筆者は1970年生まれ。先輩から、情報技術者を目指す若い方へ生きてゆくためのコラムです。

ダリアの花散るとき

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 あれはまだ、僕が工業高校を出たてのころ……。はじめての事業所、千葉市にある百貨店の電器売り場で、せっせとアルバイトをやっていた、そんな1991(平成3)年ごろ……。

【ダリアの花咲くとき】

 百貨店で母親がアルバイトをしていて、キーパンチャーが足りないから、パソコンに詳しい人を……というので、「キーパンチぐらいならまかしとけ!!」といった案配で、1日だけ手伝うことにしました。

 幸いにして、日本語106キーボードだったので、パートのお姉さん2名がカードを入力するのですが、僕はその700枚のカードの山を、たった8時間で入力し尽くしてしまったのです……。おかげで、自律神経をこわして、3日間寝込むことになったのですが(苦笑)。僕はそこで、くだらないながらも「伝説」になったのでした。

【大学生に混じり、生活費を稼ぐためのアルバイト】

Y係長 「田所くん、ちょっと玩具売り場に助っ人で行ってくれないか。明日から1週間」

田所 「はい、わかりました」

Y係長 「えー、玩具のSさんという係長がいるから、そっちで子ども広場の応援ね」

田所 「わっかりました、はい、日報です」

Y係長 「はい、理由なきハンコ、なんちゃって。ほれ、ぽちっとな」

 「なんちゃって」が好きな、AV商品売り場のY係長さんでした。ジェームス・ディーンが主演のアメリカ映画、『理由なき反抗』(1955年)というものがあると知ったのは、それからずいぶん過ぎてからでした。

 その翌日から1週間は、玩具売り場へ配属されました。当時はやっていた、ゴマフアザラシのゴマちゃんが主人公の「少年アシベ」というアニメのキャンペーン中で、そのテーマソングがエンドレステープに詰められて繰り返し流されていました。

 ♪チントンシャンテントン いますぐ チントンシャンテントン……♪

(c)1991 森下裕美/OOP/集英社・日本映像・日映エージェンシー・TBS

 僕は、フルタイムかつエンドレスで繰り返される「チントンシャンテントン」にいささか辟易していました。ヨーヨー掬いのゲームの実演をしていて、くそ生意気なガキども……、いや、お客様のお子さま、お坊ちゃま、お嬢さまたちから、おっさん呼ばわりされて、内心、オレはおっさんちゃう!!……と、ムカついていたのだけれど。

 僕は、ダークグレイの背広の上に、百貨店のハッピ(!)を着て、頭に手ぬぐい巻いて(苦笑)、確かに、子供たちからしたらおっさんに見えたことでしょう。1回100円をもらうのは、こんなにしんどいことなのか……。「おっさん、こっちー」「おっさん、僕もー」……お、お前らああああ!!(怒)

 それにしても、バブル末期の玩具売り場は、毎日たいへんな忙しさで、僕や仲間を含めてアルバイト7人が配置されていました。女性のアルバイトは、子どもをなだめたりするのが上手です。さすがは母性本能というべきでしょうか。僕ら野郎どもには、子どもをだっこして、よしよしして、泣き止ませるような真似ができません。

 玩具売り場のS係長は、もの静かな人でした。いつもニコニコしていました。まるで、売り場の空気に溶け込んでいるように、ちんまりとデスクに座っている人でした。何事も、与えられたことを、黙々と作業する、温厚な仕事人……、そのように見えました。僕は、勤務日報にハンコが押されるのを順番に待っていました。

S係長 「はい、お疲れさま」

田所 「ありがとうございます」

 交わした言葉は、これが最初で最後。翌日は土曜日。土曜日曜に向けて、催事場の大規模な模様替えをする、通称「撤去」の日になっていました。正社員は深夜にかり出され、バイトには何も知らされていなかったけれども、漏れ聞こえてくる声は「撤去は大変だよ、なにせ徹夜だから」という仕事のハードさでした。

【ダリアの花散るとき】

 ……週明けの食堂の壁に、1枚の訃報が張り出されていました。それは、先週まで元気だった、S係長の死を報せるものでした。撤去の終わりかけ、午前4時に救急搬送され、そのまま息を引き取ったというのです。死因は脳内出血。千葉市(若葉区)都賀(つが)にある、とある斎場で儀式が執り行われる旨が書かれていました。

 信じられなかった僕は、アルバイト担当の人事の正社員さんに、改めて確かめたのです。「はい、S係長は先般、お亡くなりになりました」と、いつもより深刻な表情を浮かべていました。過労死を、身近に、肌で感じた最初の瞬間でした。

 売り場の入り口には、かならず自動的におじぎをしてご挨拶する「ダリアちゃん」人形。そして、当時の百貨店のシンボルフラワーは、白いダリアでした。確かに、ダリアの花がひとつ、間違いなく散った気がしました。企業戦士が戦死したのです。そのことだけは紛れもない冷厳な事実でした。

 あれから、千葉市を去るまで、まるで何事もなかったように振る舞っていました。20歳の成人式は幕張メッセであったらしいのですが、バイトが理由で欠席しましたので、その後、千葉市から紅白饅頭が我が家にもたらされました。兵庫県にある、伯父の会社に転職予定だったので、「契約社員にならないか」と言われても、お茶を濁していました。帰郷することを腹に決めていたからです。

 ……初めて勤めた会社は、なかなか忘れられない。ひとつの命が、壊れた瞬間でした。そしてそれは、僕が歳を重ねても、白いダリアを見るたびに思い出されるのでした。死ぬぐらいしんどいのならば、あえてそうなるまで仕事をするまい、と感じたのです。

 (思索と模索はつづく…)

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