文学部出身のややくせのある視点から見た、IT業界、人工知能、働くこと、などなどについての文章

「寄席は社会生活の維持に必要」という言明は「正しくて」「かっこいい」のだろうか?

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 いつものようにツイッターを漫然と眺めていたら、次のようなニュース記事が目に飛び込んできた。

 名前の挙がっている都内の各寄席は、緊急事態宣言が出された後も(席を減らした上で)有観客開催するというもので、報道各社で同様の内容のニュースが出された。

 それにしても、かなり挑戦的なステートメントであるな。「寄席は社会生活の維持に必要」というのは、明らかに政府の解釈とは反するものである。「社会生活の維持」という相手の言葉を用いながら、あえて文脈を読み替えることで、相手の発言に反抗しているのである。かなりデンジャラスでありつつ、どこか面白みもある。にわか落語ファンとしては、さすが落語の世界に生きる人たちの言葉であるな、などと思わなくもない。ツイッターでは、このニュースに快哉を叫んだり、「よくぞ言ってくれた!」というような反応をしたり、少なからず好意的な反応が見られた。

 しかし、である。この発言、ちゃんと解釈しようと思うとなかなか難しい。

文字通り「正しい」発言として読む場合

 たとえば、この発言は果たして「正論」だろうか?仮に以下のように読んだ場合、解釈はいずれ行き詰まってしまうのではないか。

 ・寄席(のような娯楽)は、人の心を癒すものであり、(文字通り)社会生活の維持に必要なものである。
 ・それなのに、政府の「社会生活の維持に必要なもの」の中には寄席(のような娯楽)は含まれていなかった。

 この場合、解釈の続きはどのように書けるだろうか?政府の人間観の薄っぺらさを笑うのだろうか?政府の考えのなさを笑うのだろうか?いずれにしても、コロナ変異種が蔓延しつつあり、各娯楽に自粛が要請された状況という強烈(であるがゆえに踏まえるべき)文脈にあまり関連がなく、解釈としての説得力は薄い。

 相手の文脈からたどってみよう。政府の文脈は、医療体制のひっ迫しつつあるこの状況において、少しでも感染拡大を食い止めなければならない、そのために緊急事態宣言を出し、「社会生活の維持に必要なもの」以外のイベントは無観客での開催を要請する、というものである。

 このロジックでいくと、文字通りの意味で寄席が「社会生活の維持に必要なもの」である、という指摘は、実は無力化されてしまう。というのは、ある水準において「社会生活の維持に必要なもの」であったとしても、それは常に「感染拡大を防ぐこと」と天秤にかけられることになるのであって、その天秤が傾くほどに「重い」意味で「社会生活の維持に必要」でなければ、その「必要さ」は正当に無視される。したがって、政府は寄席が「社会生活の維持に必要」であることを知らなかったりわからなかったりするのではなく、認知した上で正当に無視している、というロジックが成り立ってしまう。指摘が無視によって無力化されないためには、寄席が天秤をこちらに傾けるほど「重い」ということを示す必要がある。

 そして、そのことを示すためには、娯楽の中での寄席の特権性を示す必要がある。実は、上記の記事のステートメントにはその目配せがあり、「昔からの伝統芸能で今も尚途絶えずに伝わっていると言う(原文ママ)事は、社会生活の維持に必要なものであると解釈しております。」というコメントは、まさに寄席の「重さ」に言及したものである。

 しかし、そうすると立場がないのがほかの娯楽である。そもそも、このような解釈はまことに身勝手で屁理屈としか言いようのないものであり、この理屈の正当性を認めればほかの娯楽も別様の理屈で擁護することが可能になってしまう。現在の人気を根拠にすることもできるし、希少性を根拠にすることもできるし、なんでもありになってしまう。こうしてすべての娯楽が自らを「重い」と主張した場合、すべての娯楽を有観客でやることは政府の文脈上は不可能なのだから(可能であるのなら極めて無力かつ「本気度」のない「お願い」でしかなかったことになる)、「じゃあ全部だめね」ということになってしまう。したがって、寄席の特権性を上記のやり方で示そうとすることは失敗する。

 同様に、「寄席は社会生活の維持に必要」という発言をもって文化あるいは娯楽全般への擁護称揚へと換えようとすることも不可能である。さきほど書いたのと同じ話で、すべての文化が同様に「重さ」を持っているなら、そもそも天秤で測ることは不可能であり、感染拡大を防がなければならない以上、「じゃあ全部だめね」という結論に至ってしまうからである。

 以上の意味で、「寄席は社会生活の維持に必要」という発言を「正論」として受け取る場合、解釈は失敗する。その失敗の象徴として、ツイッター上では、すでに反発の声もあがってきている。ほかの娯楽趣味を持つ人からしてみればたまったものではないし、そうでない立場から見ても、この発言の「正しくなさ」が気になる人はやはりいるようである。

「正しい」発言として以外の解釈

 では、この発言はどのように解釈するのがよいだろうか?「正しい」発言として解釈して失敗するならば、この発言を「正しい」以外のものとして解釈するほかない。

 いわば、この発言は苦肉の最後っ屁でしかないのである、という読み方もできる。コロナ禍以降、寄席をめぐる状況は一貫して厳しく、寄席の存続(あるいは寄席文化の存続)も危ぶまれるような事態になっている。そのような中で、再びの緊急事態宣言で無観客での開催を要請されても、従うことなどできない、というのが本当ではないだろうか?

 この差異が非常に重要である。「従わないことが正しい」のではなく、「従えない」なのである。正しかろうが正しくなかろうが「無理」なのである。だから、正しかろうが正しくなかろうが「嫌だ」というのが正当な解釈であり、それを「社会生活の維持に必要」という文言を借りつつ捻じ曲げて叩きつけた皮肉である、という解釈でないと、筋が通らないのではないだろうか。「社会生活の維持に必要なものであると解釈しております。」などと取り澄まして書いているが、「無理」「嫌だ」が本当の声であるとすれば、その怒りのような(?)感情をあえて取り澄まして、相手の文言を借りて書いているという形式によって、この応答は皮肉として成り立つのである。

それは「かっこいい」のか?

 そして、このような情けない皮肉であるからこそ、実はかっこいい、と解釈できる可能性がある。「無理」「嫌だ」の内実としてあるのは、寄席や寄席文化を守り抜こうという毅然とした態度である、と読み取った場合、この一見情けない言明は、あえて情けなさにへりくだりつつ、自分たちの姿勢を相手に突きつける言明として読める。この場合、この言明は表面的な意味では「正しくない」のであるが、自分自身を守る、という強い態度に内在する「正しさ」が、かっこよさに解釈されるタネになるのだろうか。この解釈の場合、いわば「潜った正しさ」こそがかっこよさの源泉になっている、といえる。

 ただし、その正しさはあくまで「潜っている」のであり、表面上は屁理屈でしかない。だから、反発が起こるのも至極当然のことである。表面上は情けない屁理屈、内在する「正しさ」は毅然としている、という解釈を往復することによって、「実はかっこいい」「いや、結局かっこよくない」のどちらに落ちつけることもできない、複雑な味わいを持つ発言になっているのではないだろうか。そして、その微妙さを行くのが権力に対する皮肉や風刺というものではないだろうか、と思ったりもする。

 はい、野暮でした~。気が向いたらまた皮肉や風刺について書いてみようと思います。

Comment(7)

コメント

匿名

こういう事を言いたくはないけど、オリンピックは社会生活の維持に必要か否かという立場ですかね。

ちゃとらん

このお話、奥が深いです。


ただ、実際に寄席を生で見たことがない人間が言うのもなんですが、「従えない」、「無理」「嫌だ」といって反発しているだけでは、いずれ衰退していくと思います。
これは、変化への対応…と言うか、生き残るためには、DNAそのものが変化するぐらいの進化も必要だと思うからです。


劇場でないとダメ、ライブでないとダメ…からの脱却が、新しい寄席の可能性を示すかもしれません。…と言うのが、私の感想です。
# TV中継しろとか、youtube に上げろとかの単純な発想ではなく…です。

藤井秀明

「ノーマスクピクニックこそ、我々にとって社会生活の維持に必要なものなんだ」と主張されて、同じように称賛できたかという話でもありますかね。

fuku0185

他の娯楽も追随すればいいのです。
特に歌舞伎は「傾奇者」という言葉を忘れたのだろうか?と思います。
もちろん、手洗いとマスクのような”常識”は必要です。
不法・無法と言う意味ではありません。

山無駄

芸人さんは寄席以外でも日銭を稼ぐ方法はありますが、寄席は客が入って
なんぼなので苦しいのは確かでしょう。でもそれを、苦しいから補助金を
とはいわず、『寄席は寄席は社会生活の維持に必要なもの」と判断した』
というのだから、それは「おっ、粋だね!」と言ってあげるのが良いの
ではないでしょうか。
もともと芸能は反公権で、権力を揶揄するのがその本性です。

定員減、飲食の禁止、マスクの着用義務化などの感染対策は行うようなの
で、発言に対する正当性などを論ずるは、やはり野暮ってなもんでしょう。

匿名

オリンピックが必要なら、寄席も当然必要だろう。
ワイドショーが自粛不要なら、寄席も自粛不要だろう。
通勤電車のように感染確認者数がゼロであれば、たとえどんなにあやしくとも感染しないとみなせるのであれば、寄席での感染確認者がゼロであれば、感染しないとみなすのが妥当だろう。
以上より、「正しい」と結論付けられる。

えれふぁん

感染症と云うリスクと直接視聴のエンタメの有用性との天秤だろう。
この天秤は、各々個人によって異なると思います。
問題は、そのエンタメに参加した人が感染症を広げた場合、さらに言えば、その結果、亡くなった人が出た場合、その責任はだれがとるのか。
今後、訴訟等で明らかになるのかもしれない。今の自粛は、政府より押し付けられた感が強いのだろう。
しかし、これを守るのは各々個人であり、その行動が後の結果を生むだけである。
「正しい」とか「野暮」とかそんなことは、その結果によって感染したり亡くなった人はどのように思うのだろうか?

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