQLサーバ、メールサーバ、DNSサーバ、キャッシュサーバ、プロキシサーバ…というのが、どういうシーケンスで動いてるのか。
シェルスクリプトは?crontabは?logrotateは?./configure;make;make installは?resolverは?iptablesは?ルーティングは?SELinuxは?mod_XXXの組み込みは?
ルータのルーティングとL3SWのルーティングとLinuxのルーティングはどう違うのか。CiscoのルータとYAMAHAのルータで動作はどう違うのか。
これもサンプル的にVMWare上にLabo用のサーバ・ネットワーク構築して、あらゆるとコマンド叩きまくって、いろいろ検証することができます。これだとサーバ壊しても平気だし、何回もやり直しができる。
新人や若手と一緒に手と汗を流して、動作環境を構築・検証するわけです。
当然これも、頭の中で考えていることは、常時省略せずに全部口に出して構築すること。Linuxインストール時にどのパッケージを選んだ・選ばなかった理由を逐一しつこくやる。その辺の意識を全員で常に共有する。

運用であれば、実運用しているシステムに障害が起きた場合ですよね。(運用だけは、サンプル環境作れません。)
一緒にトラブルシューティングをすると勉強になりますよ。
これも同様に、頭の中で考えてることは一切省略せず、常時すべて口に出して、「これこれこういう観点でアクセスログを見る」とか「SQLのクエリログのここを見る」とか「Disk使用率を見ろ」とかね。
で、原因を切り分けるのも、常に思考回路をすべて省略せずに口に出し、対処案は必ず複数ひねり出し、「何々の理由で、最適なものはこれ」というロジックを立てて対処案を実行していくわけです。

技術というのは、講習会形式で個々に机上でやってもほとんど身につきません。
オブジェクト指向もプログラムもログ確認もDB設計もメール送信も、総合的に一括でやらないと実用性がありませんから
こういうスタイルで実践的にやらないと、本番で役に立つ生きたスキルは身についていきませんね。

Ahf

ばしくしさん、コメントありがとうございます。

>実戦形式の共同作業でやらないと、何も身につきませんよ。
>テクニカルスキルなんかは特に。

全くもってその通りだと私も考えています。
ただこのコラムを書いた時期では、残念ながら共同作業で何かをやる、という風潮もなく各々が個人個人で好き勝手にやるといった環境というのがありました。

>技術というのは、講習会形式で個々に机上でやってもほとんど身につきません。

ここも基本は同意ですが、だからといって講習会形式や勉強会が無意味であるとは思いません。私の中では、講習会や勉強会というのは「興味を持つきっかけつくり」が最大の目的というか、そうであってほしいと思うところです。

実戦形式で行われることは非常に大切です。勉強会などで見聞きした程度では、どうにもならないことばかりなのは事実です。ですが、その実践で使う技術というのは誰が更新していくのでしょう。誰が新しい方式などをキャッチアップして展開していくのでしょう。

実戦のみであった場合は、このような点が問題になっていくかと思います。
既存の技術のみでどうこうしていこうという流れに、どうしてもなりやすいのではないでしょうか。
直近の問題や課題に対しては効果が高いのですが、余程先進的なサービスを作成しようなど、
一般的な案件とは異なる要素がなければ、次に進もうとすることが難しくなっていくのではないか、と考えています。

ですので、「勉強会がダメ」「実戦形式がダメ」というものではなく、どちらも大切なのではないでしょうか。

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