公平理論で考える「うわっ…私の年収…低すぎ…?」
毎度毎度おひさしぶりです。前回のコラムが「資格マニア@無職が~」と紹介され、そんなキャラか! と吹いた46(しろー)です。
え? 今……はおかげさまで無職ではなくなり、アイデンティティを失いつつあります。
今度コラムを書くときは、社会保険労務士らしく、
「会社を辞めるエンジニアはここに気をつけろ!社会保険」
なんていう記事でも書こうと思っていたものの、「公平 日本人」と検索してこの記事に行き着いたら、メモ書きが止まらなくなったので、ひさびさのコラムにまとめることに。
ちょっと前のこのニュース、謎の2人組も気になるけれど、一番ひっかかるのは「不公平だ」と訴える電話。
震災後の計画停電エリアに対する反応など、昨今の報道で強く感じるのは日本人の公平性への厳格な視点だ。
「大変な時期だから我慢はするよ! 節電もがんばるよ! ただし公平ならね」という風に聴こえる。
「公平」というキーワードでボクが連想するのはアダムスの公平理論。これは診断士試験の前後に出合った知識。
「人は,自己の仕事量や投入(input)に見合う報酬や結果(outcome)を得たいと願う」(有斐閣『心理学辞典より)
つまり、このぐらいがんばったら、このぐらい報われたい、という期待を胸に、人は仕事をしている。
そして、その基準は……実は絶対値じゃない。相対値、他人との比較によるものだ。
ボクはある時期、齢30を超えていて会社で下位数%くらいの給与だった。それを知ったのは、転職して1年後、人事給与システムと予算システムとのデータを連動させる頃だったか。
でもそれまでは、数年前の食うや食わずだったミュージシャン+印刷工時代よりも、グンと高い給与を得て、ボクなりに満足していた。
「前の倍以上もらってるんだから、全力でがんばらないと」と、長時間残業もいとわず、少しでも役に立とうとしていた。
「こいつ、いらない」と捨てられないように必死だった。
しかし、ほとんどの人がボクより給与が高いと知った瞬間……ガクンと、いやちがうな。ガックーーンとモチベーションは下がった。
いやいや、世の中金だけじゃないっす。分かってます。そんな……守銭奴とか呼ばないでください。でも、そのときけっこうブルーになったのはたしかな話で。
「自分より××万円以上多くもらっている人でも、サッサと帰って人生を謳歌しているのに、なんでこんなに頑張らないといけないんだろう?」
そんな邪(よこしま)な考えがしきりにボクをダークサイドへといざなっていく。
でも、ふと考えてみると、自分の仕事も、給料も何も変わっていない。
他人の給料が突然、自分より高くなったわけでもない。 ちょっと前まで「いい会社に入れた」ってよろこんでたような気がするぞ?
ただ、知っただけ。でも、それが不幸のはじまり。 でも、なんでそれだけで変わってしまうだろう?「公平性」を求める人間の本能がそうさせるのか?
たぶん誰しも、「頑張っても頑張らなくても一律」といった共産主義的な報酬を求めているわけじゃない。
納得のいく報酬=公平性を感じられる報酬が欲しいんだと思う。
それってきっと、お金だけじゃなくって、ユーザーからの感謝とかそういった無形報酬も含めてなんだけれど。
公平理論では、そんな不公平の解消には下記のような方略があるとされている(以下同箇所より引用)。
(1)自己の投入を変える
これの逆バージョンが、実は当初のボク。ミュージシャン時代の印刷工のときから見たら飛躍的に上がった給与(相対値)から、もっと投入を増やさないと、増やさないと、と頑張っていた。
(2)自己の結果を変える
(3)自己の投入や結果を認知的に歪曲する
(4)不快な比較を避け,その場を去る
(5)比較他者の投入と結果の比を変える
(6)自己の投入と結果の比と等しい他者を、比較の相手に選ぶ
つまり、不公平がある、と思うと、人は周囲を見て投入量を調整したり、あるいは「自分の計算がまちがっているのかな」などと認めたり、何らかの方法で不公平の解消に向かう、ということ。
当然ボクも考えた。
と言っても、どうやって投入量を減らすか、やどうやって他人に仕事を回すか、じゃない。
考えていたのは、「なぜ差が生まれたのか」、そして「どうやったら差を埋められるのか」。
「なぜ」についてのボクなりの、かんたんな結論は、入ったタイミングと入り方(アピールと交渉力)につきる。
転職マーケットの需給状況と、書類や面接の場での「自分が役に立てる」、という売り込みのプレゼン、そして入る際の給与交渉。
希望給与を聞かれて、「いくらでもいいです。入ってから上げればいいだけですから」などとキレイごとを言って、交渉から逃げた。その結果がこれだ。
実際には、ただ頑張るだけで、不公平が解消されるような会社は少ないことを知るのは、もう少し後のことだ。
さて、「なぜ」の原因が分かったら、次は「どうやったら」だ。
ボクなりに埋める方法を考えてはみたものの、うまい手は浮かばなかった。何しろ、当初の給与と仕事範囲に納得して、というよりはむしろ喜んでサインしたのはボク自身なのだから。
とりあえず、投入量と結果の比率は簡単に自己コントロールできないようだったので、投入量を増やすことで、少しでも多くの結果(=報酬)を得られるようにとあがいていた。
いつか努力が認められて、比率が是正される日が来ればいいなー、と他人に期待しながら過ごし、職場のカギを閉めて帰る日がつづいた。
結婚とやらをしてみても、昼休みに婚姻届を提出して仕事に戻り、結婚式や新婚旅行という発想も浮かばなかった。
そんなどんよりした日常は、ある日突然終わった。
「(1)投入量を減らす=クサる」ことなくやっていたのが良かったのか、それを見ていた人から良い誘いが舞い込んできた。
上の表でいうならば、「(4)不快な比較を避け、その場を去る」になる。
オファーレターをもらったことを会社に告げると、「いままでの給料が安すぎた」と、突然比率の是正騒動がはじまった。
えらい人に呼び出されて聞かれた。「向こうはいくら出すって言ってるんだ」
意外な展開にとまどいながら、その時、よくある比率の是正方法を自分が実践していることに気が付いた。
・
・
・
結果的には、比率が是正されるので、残って同じ仕事をする、という選択肢は取らなかった。
しかし、会社からのカウンターオファーは、自分の仕事に対する自分の価値観は正しかった、と言ってくれたようで最後に少し報われた気がしてうれしかったし、いくばくかの自信にもなった。
その後、いろんな会社で、あるいはキャリア・コンサルタントとして、同僚、部下、クライアント……いろんな人から給与への不満を聞くなかで、ある時なんとなくボクなりの結論にたどりついた。
公平さを求めることに、大して意味なんてないってことに。
一番大きいのは、一年ほど前に書いたコレと同じ。
どんな大悪党でも、「自分が 正しく、世の中がまちがっている」と思っている、ということ。しかも心から。
そう、ほとんどの人は、自分の報酬はその努力に対して少ない、と思っているっていうこと。しかも心から。
でも、そう思ってる人だらけだとしたら……たぶん多くの人の基準は、きっとまちがってるはず。
それが分かると、自分の基準は正しい、なんていう自信を持てない。むしろ、自信満々なほどヤバイ? なんて思ってしまう。
だったら、気にしない方がハッピー。
もし、気にするならば、相対値よりは、絶対値。マーケットで付けられた自分の価値は、1つの目安にはなるかな? とは思う。
あるいは、自分の中の絶対値と比べることか。
なにしろ、周囲を気にしても、きっと解消する日なんて来ないとするならば、コントロールできないことに対して不満を持つことに時間を使うのはもったいない、と思うようになった。
だから、「うわ…私の年収…低すぎ…」は、心理マーケティング的には正しいのかもしれない。
思った結果が得られているかどうかは微妙だけど……。
46