ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

夜の翼 (2) スカウト

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 「スカウトって......」加々見シュンは、不審人物に向けるのがふさわしい視線を、私とサチに遠慮なく注いだ。「おじさんたち、ゲーム会社の人か何かかよ?」
 「いや違う」
 「アーカム・テクノロジー・パートナーズなんて聞いたことないけど、どっかのIT 企業?」
 「ある意味ではそうかな」
 「ふうん」シュンは少し理解した、というように首を傾げ、ついでに尖った口調を少し緩めてくれた。「つまりプログラマとしてバイトしろって言ってんの?」
 「バイトではないよ。正式な仕事だ」
 「あのさ、俺、中学生だよ。そういう話は親としてもらっていい?」
 「君に両親はいない」
 シュンの表情が硬化した。サチが警告するように咳払いしたが、私は構わず続けた。
 「君のご両親は、君が11 歳のときに交通事故で亡くなった。君は父方の伯母さんの家に引き取られたが、その生活はうまくいかなかった。突発的な暴力や破壊行為、不登校や万引きなどを繰り返し、何度も補導されているな。現在は伯母さんの家を出て、児童養護施設から学校に通っている」
 怒りを露わにするか、と思いきや、シュンは逆に冷静に状況を監察するような顔になった。かわいげのないやつだ。
 「俺のことはよく調べてるみたいだけど、いきなり仕事って? 怪しいじゃん。スマホも持てないぐらいの貧乏だから、仕事を与えてやるって誘えば、ホイホイついていくって思った?」
 「金で釣ったつもりはない。気を悪くしたんなら謝る。純粋に君のプログラマとしてのスキルを評価してるんだが」
 「ねえ」埒があかない、と思ったのか、サチが隣に並んだ。「とにかく話だけでも聞いてもらえないかな。私たちはシュンくんの味方だから」
 その言葉に動かされたのかどうか、シュンはしばらくの間、私たちを見ながら考えていた。その視線が、時折、公園の入り口の方に向けられている。逃走の可能性を考慮していたのは間違いないが、同時に、好奇心を感じてくれてもいたようだ。
 「何だかしらないけど、助けてくれたのは確かみたいだし......」とうとうシュンは言った。「何か食わせてくれるなら、話ぐらいなら......」
 「シュン!」
 突然、甲高い声が響き、シュンは口をつぐんだ。私とサチが振り向くと、高校の制服を着た、茶髪でショートヘアの女子がすごい勢いで突進してくるのが見えた。
 「やば」途端に気弱そうな表情になったシュンが呟いた。「ねえちゃん」
 「ねえちゃん?」私はサチに訊いた。「誰だ」
 「確か、辻本ナナミです」サチは囁いた。「同じ施設の高校一年生」
 辻本ナナミは仔を護る猛獣のようにシュンと私たちの間に割り込んだ。身長は160 センチに少し届かないぐらいだが、筋肉質でそれなりの力がありそうだ。手にスマートフォンを握っている。
 「シュン」ナナミは背中越しに呼びかけた。「大丈夫?」
 「うん、大丈夫だよ」
 「ウソ、制服が汚れてるじゃない」
 さっき転がったときに汚れたのだろう。シュンが何か説明しかけたが、ナナミはスマートフォンを突き出した。通話アプリのキーパッドが表示され、110 が入力されている。
 「この子に何したの」ナナミは詰問した。「通報されたくなかったら答えて」
 「何もしてないわよ」サチがなだめるように言った。「ちょっと友達とトラブってたみたいだから......」
 「友達って誰?」きつい表情を崩さないまま、ナナミは訊いた。
 「さあ、名前は知らないけど......」
 「いつものあいつらだよ」シュンが助け船を出してくれた。「呼び出されたのに無視したら、しつこく追いかけてきてさ」
 「そういうときは、あたしに知らせろ、って言わなかった?」
 「その、本屋と図書館に行きたかったから......」シュンはもごもごと言い訳した。「そこで撒いたと思ったんだけど」
 「ああいう奴らは、バカだけど、ヒマをもてあましてるし、コバエみたいにしつこく何度も寄ってくるの。何度も言ったよね」
 「ぼくが自分で何とか......」
 「何とかできた?」
 「......」
 「ねえ、ちょっと」サチが言った。「そんなに頭ごなしに決めつけるのは、良くないと思うけど」
 ナナミはサチに目を向けたが、言葉はシュンに向けられていた。
 「シュン、このおじさんとおばさんは、どこの誰なの」
 「ええと、何とかいう会社の......」
 「お姉さんはね」サチがナナミと対峙した。「シュンくんに......加々見くんに用事があって来たの。ちょっと話をさせてもらえない?」
 「何の話?」ようやくシュン以外の人間とまともな会話をする気になったらしいナナミが、敵意にあふれた冷たい声でサチに応じた。「この子、まだ中学生ですよ。いい年した大人が何の用があるっていうんですか。未成年者略取は、未遂であっても7 年以下の懲役だって知ってます?」
 「略取って......」
 言いかけたサチに、ナナミはスマートフォンを突きつけた。
 「通報されたい?」
 厄介だな、と私は舌打ちした。さっきのガキどもと違って、ナナミはシュンに対する保護の意志で私たちに抵抗している。それだけに多少の脅しなどは通用しないだろう。物理的に排除するのは容易だが、そんなことをすれば、シュンの態度を硬化させる結果に終わるだけだ。
 だが、ナナミの出現は、逆にシュンを決断させるキッカケとなったようだった。
 「話って」シュンは私に言った。「さっきの変なのと関係があるんですか?」
 さっきからシュンの言葉遣いが丸くなっていた。可聴範囲にナナミがいることと無関係ではないだろう。ねえちゃん、と呼んでいるが、ナナミに接する態度は母親に対するそれに近いし、ナナミの方も保護者そのものだ。
 「変なのって何のことよ」
 早速、ナナミが追求したが、シュンはうるさそうに手を振った。
 「ねえちゃんには関係ないよ。どうなんですか?」
 「そうだ」私は頷いた。「そのことも含めて話をしたいんだがな」
 「ちょっと......」
 「わかりました」シュンはナナミの言葉を遮った。「話を聞くぐらいなら」
 「シュン」ナナミはシュンの肩を掴んだ。「何言ってるの。どこの誰とも知らない、こんな怪しい人たちなのに......」
 「こっちは台場さん、こっちは駒木根さん。ちゃんと名乗ってくれたけど」
 「だから何よ。名乗るぐらい誰だってできる......」
 「ああ、もういいから」シュンは苛立った声を出した。「放っといてよ」
 「シュン......」
 「よし、じゃあ行こう」シュンの気が変わらないうちに、私は事を進めることにした。「別に怪しいところに連れ込もうってんじゃないから」
 「どこに行くんですか」シュンは訊き、ちらりとナナミの顔を見た。「一応、施設に行き先と帰宅時間を連絡しておかないと」
 「みなとみらいに会議室を用意してある。クイーンズスクエアの中で、他の会社も入ってるところだ。夜8 時までには施設に送っていくよ。ピザか何か軽食を用意するし、何ならちゃんとした夕食でも......」
 「わかった」ナナミが決然と遮った。「あたしも一緒に行く」
 「え? いや、君は......」
 「連れて行かないなら、大声出す」すでに充分に大きな声で言いながら、ナナミは私とサチを睨んだ。「もちろん警察にも電話するし、ネットでも拡散するから」
 私とサチは顔を見合わせた。結論はすぐに出た。
 「わかった。一緒に来ていいよ」
 それを聞いたナナミは感謝するどころか、さっさと案内しろ、と言わんばかりの一瞥を投げただけだった。代わりにシュンが、礼儀知らずな家族の非礼をわびるように小さく頭を下げた。
 「ほら、早くしてよ」ナナミは促した。「何で行くの?」
 「車だ」
 私は公園の駐車場に向かって歩きながら、サチと顔を見合わせて苦笑した。やはり子供は苦手だ。

 ◇ ◇ ◇

 みなとみらい方面に向かう道路は混雑していた。私は流れに合わせて車を走らせながら、後部座席に座っているサチとナナミをバックミラー越しに見た。少し前まで、ナナミはサチを質問攻めにしていたのだが、サチが言を左右にして詳しいことは何も話さなかったため、やがて諦めてしまったようだ。その視線は時折ドアノブに向けられ、赤信号で停止したときなどは、特に真剣なまなざしになっていたが、私は用心して追い越し車線だけを走るようにしていた。シュンを助手席に乗せたのも、不意の逃走を防ぐためだ。
 佐藤防衛管理官には、先ほど連絡し、ナナミのことを知らせておいた。半ば以上、叱責されるか、ナナミをソード・フォースに引き渡すように、という指示が出ると予想していたのだが、意外にも佐藤は、ナナミがシュンに付き添い続けることを許可した。警察に通報する、というナナミの脅しを危惧したのではなく、シュンの心証を悪くしないことを優先したのだろう。
 陽が落ちた頃、ランドマークタワーの地下契約駐車場に車を滑り込ませた。クイーンズスクエアの方に歩き、仕事終わりのサラリーマンたちの流れに逆らって、オフィスタワーのエレベーターに乗る。シュンとナナミは物珍しそうにキョロキョロしていたが、怪しげな地下アジトなどに連れて行かれるのではない、とわかって、少しは警戒心を解いてくれたようだ。もっとも、ナナミはずっとスマートフォンを握りしめたままだ。いざとなれば、痴漢防止アプリか何かを作動させるつもりにちがいない。
 大小様々なレンタル会議室が並んだフロアで降り、今日一日レンタルしている小会議室に入った。シュンとナナミは、誰もいないことを確認すると、安心したように顔を見合わせた。誰かが待ち受けているのでは、という不安があったらしい。この会議室は、アーカムによって厳重に警備され、かつモニタリングされているのだが、そのことをわざわざ知らせるつもりはなかった。
 楕円形の会議テーブルの上には、コンビニの袋がいくつか置いてあった。横浜ディレクトレートの誰かが、気を利かせて買ってきてくれたらしい。中を確認し、数本のペットボトルと、スナック菓子、肉まんなどを並べると、シュンの目が輝いた。
 「食っていいの?」シュンが訊いた。
 「いいよ」私は自分用に緑茶のペットボトルとガムを確保しながら言った。「足りなきゃ言ってくれ」
 シュンは早速、ポテトチップスの袋を破り、顔をしかめていたナナミも空腹に負けたのか手を伸ばした。まもなく2 人の中高生は、カロリーやトランス脂肪酸のことなど気にする様子もなく、スナック菓子を胃袋に詰め込むのに夢中になっていた。その旺盛な食欲を羨ましく思いながら、私はキシリトールガムを口に放り込んだ。
 部屋の隅で通話をしていたサチが近寄ってきて、私にだけ聞こえる声で囁いた。
 「さっきの子たちは、規定の措置を受けています。終わったら元の公園に放り出すとのことです」
 私は頷いた。「規定の措置」とは、特定の記憶を操作する一連のプロセスのことだ。直接見たことはないが、一部の記憶を削りとる、というような単純作業ではなく、抜いた記憶と同程度の長さで、前後の前後の事象と矛盾しない"ナラティヴ"をプログラミングして置換するという、複雑きわまりない処理らしい。プログラマの腕が未熟だと、後になってデジャヴとして記憶がプレイバックされることになると聞いている。
 「どんな風に話をするんです?」
 「そうだな......」
 これはIT 企業のプログラマ採用面接とは異なる。採用面接なら、プログラマ側がスキルや職務経歴をアピールし、企業側が採用の是非を決定するが、この場合は逆だ。こちらが仕事の内容や待遇を提示し、プログラマ側に判断を委ねることになる。しかも相手は社会人教育も受けていない中学生だ。さらに今回は、予定外の保護者が付いてきている。私は、これまでスカウトしたセクションD の4 人のPO のことを思い出した。
 小平ハルは17 歳の男子としては低い身長や、優秀な妹に対するコンプレックスを抱えていて、唯一、得意なプログラミングを活かせるという誘いに飛びついた。16 歳の末永リンは陸上部に所属しているが、練習よりも理論を追求する姿勢が強すぎて、周囲から孤立しかけていたため、その性格を活かせるPO の仕事内容に強い興味を示してくれた。最年少12 歳の保科マイカは、父親がアーカムの職員であったため、大した抵抗もなく、アーカム・オーダーの活動全体に意義を感じてくれた。最も手こずったのは、15 歳の牧村カズトだ。小太りな体型と、分厚いメガネを手放せない視力、引っ込み思案な性格のせいで小学校時代からいじめの標的となり、14 歳からは自分の部屋から出なくなってしまった。複数のオンラインゲームに加えて、上場企業や官公庁のネットワークへ侵入することで日々の鬱屈を晴らしていたカズトは、私とサチの説明や説得に、ほとんど耳も貸そうとしなかったのだ。やむなく、不正アクセスのログを突きつけるという、脅迫に近い手段を取らざるを得なかった。
 もっとも、私とサチが携わったのは、4人の子供たちをスカウトし、仕事内容の概略を説明するところまでで、彼らが最終的に決断したのは、佐藤ら防衛管理部の職員が行った、いわば最終面談の後だ。面談の内容は、私もサチにも知らされなかったが、あからさまな敵意を見せていたカズトでさえ、面談の後にはすっかり心変わりした様子だった。一体、どんな手を使ったのか知りたいところだ。
 私は、ポッキーをリズミカルに切断している加々見シュンを、近くからじっくりと観察した。14 歳という年齢相応の幼い顔立ちだが、双眸には妙に老成したような光が見て取れる。行動確認レポートによれば、学校の成績は中の上といったところ。部活動には入っていないが、運動が苦手というわけでもないし、文化系の部にしか興味がないということもなさそうだ。施設で生活している立場として、何かと出費がかさむ部活動に参加するのを自発的に遠慮している、ということかもしれない。
 シュンとナナミは旺盛な食欲を満たしながら、学校のことなどを小声で話していたが、やがてチラチラとこちらに視線を向けるようになった。そろそろ話をする時間、ということだろう。私の隣に座ったサチも、タブレットをいじりながら、先に進めと言わんばかりの顔を向けている。
 「さて」私は口火を切った。「加々見シュンくん、シュンと呼んでいいか?」
 シュンはナナミと顔を見合わせた後、小さく頷いた。
 「さっきのあれ、見たよな」私は方向を定めないまま船をこぎ出した。「どう思った?」
 「あの腐って変色したシラタキの塊と毒キノコの混ざったみたいなやつですか?」
 「そうだ」
 「あんな生き物は見たことがないです」シュンは記憶を確認するように、腕を組んで天井を見上げた。「何科の何目みたいな分類はできそうにない。ほ乳類なのか、爬虫類なのか、虫の仲間なのかもわからない。どっかの軍とか研究所とかが、DNA 操作で作ったとか」
 「あれはショゴス、と呼ばれるクリーチャー、生命体だ。作られた、という点は当たっているが、軍でも研究所でも巨大企業でもない」
 「じゃ誰が作ったんですか?」
 「数万年前に地球を支配していた、人類ではない種族だ」
 食い物に釣られて、こんなバカバカしい話をマジに話す怪しいおっさんと関わった俺って三国一の大バカ者だ。シュンの顔をよぎった表情を言語化するなら、そんなところだろう。ナナミの方は、もっとあからさまに、嘲るような笑いを浮かべている。私は構わず話を続けた。
 「詳しい歴史については、君が正式に仕事を引き受けてくれたときに聞く機会がある。私たちの仕事というのは、ああいう地獄の下水管の中にいるのがふさわしい化け物どもを、一般市民の目に触れないようにすることだ」
 シュンは、ふーん、と呟いた後、私の顔を見た。
 「それが、さっきのアーカム何とかですか?」
 「アーカム・テクノロジー・パートナーズ。ATP はアーカム・オーダーという世界的な結社に属する組織だ。他にも組織がいくつかあって、役割も違うんだが、究極の目的は同じだ」
 「ふーん」シュンは繰り返した。「なんか大変ですね」
 「ちょっと、シュン」ナナミが呆れ顔でシュンを見た。「あんた、こんなたわ言を信じてるの?」
 「全然」そう言った後、シュンは悪びれずに私を見た。「あ、すいません」
 「いや、いいんだ。私だって最初に話を聞いたときは、バカバカしくて、席を立って帰りかけたぐらいだ」
 「さっきの変な銃みたいなのを撃ってた人たち」シュンはポテトチップスの袋に手を突っ込みながら言った。「あの人たちも、そのATP なんですか?」
 「彼らはアーカム・ソード・フォース。ああいう物理的な荒事専門の軍隊みたいなものだ。さっき見たような兵器でショゴスや、その他のクリーチャーを殲滅する」
 「ATP は違うんですか?」
 「ATP の武器は物理的なものじゃない」
 「何ですか?」
 「君の得意分野」私はシュンの顔を見つめた。「プログラミングだよ」
 「プログラミング......意味がよくわからないんですけど」
 「わかった」ナナミがポッキーの先端を私に突きつけた。「この人たち、シュンに爆弾を作らせるつもりなのよ」
 「爆弾?」
 「時限爆弾とか、ああいうやつ」
 「プログラミングがどこに絡んでくるのさ」
 「絶対、解除できないやつじゃないの」
 「爆弾か......」私は苦笑した。「シュンのスキルを、そんなことに使うのは究極の浪費というべきだな」
 「ねえちゃん、ちょっと黙っててよ。頼むからさ」シュンはナナミに釘を刺すと、私の顔を見た。「プログラミングって、どういうことですか?」
 「さっきのショゴス、どこから来たと思う?」
 「だから」またナナミが割り込んだ。「その、ショゴスって何なの?」
 「ホラー映画に出てきそうな怪物だよ。物体X みたいな。ぼくは確かに見たんだ」
 「特撮でしょ、そんなの」ナナミが決めつけた。「中に人が入ってる、スーツアクターってやつ」
 「そんなんじゃないよ。いいから、黙ってて」シュンはナナミを軽く睨んでから、私とサチを見た。「どっかのジャングルとか、地下とか」
 「地球上じゃない」
 「宇宙から?」
 「別の宇宙からだ。私たちは、それをSPU、Separated Universe と呼んでいる」
 「別の......」シュンは首を傾げた。「他の銀河系とかですか?」
 「そういう意味じゃない。パラレルワールド、という言い方が、一番近い」
 「あ、そっちか。Separated って......」
 「セパレートが別々の、とか、分離とかいう意味だから」ナナミが言った。「セパレーテッド・ユニヴァースだと、過去形で分かれた宇宙じゃないの。違いますか?」
 「合ってるよ」私は頷いた。「分離された世界、宇宙だ。訊かれる前に言っちゃうと、この世界、Real Universe から分離したんだ。量子論でいうところの多世界だ」
 「あー、なるほど」ナナミは、なぜか得意げな顔で私を見た。「それはちょっと違うんじゃないですか」
 「というと?」
 「多世界です。台場さんが言いたいのは、その何とかいう生物が、別の世界から来たってことですよね。それが量子論でいう多世界解釈の一つだと。それが違うんです。ちょっと不勉強でしたね」
 私とサチは顔を見合わせた。
 「どういう意味かな」
 「多世界解釈って、観測を行うたびに並行世界が分離してくって思ってるんでしょ? でもそれ、よくある間違いですよ。箱の中の猫を観測したときに、猫が生きている世界と、猫が死んだ世界に分かれるんじゃなくて、元々、2 つの世界が存在してる、というのが正しい多世界解釈です。観測したときに猫が生きていたら、観測者は猫が生きている世界にいる、ってだけのことです」
 ナナミが言う「猫」というのは、シュレディンガーの猫として知られている有名な思考実験のことだろう。
 「つまり」シュンが訊いた。「どういうこと?」
 「つまりね」ナナミは人差し指を立てた。「そのSPU が別の宇宙だって言うなら、それはありえないってこと。違う宇宙から何かがやってくる、なんてことは不可能なんだから。そもそも、互いに認識なんかできないの」
 「詳しいのね」サチが素直に感心した顔で言った。「学校で習ったの?」
 「常識ですよ、これぐらい」
 「ナナねえは、SF オタクなんです」シュンが暴露した。「超が付くぐらい。横浜で世界SF 大会が開催されたときは、小さくて行けなかったって、いつも悔しがってるんです。学校でも、誰も興味を持たないディープな話ばっかりしてるから、みんなに敬遠されて......あ、痛い痛い」
 シュンの言葉は、伸びてきたナナミの指がほっぺたをつまみ上げたことで、強制的に中断させられた。
 「おだまり」
 「わかった、わかったから。暴力反対」
 ナナミの指が離れると、シュンは赤くなった頬をさすりながら、不満そうに言った。
 「痛いなあ。そんなだから、いつもフラれてばっかりで......」
 「あ?」
 シュンは慌てて口をつぐみ、私は苦笑した。
 「君の知識には驚いたが、少し勉強不足のようだ」
 「え?」ナナミは険悪な視線を私に向けた。「勉強不足って何が」
 「部分的相互作用維持多世界理論のことは知らないだろう。別名、紐状多世界理論」
 「......何、それ」
 「私も詳しいことまで理解しているわけじゃないんだが......」
 そう続けようとしたとき、左耳でアラームが鳴り、私は顔をしかめた。エマージェンシーコールだ。
 『374、335』オペレータが私とサチのコードを告げた。『すぐ、そこを脱出してください。敵が接近中です』

(続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。本文中に登場する技術や製品は実在しないことがあります。

※次回の公開は、7/16(火) になります。

Comment(9)

コメント

匿名

面白いっ!!

へなちょこ

ここで来週までお預けか!! ああ、早く続きが読みたい

匿名

SF好きならラヴクラフトくらいはカバーしてろよ、というのは野暮かな。

ダレス

ラヴクラフトはホラーですからね
設定はSFチックだけど
カバーしてない人もいるかも
プログラマーで両方カバーしてる人はどれくらいいるのかな

匿名

登場人物はクトゥルフ的世界の住人なんだろうから
事件に遭遇するまでクトゥルフ的現実を知らないも無理ないかと
.
クトゥルフ的世界に「ラヴクラフト著のコズミックホラーの本」は存在しないだろうし、
事前に知識を得るとしたら「魔導書」とかになっちゃう・・・

Dai

新作待ってました!!

# 英数字の後のスペース
> セクションDの4 人のPOのこと
> 4人の子供たちを
> 物体Xみたいな

# 「生かす」で間違いというわけではないようですが 「活かす」が自然では?
# プログラミングの後に、「能力」とか「スキル」があった方が正しいが、なくても許容範囲?
得意なプログラミングを生かせる
その性格を生かせる

朝見た時に、どこかに余分な重複があった気がしたのですが、今見ても見つからない・・・
気のせいか?・・・

リーベルG

Dai さん、ありがとうございます。
「活かす」の方が自然ですね。

匿名

アーカム、ミスカトニックって…なるほど
今頃 気がつきました 苦笑

匿名

リーベルGさんのクトゥルフネタは食傷気味かな。
冷たい方程式みたいなリアリティのあるのをまた読みたいです。

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