文学部出身のややくせのある視点から見た、IT業界、人工知能、働くこと、などなどについての文章

自我、自我、自我

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 どうも~、消火器です(Twitterはこちらです→https://twitter.com/super_syokaki)。

 

 自我を消す、ということが、伝統芸能や職人系の技術の修行には必要なようです。よく「守破離」などと言いますが、「守」の段階で必要なのは、伝統的な型にハマり切ること。そのためには、自分のクセを徹底的に無くす必要があるようです。伝聞調ばかりなのは、自分がその手の修行をしたことがないからです......。

 そして、「守」の段階の最初においては、「自分のクセ」を個別に消すというよりも、お前の自我丸ごと消す、というアプローチが取られるようです。どうも修行系の話を聞くに、修行というものは、弟子が自我へのこだわり(場合によっては弟子の「プライド」などと言ったりもします)を捨てることからスタートするようです。自我を「いったん」消す、ということ。

 この守破離に今更文句をつけるつもりはありません。自分のクセをある程度以上操作可能なものにしておくというのは、「破」や「離」の段階できっと役に立つと思うからです。というよりも、自分の素人考えよりも、これまでの歴史が守破離の有効性を証明しているのだから、それに尽きると思っています。

 

 じゃあ何の話だ、というと、自分はこの修行というのがどうしてもできないな、と。これは、何かというと「自我を消されてたまるか!」と叫んでしまう現代の若者についても同様なのではないかも思います。

 

 自分は、自分の短い(かもしれない)人生のなかで、先のために数年自我を消す、ということがどうしてもできません。できないというよりしたくありません。いつ死ぬかわからないのだから、自我を消している間に死んでしまっては、結局いったいなんだったのか、ということになるように思うからです。

 かといって、「自我を消されてたまるか!」という声に同調できるかというと、そうでもないな、と。自分の自我なんて大したものではないと思っているので、「消されてたまるか!」と声をあげるほどのものでもないな、と思ってしまう。大したものではないが手離しがたい。

 

 なので、「大学生」になることにも「社会人」になることにも抵抗がありました。どちらも、友人たちや他人が、お前そんなんじゃなかったろ、という有様になってしまうのを見ていたので。高校生が急に「大学生」になったのを見て胸を痛めていましたし、大学生が急に「社会人」になるのを見てまた胸がシクシクしていました。ばからしいでしょうか?

 自我がないと、自分の人生がするんと手を抜けてどこかに行ってしまうような恐怖があり、ただ人格とは流転するものであるという認識もあり。自分はこうだ、と決めつけるのも違うと思う一方で、今の自分の内なる声に従えばいい、というのも違うようで。今の自分と過去の自分の判断が食い違った時、どちらの声を聴くのが「自我」を守ることなのか。

 自我に執着がある、というのは、自分が大好きということとも違うな、と。どうしようもない自分であるという認識があり、それを「どうしようもないけど「いい」」などと居直らない一方で、手離せない。仮に自我への執着が自分の可能性を大いに損なうことがあるとしても、自我を手離すことはできないだろうな、と思います。

 

 などと思いつつネットを漫然と見ていたところ、役者さんのインタビューで「自我を消す」というような話が出てきました。

 役者は、自分にとっては最も恐ろしい職業の1つです。特に、CMに出ている役者には極めて恐怖を感じます。その顔は何を語っているのか、その身体は何を語っているのか、その声は何を語っているのか。役者という仕事は自我のリソースを直接的に切り売りするものであるような感じがしてしまい、とても怖い。その生とはなんだったのか、と役者が役者の人生を振り返るとき、きっと自我に執着している目線からは決して把捉しえないような、つまり、自我に執着する自分にとっては不可解な形の自己了解がなされるのだと思います。

 

 自分を貫く、ということは特に「いい」ことだとは思いませんし、個人的には醜いことだとすら思います。個性は醜い。でも手離せない。自我への執着が苦しみの原因だとお釈迦様も説いているようではありますが、自我への執着を捨てるくらいなら苦しみ続けてしまう。生の実感というものでもなく、地を這うように、自我を感じ続けながら、あらゆる「許し」を拒み、ただ動き続ける。地面から離れたら、知らない世界がたくさん開けていると思います。でも離れられない。ばからしいと思います。

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