ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

夜の翼 (3) 非常階段のトゥチョ=トゥチョ人

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 「敵って」私は会議室のドアを見た。「警護は?」
 『応戦中です。ただ、ハンドガン程度の小火器しか装備していないので、じきに突破されると思われます』
 「ここは、セイフティポイントじゃないのか」
 セイフティポイントは、過去にSPU からの侵入が試みられた地点だ。同じ場所の量子もつれポイントは再利用ができない。
 『SPU からの侵入ではありません。攻撃してくるのは、トゥチョ=トゥチョ人です。12 人がそこのビルに突入しました』
 私のタブレットが短く震動し、転送されてきた情報がポップアップした。トゥチョ=トゥチョ人は、旧支配者の奉仕種族だが、元々、この世界に住んでいる小人族である。小人族といっても、ホビットのように平和な種族ではなく、頑丈な身体を持つ残忍で攻撃的な狩猟民族だ。モバイル通信もできないような文明とは隔絶した山奥で生活しているが、SPU からの指令を受けると動き出すらしい。理由は不明だが、行動する人数は必ず4 の倍数だ。
 ウインドウがもう一つ開いて画像を表示した。やや粗い画質だ。飛行中のドローンからの撮影らしい。どこかのビル、おそらくはクイーンズスクエアの地下通用口の一つに、整然と入っていく背の小さな男たちの列が映っていた。無毛の頭部に、薄く細長いまぶたから覗く目は赤黒く濁っている。浅黒い上半身は裸で、そのほとんどが、ぞっとするような筋肉のようだ。全員の手に、形状やサイズはそれぞれ異なるが、いかにも切れ味の良さそうな武器が握られている。情報によれば、白兵戦能力には特筆すべきものがあり、近代火器と電子装備で武装したアメリカ海兵隊特殊対応チーム12 名が、2 人のトゥチョ=トゥチョ人に全滅させられたとの記録がある。
 「狙いは」私は声を潜めた。「私たちか」
 『わかりません』
 「どうやって逃げればいいんだ」
 『エレベーターで......すみません、訂正です。今、そこのエレベーターは全基停止状態にされました』
「トゥチョ=トゥチョ人が破壊したのか?」
『いえ、外部からのクラッキングです』
 トゥチョ=トゥチョ人がそんなスキルを有しているはずはないから、人類の協力組織の仕業だろう。
 『非常階段で降りてください。ソード・フォース分隊が急行しています』
 「ビルのネットワークに侵入されているなら」私は二人の子供たちに立ち上がるよう合図しながら訊いた。「防犯カメラで見つかるんじゃないのか」
 『侵入された直後に、防犯カメラだけは全部殺してあります』
 「わかった。状況が変わったら連絡してくれ」
 通信を切った私は、先に立って会議室を出た。左右を見回したが、人類にせよトゥチョ=トゥチョ人にせよ、気配はない。脱出ルートを確認しようと非常階段の方へ向かいかけたとき、再び通信が入った。
 『今、どこですか』
 「非常階段に......」
 『そっちはダメです』オペレータは鋭く遮った。『トゥチョ=トゥチョ人が上がってきているようです。偵察ドローンの集音マイクで確認しました』
 「どうするんだ」
 『ソード・フォース分隊があと20 分で到着します。何とかしのいでください』
 「そう言われてもな......」
 狩猟民族であるトゥチョ=トゥチョ人は、人間をはるかにしのぐ嗅覚と聴覚を発達させている。とくに嗅覚は、犬のそれにも匹敵するほどだ。こんな人工物ばかりのフロアに隠れたところで、すぐに発見され、鋭い槍で刺し貫かれて終わりだ。
 「トゥチョ=トゥチョ人の対応ライブラリはなかったか」
 『遺伝子的には、ほぼ人間ですから、対従者や対奉仕種族のライブラリは効果が......』
 「このビルの他の人間はどうなってるんだ」私は思いついて訊いた。「非常階段を使ってる人だっているだろう」
 『少なくとも8 人がトゥチョ=トゥチョ人に遭遇したことが確認できています』
 「それで?」
 『全員が、槍かマチェーテのような武器で......』
 「わかった、もういい」私は詳細が描写される前に遮った。「あいつら、何か弱点はないのか」
 『通常の人間と同じです。つまり、脳や心臓や主要な臓器が損傷すれば死にます』
 人間と同じ......。
 「オペレータ」私は急いで呼びかけた。「ショゴスの細胞培養って研究の実績があったな」
 唐突に変わった話題に、オペレータは戸惑ったようだが、すぐにキーを叩く音が聞こえた。
 『あります。12 年前、南極で回収されたショゴスの肉片に対して、再生実験が実施されています』
 「どうやって再生をしたんだ」
 『栄養を与えただけです』オペレータは少し躊躇った『その、血液を』
 私はポケットに手を突っ込み、ハンカチを出して開いた。生乾きの緑色の粘液が現れる。ショゴスの生命力は恐ろしく強いから、まだ細胞のいくつかは生きているかもしれない。
 「ナイフか何か持ってないか」私はサチに訊いた。「針とかでもいい」
 「何に使うんですか」
 「手を少し切りたいんだ」
 「は? いえ、あいにく......」
 「あの」ナナミが不意に申し出た。「縫い針ならあるけど」
 全員の視線が注目する中、ナナミはカバンからソーイングセットを出し、プラスティックの小さな円筒を私に差し出した。私は礼を言って受け取ると、中から縫い針を一本抜いた。
 「オペレータ。実験では、ショゴスが再生するまでどれぐらいの時間がかかったんだ?」
 『129 分で、体長60 センチほどになり、攻撃本能も確認できたとレポートが......』
 2 時間も待っていたら、トゥチョ=トゥチョ人たちは私たち4 人をバラバラにして、集めた耳でネックレスでも作っているだろう。私はセクションD を呼び出した。
 『セクションD、リンです』リンが応答した。『チーフ、何やってるの?』
 「全員、端末の前に座れ。オペレータ、分析部と同時通話」
 『岸です』サナエが会話に加わった。『何をするつもりですか』
 「今からショゴスを再生しようと思うんだが、大きくなるまで時間がかかる。対ショゴス系のライブラリに、増殖抑制関連のクラスがあっただろう」
 『ShogGrthInhiFung ですか』
 「それだ。セクションD、そのクラスを解析して効果を逆にするクラスを作ってくれ」
『逆?』リンの戸惑った声が訊き返した。『というと?』
「増殖を促進させるんだ」
『あ、なるほど』リンがポンと手を叩いた。『みんな聞いた?』
 たちまちセクションD のPO たちは、あれやこれやと議論を始めた。それを聞きながら、私はサナエに訊いた。
 「どれぐらいの血が必要かわかるか」
 『そっちには、どれぐらいの細胞があるんですか』
 「粘液が少し。指先ぐらいだ」
 サナエは近くの誰かと相談し、すぐに答えてくれた。
 『だったら、ポタポタと垂らすぐらいでいいんですが、量よりもむしろ継続して与えることが重要です。ある程度の大きさになるまでは、栄養の供給が途絶えると分裂して生き延びようとするようなので』
 「わかった。やってみる」
 少なくとも失血死するまで血を提供しなければならないことはなさそうだ。私はサチにタブレットを渡し、二人で非常階段の方に急いだ。その後ろからシュンとナナミがついてくる。会議室に隠れてろ、と言いかけて思い直した。これが失敗したら、どこにいても危険度は大差ない。
 非常階段のドアを開けると、ひんやりした空気が顔を撫でた。下の階から叫び声やくぐもった銃声に加え、ドカドカと足音らしき音が聞こえてくる。アーカムの警護部隊がトゥチョ=トゥチョ人と戦い、おそらくは敗北しているのだろう。訓練を受けているとはいえ、ソード・フォースとは異なり、その戦闘能力は民間の警備会社と大差ない。
 「ドアを押さえててくれ」私はシュンとナナミに言った。「何かあったら、構わないから閉じるんだ。何かあったらだぞ。慌てて私たちを締め出すなよ」
 シュンとナナミは緊張した顔で揃って頷いた。
 「オペレータ、QM 部に事情を説明して、待機してもらっていてくれ」
 『連絡済みです。夜間担当チームが待機しています』
 「助かる」
 私は次の踊り場まで階段を降り、床の上にハンカチを広げた。左手の親指の腹を針で刺そうとして思い直した。キーボードを叩くとき痛む場所は困る。少し迷った末に、人差し指の第二関節の横を刺した。たちまち血の玉が膨れあがり、ハンカチの染みの上にぽたりと落ちる。
 しばらくは何の変化もなかった。ショゴスの細胞が完全に死滅していたら、と不安がよぎったが、続けて血を垂らしているうちに、少しもハンカチに血が広がっていかないことに気付いた。ショゴスの細胞が貪欲に栄養素を吸収している、とわかったとき、緑色の粘液はじわじわと面積を拡大しつつあった。隣にいるサチが嫌悪感をこらえるように、ゴクリと唾を飲み込む音が届く。
 『チーフ』リンが呼びかけてきた。『一通りできたと思うよ。今、そっちに送ったから』
 「助かる。そのまま待機していてくれ」
 サチがタブレットをかざし、私が顔認証でロック解除する。優先マーク付きで受信したPython のソースは、自動でRunner に読み込まれていた。cOShog ライブラリのクラスは、全てinitialize()、setUp()、previous()、main()、after()、complete() のメソッドがあり、これらを順に実行することで効果を発揮する。Runner はこれを適切なタイミングで実行するアプリだ。SPU が破壊工作のために開ける侵入ポイントに対抗するロジックは、遠距離から実行しても効果を発揮するが、今回はSPU からの侵入ではないので、リモートオペレーションに必要な情報を得られていない。実行デバイスが目視できる距離に存在している必要があるのだ。

3-1.png
 main() メソッドをチェックしようとしたが、先にサナエが精査していてくれたらしく、問題点を列挙していた。
 『68 行目、エイボンに変更して』サナエは指示した。『71 行目、この手の初期化パラメータは定数クラスを使わないと、RR(現実度)が下がるよ』
 『りー』リンが答えた。『カズト』
 『ごめん、忘れてた』
 『77 行目、第2 引数......』
 『あ、それは今、気付いて修正しました』とハルが応答した。
 『他は大丈夫そうよ。あとリンちゃん、変な略語使わないで』
 『あーら、ごめんあそばせ』リンの含み笑いが聞こえた。『十代のうちに使っとかないとさ。よし、OK かな。チーフ、今度こそ完成だと思うよ』
 「よくやった。二人以上で目視したか」
 『もちろん』
 「QM 部?」
 『平行処理で確認しました』QM 部の誰かが答えた。『デプロイ承認済みです』
 「ありがとう。オペレータ。こっちに転送してくれ」
 すぐにタブレットが震動した。気がせくのをこらえ、パラメータの最終チェックをしていると、後ろから誰かが覗き込む気配を感じた。顔を向けると、シュンが興味津々な顔で画面を注視していた。後ろにナナミも立っている。
 「Python だ」シュンは興味深そうに囁いた。「これ、何をするプログラムですか?」
 「本来はショゴスの成長を抑制するクラスだが、これは、それを逆に推進するように変更してある。これ自体では実行できないからRunner に読み込んで実行する」
 「実行するとどうなるんですか。ビームか何か出るとか?」
 「いや」私は思わず苦笑した。「そういうことは起こらない」
 私はハンカチに視線を向けた。単なる二次元の染みだったショゴスの体液が、今の短い時間で厚みを得て立体となり、さらに拡大しつつある。すでに正体を知りたくもない器官の一部分も形成されはじめていた。公園でショゴスの成体を間近で目撃したシュンは顔をしかめただけだが、ナナミは口を押さえて嫌悪感を隠そうともせず、ハンカチの上のショゴス未満の細胞を見ていた。これでナナミも、ショゴスの実在を確信できただろう。
 ショゴスの細胞は確実に増殖を続けていたが、確かにこのスピードでは、期待する大きさになるまで数時間はかかりそうだ。私はタブレットに視線を戻すと、パラメータのチェックを急いだ。シュンも横から覗き込んでいる。
 「なんか、単純な構造ですね」
 「シンプルなのがいいんだ」私は最後までスクロールしながら言った。「よさそうだな」
 サチが頷いてRunner アプリをタップし、読み込んだばかりのロジックを実行させた。タブレットが短く震動し、すぐに静かになる。シュンは少し失望したような顔で私を見た。
 「これだけ?」
 「これだけだ」
 Runner アプリでロジックを実行すると、デバイスに内蔵されたグラフェンナノリボンの中に一連の量子化されたデータが生成される。生成されたデータは、アーカム・オーダーのどこかにある量子コンピュータ、マドソン・モーリーⅦ に瞬時に転送され、同時に何かの処理が実行されるらしい。瞬時というのは比喩ではなく、文字通りの意味だ。EPR(アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼン) 相関という、私には理解することも信じることもできない理論に基づき、情報が反映されるのだ。
 効果はすぐに現れた。それまでノロノロと広がっていた細胞群が、何の前触れもなく、急激に膨れあがったのだ。シュンとナナミは小さく叫びながら飛び退き、私も手の位置はそのままに、身体をできるだけ遠ざけた。
 それはすでに単なる細胞の塊ではなく、一個の醜悪なクリーチャーとしての姿を明らかにしていた。円筒形の胴と、数本の触手、感覚器官らしい窪みが、蠢きながら起き上がろうとしている。私のハンカチはすでに見えなくなっていた。
 『警備が全滅しました』オペレータが告げた。『すぐに上がってきます』
 「おい、君たち」私は振り向かないまま、シュンとナナミに言った。「ドアの向こうに行ってろ。駒木根さん、頼む」
 サチはタブレットをしまうと、二人を促した。
 「ほら、早く。さっきの会議室まで戻るわよ」
 シュンは目の前のショゴスの急成長から目が離せないようだったが、ナナミがその腕を掴んで、強引に階段を上がっていった。その間にも、ショゴスは仔猫ほどの大きさに成長を遂げている。垂らされる血だけでは足りないのか、蠢く触手が何本も私の方へ伸びてきた。
 『もう一階下です』
 いろいろな意味で限界だ。ショゴスは血を与えてやった恩も忘れて、小さく「テケリ=リ、テケリ=リ」と鳴きながら、私の腕に触手を巻き付けようとしているし、階下からは規則正しい足音が近付いてくる。
 「もうすぐ戻るぞ」私はサチに向かって叫んだ。「私が飛び込んだら、すぐドアを閉めてくれ、いいか」
 「どうぞ!」サチが叫び返した。「気をつけて」
 私はつま先で成長途中のショゴスの胴を踊り場の端まで押しやった。ひょいと下を見ると、身長120 センチほどのトゥチョ=トゥチョ人たちが、敵意に満ちた視線を投げてきたところだった。先頭の4 人が手にしていた短い槍を握り直したとき、私はそいつらに向けて、ショゴスを蹴り落とした。ショゴスは怒りの咆哮とともに、トゥチョ=トゥチョ人たちの真上にまっすぐ落ちていった。
 一人のトゥチョ=トゥチョ人が素早く反応し、槍でショゴスの身体を貫いた。緑色の粘液が散ったが、怒り狂ったショゴスはすかさず反撃に出た。太く成長した触手が、先頭の男の首に巻き付く。驚きと威嚇の声が上がった。四方から突き出された槍が突き刺さったが、ショゴスは意に介した様子もなく、次々に新しく触手を生やし、トゥチョ=トゥチョ人たちに襲いかかる。先頭の男の首がきれいに切断されたのを見届け、私は急いで階段を駆け上がり、ドアを通り抜けた。すかさずドアが閉ざされる。いいタイミングだった。
 「ショゴスは」私は肩で息をしながら、茫然としているシュンとナナミに言った。「人間なら見境なく攻撃する。トゥチョ=トゥチョ人は遺伝子的には人間だからな」
 『374、335』オペレータが呼んだ。『ソード・フォース分隊があと7、8 分で到着します。最初にエレベーターの機能を回復させるので、すぐに脱出できます。ビルの周辺は、ややパニック状態になっているので、まず地下3 階に降りてください。その先はまた指示します』
 「わかった。階段にショゴスがいる」私はやったことを簡単に説明した。「後の対応は任せる。ここで再生させた奴だから、抗体ロジックはまだ適用されていない。さっきの公園で使ったロジックが使えるはずだ」
 『伝えます』
 「さて」私はシュンとナナミに向き直った。「まあ、今みたいなのが私たちの仕事というわけだ。今日は現地で対応したが、こういうことは滅多にないよ。大抵の場合、安全なミッションルームでプログラミングをしてもらうだけだ。どうかな、加々見シュンくん。ちょっと興味深い仕事だろ。話だけでも聞いてもらえないかな」

(続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。本文中に登場する技術や製品は実在しないことがあります。

Comment(3)

コメント

名無しの既視感

>大抵の場合、安全なミッションルームでプログラミングをしてもらうだけだ。
以前似た言葉を誰かが言っていたような・・・うっ・・・頭が・・・w

匿名

かゆい うま

名無しの少尉

名無しの既視感さん

>以前似た言葉を誰かが言っていたような・・・
そうでしたか?誰だか知りませんが、後で叱っておきますね。

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