筆者は1970年生まれ。先輩から、情報技術者を目指す若い方へ生きてゆくためのコラムです。

印刷所時代のマイ・レボリューション

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 そういえば、DTP時代のことを語っていなかったので、それを書きます。午前1時、夢枕に、いろいろな登場人物が現れて、あの頃のことが走馬燈のように浮かんでは消えていきました。青春を費やしたDTP時代。平成5(1993)年から平成12(2000)年までの「空白期間」を埋めていきたいと思います。

【マイ・レボリューション】

 入社した平成5年9月。旧態依然とした「写植課」を変えようと、PC9821が置かれたデスクに座って、怒濤の打鍵。それまでの写研の「一寸の巾方式」入力キーボードや、「8インチフロッピー」などを駆逐すべく、文字入力を一手に引き受けました。

 能率は段違い。すでに日商キータッチ2000で、130文字/分を記録していた僕は、その能力を生かし、小さなマイ・レボリューションを起こしたのでした。これで、電算写植を組む人は、組版に集中できる、というメリットが生じたわけです。

【写植課Saptronμ5 VS 製版課NEO-AXIS】

 それはもう、入った当初は、写研グループとモトヤグループで、一種の「冷戦状態」だったのですが(主に上司の縄張り意識の点で)、PC9821担当の僕は、どちらのグループにも属さず中立の観点から文字を打鍵し、自力で校正し、縄張り意識の垣根を越えた文字供給に努めるようになりました。ここまでになるには、自律神経の失調をきたしたり、いろいろしましたが、双方のグループから信頼されるようになりました。

【双方のグループは「プリプレス課」に統合】

 やがて、僕にも転機が訪れます。チラシ、帳票に強いNEO-AXISと、雑誌、新聞組みに強いEDIAN-PLUSと、PC9821を行き来するようになりました。

 文字を打って、組みに行く。また戻って文字を打つ。文字を打ちながら、本則の送りがなや、漢字の間違いなどを校正しながら打っていました。PTA新聞、偉人伝、学術論文、商工会議所など……と、ありとあらゆる物語を読み進めながら、文字を打っては組みに行き……という生活がしばらく続きました。

【1998年頃からもっぱら「キーボード磨き」の日々】

 それまで順調にいっていた職場ですが、官公庁などにWindows 98が導入されると、途端に帳票類などの内製化が進みました。当然、暇になっていく訳です。IT革命前夜、といったところでしょうか。そのうち「ボーナスって何?」みたいな状態がしばらく続きました。

 やがて、IT革命の本番を迎えると、阪神大震災の影響と、それに伴う新社屋の建設が襲います。すべては借金です。借金体質がしばらく続いた後、一部には「計画倒産」と思われていますが、2000年の1月に会社は倒産してしまいました。

【それぞれの道へ】

 僕は、情報技術の本筋に帰るために、ポリテクセンター兵庫 情報システムサービス科に入所し、ある一定の成果を得ることができるようになりました。営業の幹部はそれぞれ協力会社の社員になり(自分のことしか考えていないみたいで)、後輩はそれぞれ結婚したり、同業他社へ救済される、あるいはまったく関係のない職種に就く、と散り散りになりました。

 あれからDTP産業は、デザイン事務所や、特殊印刷などを除いて「不況業種」「斜陽産業」と呼ばれるようになり、僕も新しい方向性を打ち出さざるを得なくなっていくのでした。

 夢に見たのは、あの頃のエネルギー全開で、思い通りに充実した時間。今再び、充実した時間を過ごしてみたいものです。ただし、印刷業だけは勘弁な(笑)。

 (コラムは続くよどこまでも……)

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