筆者は1970年生まれ。先輩から、情報技術者を目指す若い方へ生きてゆくためのコラムです。

呼吸をするように、自然にものが書けるのがプロ

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 どうも、お久しぶりです。どうにかこうにか、起承転結のあるお話を一個書き終え、さて、次はどうすっかなあ、と考えている一介の貧乏人です。

■呼吸をするように、自然にものが書けるのがプロ

 先日、大阪で、東京の旧知のシナリオライターさんとお会いしまして、どちらも照れ屋さんなので、余り突っ込んだお話はできなかったのですが、まあ、ラブでプラスなゲームのシナリオの一部を担当された方なのですが、その方がおっしゃるには「呼吸をするように、自然にものが書けるのがプロ」とおっしゃっていたことを思い出します。

 これは、ある一定の境地に達した人でなければわからないと思うのですが、なまじっか、文学をかじっていると、煮込みが足りない大根のような、くさいうんちくを傾けたくなるものですが、達観されておられると、逆に、世の中に対して謙虚になるようで、大きな仕事をした人ほど、きさくで、大所高所から物事を見ることができると感じました。すっかり煮込まれた大根のように、味わいと深みが出て、くさい話はしたがらないものです。

 こんな貧乏なわたくしに、そのシナリオライターさんは、僕に……目方で言うと、8.5キログラム相当のラノベの文庫本を恵んでくださいました。勉強せえよ、ということですかね。事実、そのシナリオライターさんは、大学を卒業して、僕とほぼ同い年にもなるのに、日本脚本家連盟のシナリオスクールに時々足を運ばれます。また、蔵書が豊富な、国立国会図書館に出かけられて、資料の収集に当たられます。

 前述の池上彰さんではないですが、ふんぞり返って出世したという高級官僚がいないのと同じように、人間、謙虚に、まだまだだ、まだまだなんだと思っていないと、これはまずいかも知れませんね。新渡戸稲造さんがおっしゃっていたのは、盆栽の松になるな、大樹になれ、という意味のことを、確か「修身」の著作の中でおっしゃっていたようです。盆栽の松とは、狭い世間でねじ曲がって、ひねくれて育つ小さな松のこと。同じ松でも、でっかい松の木は、広い世間を見渡して、まだまだだ、まだまだなんだ、と成長をやめないそうです。

■呼吸をするように、プログラムを書けてこそプロ

 僕は一時期、ある小さなプログラム受託開発会社に籍を置いていた時期があったのですが、すばらしいJava使いさんに会ったことがありました。Kさんという人なのですが、普段はとってもきさくで、後輩思いで、やさしい人なんですが、プログラマとしてはきわめて優秀な人で、チームリーダーを務めるぐらいの方でした。2000年当時ですから、まだそんなにJavaで開発するということは、あったのでしょうが、あまり一般的ではなかったように思います。

 そのKさんは、まだ一般にオブジェクト指向が世間に知られていなかった頃からのJava使いさんで、受託先で仕事を真っ先に片付け、他の言語のチームの助っ人までなされていた、余裕すら感じられる、すごい人でした。しかし、決して威張らず、それこそ呼吸をするように、プログラム言語を扱っていた人でした。本当に凄い人は、前述のように、ふんぞり返らず、常に謙虚で、世間を広く生きて、なおかつ仕事もする。プログラマになるにはもう遅すぎるけれども、ああいう懐の広い人に、僕はなりたいものです。

■職業、職域は、社会的機能に過ぎない

 世間は広いし、いろいろな考えの人がいて、いろいろな身分階層に住み、いろいろな境遇があり、仕事というか、生きるためのやり方は、顔のかたちの数だけ、人の数だけあると思うのです。理想型なんて、きっとないものだと思います。気がついたらこうなっていた。生きてたらこうなっていた、といった、偶然も作用するかも知れません。

 今の不平不満を嘆いているうちに、もっと劣悪な境遇に陥るかもしれませんし、不平不満がいつの間にか取れていた、ということもあるかと思います。落とし穴を掘ったつもりが自分で落ちていたり、良いことをしていると、いつの間にか誰かが助けてくれたり。そんな風にして因果応報があり、チャンスのはずがピンチになったり、ピンチのつもりがチャンスだったりするのでしょう。

 僕は、DTPはやったことはありますが、物書きとしては見習い同然です。努力はしますが、果たしてこの目論見がうまく行くかどうかの保証もありません。ここ二十年、情報技術業界周辺を転々として、ただひとつ、得られたものは、謙虚な人ほど他人の上を行くのだということ。これだけです。そして、職業というか、職域というものは、広い世の中にある、ひとつのファンクションに過ぎないことです。情報技術だって例外ではありません。ひとつのファンクションに過ぎないのです。言い換えれば機能。小説も情報技術も、ひとつの社会的機能に過ぎないのだろう、と僕は思います。

■自然体でものが書けるようになれたらいいな

 というわけで、少々理屈っぽくなってしまいましたが、僕の小説、まだまだ他人様にお見せするには、年甲斐もなく稚拙な文体で、申し訳ないです。修行はこれからも続くと思います。どこにもない物語を書いてゆく。オリジナリティだけは誰にも負けないと思っていますので(なにせこんな経歴ですから)、やがては自然体でものが書けるような境地に達することが出来ればいいな、と思っています。人生80年。めざせ新人賞。ではまた。

(ここの更新がないときは、一太郎と向き合っているはずです)

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